解説 歩隲
-学三設定-
「長湖部」の幹部会において諸葛瑾、厳畯ともども「三君」と呼ばれる名サポーターの一角。湖南学区の貧しい家庭の生まれで、本人も早くから年齢を偽り内職で日々の食い扶持を稼ぐという生活を送っていた。また独学で家庭菜園を作って収穫物を売ったりしており、そうして稼いだ金で経理の本を買っては学び、さらにその経営術でお金を稼ぎ…という、女子中学生らしからぬ行動が孫権の目に留まり、経理担当として「長湖部」に招き、孫家のコネで利子が格安の奨学金を受けさせて貰えるようになったとも言う。かといって生活環境が改善されるわけでもなく、特別に多くのバイトを赦されてもいる。
幼い頃から生活に困窮していたわりに、鷹揚で人を食ったような性格の持ち主で、基本的には始終金に余裕がないためおしゃれとか趣味とかには余り興味はないものの、情報集めには余念が無く流行には敏感で、その一環であるのか寮部屋にマルチーズばかり10匹も拾ってきて面倒を見ていたなんて事もあったらしい(発覚後は有志の手により無事全頭里親に引き取られた)。交州校区接収の礎を作ったことでも知られているように経理だけではなく軍才も優れており、本人は緊急回避程度に我流の護身術(どうも近所の道場練習を盗み見して覚えたらしい)しか武芸の類は持ち合わせておらず、高い指揮能力と戦略眼でカバーしている。
幹部会では常に顧雍とつるんでいたが、必要最低限の遊興費(付き合いでカラオケに行くなど)を除けば彼女に対してたかったりすることはなく、顧雍も無理に金品を押しつけるようなこともせず、単純に何処かウマが合うためかプライベートでは常に行動を共にしている。尚且つ、歩隲には何故か顧雍の声を聞き取る能力が備わっていた(本人曰く「異常聴覚の類は一切持ってないんだけど謎すぎる」とのこと)ため、顧雍の通訳としても幹部会にとっては欠かせぬメンバーである。
清廉を旨とし、己を律していたと評される歩隲にとって、最大の汚点として「二宮事変」において陸遜と意見を違え、幹部会から放逐した件が挙げられる。歩隲ほどの人物がなぜ…と、後代に惜しまれ、あるいは非難の嵐を受けたという。勿論当人も陸遜や吾粲、朱拠といった面々が政争の果てに表舞台から去って行くことに違和感のようなモノを感じ取ってはいたのだが、それに気づいたときには既に手遅れの状態となっていた。その状況から殺人的なスケジュールでなんとか長湖生徒会存続の道筋をつけたところで、過労により力尽きた。彼女は見舞いに現れた陸抗に、姉や従妹へ起こってしまった悲劇の原因になったことを詫びると共に、「戸締まりは頼んだ」と告げて長湖部の未来を託し、学園史の表舞台から去った。
-史実・演義等-
歩隲 ?~二四七
字は子山、臨淮郡淮陰の人。呉の文官系幕僚には中央の戦乱を避けて江東に移住してきた者が多いが、歩隲はその中でも武官として活躍したことで知られる。「呉書」によると、孔子の弟子のひとりである歩叔なる者の血を引いており、また前漢成立の時に功があって淮陰侯になった者も先祖に居たのだという。
比較的平穏だった江東へ逃れてきたとはいえ、頼るものもなく江東へ移り住んだために生活は困窮し、友人である広陵の衛旌と瓜を育ててそれを売り歩くことで生活費を稼いでいた。昼間は肉体労働に精勤し、夜は経書を読んだり解釈して勉学に励み、広く哲学や諸芸を究め、多くの知識に通暁していたという。あるとき会稽の豪族である焦矯のもとで生計を立てようとして、その食客が幅を利かせていたことから邪魔をされたくないと考えた歩隲は、自分らが育てた瓜を手土産に衛旌と一緒に焦矯の元に赴いたのだが、焦矯が自分たちを待たせたまま無礼な態度を取っていることを知って腹を立てる衛旌を宥め、出された食事を腹一杯に食べて退出する際「我々はただの貧乏人だ。貧乏人に対して当然の待遇をされたのだから、腹を立てることも恥に思うこともあるまい」と述べたという。
