解説 曹操


-学三設定-

その巨大さ故に、校区の実力者同士が互いに反目したり、己が学園を統べるべく相争うため全校区を巻き込んだ乱世が度々訪れる「蒼天学園都市」、その学園史にその名を燦然と残す風雲児。人呼んで「乱世の奸雄」。
地味に学園の理事会である「監査部」の有力者の一人を親に持つとも言われているが、本人はそのことに関して変に意識することも、それをかさに着て横暴な振る舞いをするなどということはなかったが、とにかく小賢しい知恵が良く回り、口喧嘩は大得意、それに輪を掛けて殴り合いの喧嘩は更に大得意という筋金入りのオテンバ娘。生来の燃えるような紅い髪がトレードマークの「小さく前にならえ」がよく似合う小柄な少女で、いつも遊び回ってるくせに学業成績はジャンルを問わず全部がきわめて優秀。そのうえ書道は小学生時代に段位を取るほどの腕前、絵画も様々な大会の特等を総なめにするセンスを持ち、挙句に作詞作曲もたまにやって公募に出して入選するなどマルチに才能を発揮する。こっそり酒を密造して、新しい醸造法を考案したなどというウワサすらあるという。
まさしく「万能の天才」だが、見た目通りかなり子供っぽく、口調はたいてい「…なんだよ~!」「…なのよぅ!」などと舌っ足らず。トランポリンで飛び跳ねてるかのように行動的で、周囲の人間をさんざんに振り回すことが多く、自由奔放としか表現しようのない性格の持ち主。しかし裏では独自に情報を集め、学園を統率する「蒼天生徒会」の腐敗を正して学園に覇を唱えるため奔走しており、幼馴染で「お姉さん」的存在でもあった袁紹に誘われて生徒会に入った曹操は、徐々に頭角を現しながらめきめきと実力をつけていった。
当初は真面目に意見書を作り改革に意欲を示したが、「家政部」に操られるまま自分の我が儘放題好き放題に振る舞うことだけを追求する当時の生徒会長「霊サマ」こと劉宏はそれを一瞥すらしない有様で、当時の「家政部」の中心的存在であった「十常侍」のリーダーである張譲にも目を付けられて外地の棟長に祭り上げられたことからすっかりやる気を無くし、中等部から慣れ親しんだ沛棟へ遁走し気ままな学園生活を満喫することにした。しかし蒼天生徒会の腐敗振りに業を煮やした多くの一般生徒が学園の歌姫・張角を担ぎ出して「黄巾事変」を引き起こすと、動乱期に入る学園の様子に何かしらの運命を感じたらしい彼女は、当時レディースのヘッドとして名を馳せていた従姉妹の曹仁、親戚として姉妹同然に成長してきた夏侯淵・夏侯惇らの仲間を集めて一旗上げるべく蜂起、蒼天学園の安寧を目指すという名目の元各地を暴れ回った。やがてそんな功績が認められたので中央政権に返り咲くも、今度は董卓の暴政に出会い、華北に勢力を張っていた袁紹など各地の有力者達を唆して「反董卓連合」を結成させるなど、自ら学園の動乱を加速させていく。
その後紆余曲折あって、唯一の学園公認新聞「蒼天通信」を刊行する蒼天新聞部トップの座を押さえ、董卓軍団残党の手から最後の劉氏蒼天生徒会長となる「献サマ」こと劉協の後見の座も強奪して学園屈指の群雄として名乗りを上げると、黄巾事変や董卓の暴政を嫌って中央から離れていた名士や、武勇に優れた者達をどんどん自分の麾下に迎え入れていき、ついには華北四校区を抑え「最も新生徒会政権樹立に近い」といわれた袁紹を打ち破って学園の三分の二をも支配するまでになった。その後は「同族の本家たる劉氏生徒会を復権する」という題目で学園に覇を唱えんとする「帰宅部連合」総帥・劉備と、長湖部湖畔の校区でそこから新しい威風の政権樹立を目指す「長湖部」の長・孫権と三つ巴の政権が覇を争い、彼女らと鎬を削ることとなった。とはいえ劉備達や孫権達に対して怒りを覚えることはあっても憎しみを持っていたことはなく、表向きは敵愾心むき出しにしていたものの、内心は彼女らの主張をもしっかりと受け止め、むしろ「どの正義が学園を制するのか?」と常に心を躍らせている節があった。
「人材コレクター」という渾名通り、優れた能力や人間離れした特技を持つ者と交流を持つことへの意欲はまさしく異常の数倍であり、特に劉備に対して義侠的に従う「武神」関羽に対しては妙な粘着気質を最後まで持ち続け、自他共に認める「羽厨の中の羽厨」であった。その関羽が長湖部に敗れ学園を去って間もなく、卒業をひかえていた彼女も学園の表舞台から去ることを決意。彼女が学園に残したあまりにも巨大な「遺産」は妹の曹丕や曹叡、そして司馬一族へと引き継がれていった。
あまりにも成したことが多く、後にこの動乱期を「学園三国志」というレポートにまとめた陳寿も「こんなヤバい人物を【英雄】程度で形容するのは無理がある」と絶賛することしか出来ない有様で、ある意味「課外活動」という箱庭を心行くまで満喫しつくした存在と言えるのかも知れない。


-史実・演義等-

曹操 一五五~二二〇
字は孟徳、幼名を阿瞞あるいは吉利とも伝わる。沛国譙県の人で後漢の大長秋曹騰の孫に当たるが、実際は宦官の曹騰に、曹操の父である曹嵩が養子になったという関係である。因みに曹嵩は夏侯氏の出であるとされ、後に麾下の重鎮となる夏侯淵や夏侯惇とは従兄弟の関係になり、系図の上では曹仁や曹洪とも近い親戚という関係であった。
曹操は幼少より機知に富み、撃剣の名手であったが、侠を気取って品行を整えなかった為、梁の名士で三公を歴任した橋玄を除けば彼を評価する者はほとんど居なかった。橋玄が人物鑑定の大家である許子将に引き合わせることでようやくその名が知られるようになり、このとき許子将が下した「治世の能臣、乱世の奸雄」という評価は、曹操という人物を言い表す上での決まり文句になった感もある。やがて孝廉に推挙され、当時「党錮の禁」などの大粛正と、それを引き起こしていた「十常侍」などの宦官が権勢を振るい腐敗しきった政治を正すべく多くの上奏を行うも顧みられることなく、漢朝に失望した曹操は三十路の若さで郷里に戻り隠居してしまった。
ところが時代は彼の悠々自適など許さず、一八四年に黄巾の乱が始まると騎都尉に任じられ、賊徒掃討のため各地を転戦し活躍した。やがて大将軍・何進と宦官達の対立による政権の混乱に乗じた董卓が政権を奪取すると、董卓の招聘を袖にしてひそかに都から逃れ、陳留の地で私財を投じて兵を集めて挙兵し、賛同した諸侯と共に反董卓連合軍を結成した。連合軍がやがて空中分解すると、曹操は兗州に赴き、その地に進入した青州黄巾賊の残党を撃退し、盟友である張邈らの支援を受けて州牧となった。このとき、三十余万の降兵を受け入れ、その中から精強な者を選んで直属軍とした。これが世に言う「青州兵」であり、青州兵は以後曹操軍団の中心的な部隊となった。
曹操は勢力基盤を得たのを機に、隠棲していた父・曹嵩を自分の下に招き寄せたが、その道中で曹嵩が徐州刺史・陶謙の攻撃を受けて殺されてしまった。激怒した曹操は徐州に攻め入り、道すがら無辜の民を虐殺して進むという暴挙に出てしまう。これは正史でも記す曹操の汚点のひとつであり、これひとつとっても演義で悪役にされてしまう素地があったといっても良い。結局そのときは、兗州で張邈、陳宮が共謀して呂布を抱き込み、その地で反乱を起こしたため中途で引き上げている。