孫権が呉を支配するようになると、歩隲はその幕府に迎えられ、一度海塩県の長になったが一年ほどで病気のため免官されて呉郡に戻ったが、同じ頃に呉郡の孫権のもとへ召し出された際には諸葛瑾、厳畯と共に高い名声を持っており、一台の英傑であると賞賛された。建安十五(二一〇)年には交州刺史として任地に赴き、孫権に叛意を抱いていた蒼梧太守の呉巨を斬り、交祉の士燮一族もその威を恐れて恭順を誓った。その頃には呉に帰順を申し入れていた益州南部の豪族である雍闓らを受け入れているが、ある意味では諸葛亮が南蛮征伐を行う切欠を作ってしまっているとも言える。二二〇年には呂岱と交代で中央に戻り、その後夷陵の戦いで政情不安定となった荊州南郡の反乱勢力を一掃した。孫権が帝位につくと車騎将軍になり、陸遜に代わって西陵督となり、孫権が帝位に就くと驃騎将軍にまで上り詰めた。呂壱が孫権の寵愛をかさに権力を握ろうとした際には再三にわたって孫権に上奏を行って、呂壱の罪科を明るみに出して処断させることにも一役買っているが、その際に丞相の顧雍に上大将軍の陸遜、太常であった潘濬らの名を挙げ「彼等は世を憂うこと深く、主君(孫権)の股肱の臣であり、主君に背くようなことを致しません」と申し述べている。
「二宮の変」のいざこざの中で陸遜が憤死すると、歩隲は丞相となった。歩隲は丞相となっても奢ることはなく、子弟の養育に全力を注ぎ、清貧を貫いたというが、歩隲は孫覇派に属しており、全琮や呂岱共々特に咎を受けることもなく重責を任せられている事に対して裴松之は孫和伝の中で「歩隲が如何に高い名声と節義を持っていたとしても、このことをもって評価に値しない」と痛烈に批判している。なお歩隲が魯王孫覇に肩入れした理由は明らかではないが、彼が孫権の愛妾である歩夫人の一族であること、加えて歩夫人と孫権の娘である全公主(孫魯班)が魯王孫覇派の領袖であった事が一因として考えられる。仮にそうであれば、裴松之の評も致し方ないものであろう。
丞相になった翌年の二四七年、歩隲は世を去った。
-狐野郎が曰く-
呉の文官衆の一人として名をあげられることの多い歩隲、実際は官僚と言うより軍人としてキャリアを積んだ人物である。剛毅で、才能のあるものを余さず推挙する面倒見のよい人物であるという評だが、貧乏人として労苦を重ねながら、豪族に鼻であしらわれるような対応を取られたときも「俺たちゃ貧乏人だししゃあないしゃあない、うまいもんだけ食って帰ろうぜ」と衛旌を宥めるとか、只者ではない何かを感じさせてくれる…そう「二宮の変」の一件さえなければ、歩隲は最高の評価と名声「だけ」を後世に伝えられたはずだった。一族子弟の面倒見が良い歩隲のことなので、孫覇というよりむしろ魯班に肩入れしたのではないか、というのはあくまで想像の域を出ないことだが、だとしても(気持ちはわからなくも無いが)そのために陸遜を始めとした多くの者を死に追いやったことは、決して赦されざることである。裴松之が激おこになるのもむべなるかな。
「二宮の変」さえなければ(しつこい)人間性的にも「大物」な歩隲だが、狐野郎は学三環境でなかなかの食わせ者ぶりを発揮させている。顧雍とのタッグで行動させていることも多いというか、ほぼ顧雍とワンセットの扱いになっているものの、実際は歩隲は武官で顧雍は官僚なので活躍の場は大きく異なるんだよね。何気に歩隲をピックアップするような作品がなかったので、話の書きやすさだけでキャラを作ってしまった結果がこれ。夷陵回廊の決戦前には張昭に軽口言って怒鳴られてみたり、諸葛瑾のロバ耳が消えたら最後の最後まで馬鹿笑いしてたり、旭日祭の飲み会では危険を察知して顧雍と一緒にこっそりエスケープ。コレはコレで味が出てきて良いのだが…「二宮の変」が描きにくいキャラになってしまったのが本当に痛恨の至り。どうしたもんかねこれ。