兗州を再度平定し、長安の動乱を避けて逃れてきた献帝を奉戴した曹操は劉備と協力して袁術、呂布を滅ぼし、やがてかつての親友であり、河北を支配する覇者となった袁紹と官渡を挟んで対峙する。圧倒的不利な状況から曹操は烏巣の食料庫を急襲して袁紹軍を撃破し、その後数年で河北の地を平定し、さらには北方騎馬民族の脅威も打ち払ったことで広大な魏国の基礎を築いた。
南征は劉備・孫権の連合軍に阻まれ、赤壁で敗れたために頓挫したものの、その後涼州、漢中を平定し、勢力を拡大した。その間に曹操は魏公となり、そして王位に就いた。そして孫権と連合して荊州の関羽を討つが、その翌年(二二〇年)の年明け、曹操は六十六歳で世を去った。諡して武王、その翌年曹丕が帝位に就くと太祖武皇帝に改められた。
曹操はとかく人材を集め、儒教社会の当時では異例とも言える求賢令も発令した。その他屯田政策も積極的に実施し、それらのことで彼は覇者たりえたのである。「孫子」に注釈を付けるほど軍略に通じており、政治や軍略の才能だけでなく、文学面での才能にも溢れ、彼と息子の曹丕、曹植と揃って、李白や杜甫の登場までは「詩聖」と称された。さらには「九醞春酒法」という、現在でも日本で行われる「段掛法」と呼ばれる酒の醸造法も編み出したとされる。陳寿は評に「そもそも並外れた人物であり、時代を超えた英傑と言うべきであろう」と絶賛している。なお余談だが、そんな大英雄曹操も容姿は冴えないもので本人もそれを気にしており、異民族の使者から謁見を受ける際には部下の中から威厳のある容姿の者を影武者として応対させたというエピソードがある。
演義では劉備に対する最大の悪役、あるいは敵役として語られる他、三国志の時代でも「曹瞞伝」など悪口集のような書物まで書かれてしまうなど、司馬懿共々長いこと「悪の権化」として忌み嫌われる一方、随所に見られる人間臭さからその生き様に魅せられるファンも多い。横山光輝「三国志」で赤壁の戦いに敗れた後、逃亡する先々で死亡フラグ的な発言を繰り返しては劉備軍の伏兵に奇襲されるお約束から、華容道で関羽が姿を見せたときの「げえっ関羽!」と驚愕するシーンはある種のネットミームと化してもいる。さらには「帰正史運動」によりその業績について再評価されるにつれ、中華史上は勿論世界史全体で見ても偉大すぎる英雄の一人として認知され始めている。また近年では「蒼天航路」(原作李學仁・作画王☆欣太)という作品で主人公として描かれたことでも有名で、新たな曹操像が構築されているのは確かである。その「蒼天航路」の当人の台詞を借りるなら、二千余年の時を経てようやく「曹操は曹操となった」と言ったところだろうか。
その陵墓については長い間不明とされていたが、2005年に中国河南省安陽市安陽県安豊郷西高穴村で発見された陵墓がその可能性が高いことから調査が進められ、2018年に魏武帝陵と断定、公表された。発掘された曹操の遺骨とみられる遺骸から、生前の彼は虫歯や歯周病に悩まされていたとみられている。


-狐野郎が曰く-

正直今更、こんなネットの場末でいちいち評を下すような人物でないことは確かで、とかく語り尽くされた感もある。演義では悪役でありながら「もう一人の主人公」といっても過言ではなく、歴史の上でもその業績はあまりにも大きい。確かに多くの敵を作り、徐州の大虐殺など人道的には決して赦されないこともやっている。だがそれでもなお、その言動には人間的魅力に溢れ、関羽の侠にも感じ入るなど、決して蛇蝎の如く嫌われていただけではないものを感じさせてくれる。「曹操の話をしてたら曹操が来た」なんて諺が中国にあるくらい、一周回って親しまれていた感すらある(ちなみにこの諺を日本でいうと「ウワサをすれば影が差す」である)。
長いこと「悪役」の代名詞であった曹操だが、先述したとおり「蒼天航路」という作品が世に出たことでこれまでの曹操像が刷新される一方、いわゆる「萌え三国」の代表的作品とも言える「恋姫†無双」では演義ベースの作品で形成された「悪役としての曹操」をデフォルメしたような曹操像が生み出されるなど、今なおそのイメージは変化し続け広がりを見せていると言えそうだ。狐野郎もユリウス・カエサルだのアレキサンダー大王だのチンギス・ハーンだの世界を席巻するほどのバケモノ共()についての知識を深めるようになった現在においても、それでもやはり「曹操ってやっぱり掛け値無しのバケモノだよな」と思う(勿論良い意味でだ)。というか軍事政治だけでは飽き足らず文学面でも「建安文学」の主導者で当人も多くの詩作を後世に残し、挙句現代まで残る醸造法まで編み出したとかホントなんなんだこの人。華佗はなんか曹操を恐れて自分の医術知識を道連れに刑死したけど、もし華佗が曹操に協力姿勢を見せていたら医学の歴史も二千年ぐらい進歩してたんじゃねえのかって思うほどだ。日本では長く「第六天魔王」こと織田信長公と曹操を重ねて考える者が多かったが、確かに当時の日本では別格級に広い視野を持った魔王信長をもってしても、「超世の傑」曹操の対抗馬にはなり得ないこと甚だしいと言わざるを得ない。つかコーエーの無双シリーズだと曹操と信長って瓜二つの顔してる気がするんだけど決して気のせいじゃねえよなこれ。つまりコーエーが悪い
ちなみに曹操の容貌については正史武帝紀にも記述があり、外国の使者相手に厳つい風体の影武者を用意していたというのも実話であるようだ。そんな見栄っ張りな一面は「時代を超えた英雄」というにはあまりにも可愛らしいとすら思える。やっぱりこの人、そこいらの「英雄如き」とはなんか違うんだろうな。まあ「蒼天航路」の曹操を見てるととてもそんなことしているようには…いや、あの曹操なら逆に面白がって、嫌がる惇兄辺りを嬉々として正装させて玉座に着かせてそうではあるよな。
さて、曹操の詩には「短歌行」という作品がある。「蒼天航路」にも登場した「神亀は寿しといえど寛わる時あり、天とぶ蛇は霧に乗るも終には土灰となれり…(中略)…志は千里に在り、(烈士は暮年にあろうとも)壮心は已まず」というアレだ。この歌にこそ、曹操の人生観みたいなものが集約されている、なんて言ったら大袈裟だろうか。曹操のことなので、同作品で孔融に言ったように「俺の感情を言葉にしていいのは俺だけだろ」と窘めてくるかもわからんね。
学園三国志においても、その顔といっても過言でない曹操。赤髪のチビスケで、行儀や品行と言った言葉とは無縁のおてんば娘の反面頭脳明晰、成績優秀で先生とかの前では借りてきた猫のように大人しくしているとか、そんな日々の光景が目に浮かぶようだ。ストーリーの基幹部分や人物設定に「蒼天航路」の影響を多かれ少なかれ受けている(まぁ、なにせ狐野郎含めほとんどその読者ばっかり集まってた感じではあるが)学三の面々の中では、意外にもそれにインスパイアされたキャラ付けをされているSSは無かったように記憶している。「ならばよし!!」とか言いそうなイメージは確かにあるんだけど、誰も言わせてないんだよなあ。ちょっと意外ではある。
なおカラーリングの一部のみ、本家絵からわずかにいじっているがまあ騒ぐほどのことじゃ以下略(