解説 呂範
-学三設定-
孫策が袁術の元で飼い殺しの状態にあったころ、その評判を聞きつけて孫策自ら親交を結びに行った寿春棟の顔役。
呂範は袁術を嫌って面会の誘いをあの手この手で拒絶しまくっていたが、孫策と話をするや意気投合してその友人となった。間もなく孫策は独立の下準備として、徐州校区に身を寄せていた孫権への迎えを呂範に依頼したが、かつて孫堅といろいろ確執のあった徐州校区総代の陶謙は呂範を孫策のスパイだとして捕縛した。それを知った呂範の旧友たちはキレるが早いか徐州にのりこんでひと暴れして呂範を開放、呂範はそのドサクサに紛れてまんまと孫権を保護して戻ってきた。このことから孫策は身内同然の待遇を呂範に与え、揚州学区へ攻め込んでいった際にも、軍団の綱紀粛正を任せて大きな治績を挙げるに至る。
孫策が独立した頃、呂範に部の会計を任せていた際に、孫権は幾度となく小遣いをせびりに来ていたが、その都度いちいち孫策に報告されていた(挙句そのほぼ全てが却下されていた)事で恨んでいたが、後々孫権が長湖部の領袖となると当時の呂範の行動を大いに讃え、同時に制服を改造したり校則で禁止されているピアス(しかもかなり高価で派手なヤツ)の着用に関しても特別に不問にしたという。このことからハデ好き女としても有名で、形式ばったことを好んで後輩にもそれを強要する一面もあったが、仕事ぶりも真面目で(服装以外の)校則もきちんと守って周囲の模範生となっていたことから、幹部会を担う陸遜達からも一目置いて扱われていた。
運営手腕、軍才共に優れており、蒼天生徒会の大攻勢に際しては張遼の軍団を防ぎきれずに敗走はしているものの防衛そのものは成功させ、実働部隊の重鎮として重きを成した。その引退に際して、長湖生徒会挙げての大歓送会のステージで同じくハデ好きとして知られた賀斉らと組んでメチャクチャド派手なパフォーマンスで舞台を沸かせてのけた。
-史実・演義等-
呂範 ?~二二八
字は子衡、汝南郡細陽県の人。正史にはその容姿について、おし出しが立派で風采が上がったと記している。
若くして県の役人となり、その郷里に劉氏という人が居て、呂範はその人の娘を妻にと望んだ。劉氏の妻はそれが気に入らなかったらしく、何かと理由をつけて断りたがっていたが、劉氏は呂範が大事を成せる人物だと見込んでおり、妻の意見を退け結婚を許した。後に戦乱を避けて寿春に移り住んだが、孫策はその人物を高く評価すると呂範は孫策に臣下の礼をとり、食客百人あまりを従えてその部下となった。それからすぐに孫策の母親(呉国太)が徐州の江都におり、孫策は呂範を使者としてそれを迎えに行かせることになったが、孫策を忌み嫌っていた徐州刺史陶謙はそのことを知ると、徐州入りした呂範を袁術のスパイと言う嫌疑をかけて捕縛して酷い拷問にかけた。呂範はじきに子飼いの者が役所に殴りこみをかけたことで救出され、その任を全うできたようである。当時、孫策に付き従っていたのは孫河と呂範のふたりだけで、孫策の身内同然に待遇された。
孫策が江東平定戦に打って出るとそれに従軍し、劉ヨウの勢力が一掃されると呂範は兵二千・騎馬五十を指揮する大将となり、その後丹陽の不服従民を平定した功績が認められ都督に昇進。このとき、孫策に軍の弛緩を指摘し、芝居を打って無理やり都督の職を貰えるように芝居を打ったと言う逸話が残っている。当時呂範はそれより上の職務を任されていたため、孫策は呂範の申し出を突っぱねたものの、結局やむを得ず呂範を都督としたところ、程なくして軍の規律はよく守られるようになったという。
孫策が不慮の事故が元で世を去ると、呂範は任地から駆けつけ、そのまま孫権に仕えた。江夏討伐の折には、張昭と共に後方の守備を受け持ち、赤壁の戦いでも周瑜に従って戦った。呂範は劉備が呉に訪ねて来た際、このまま劉備を留めて置くようにと献策したが、聞き入れられなかった。後に関羽を攻める折になると、孫権は「以前君がいったことに従っていれば、このような苦労をせずに済んだものを」と言ったという。そのとき建業の守備に当たっていた呂範は、孫権の帰還後に建威将軍・宛陵候の爵位を受けた。魏の大軍が三路より攻め下ってくると、呂範は徐盛、全琮、賀斉、孫韶らを指揮して守備に当たり、それに際して前将軍の位を与えられ、南昌候に改封された。徐盛らの活躍に加え、暴風と疫病の蔓延により魏軍は大きなダメージを受け、撤退を余儀なくされた。この功績により、揚州牧に任命された。
二二八年、呂範は大司馬に任命されたが、その印綬が彼の元に届く前に、病死してしまった。孫権は彼のために喪に服し、後に彼の墓を訪ねた際も、孫権は呂範を偲んで一言「子衡殿」と呼びかけたきり、言葉を続けられず涙にくれたという。なお、呂範の死後、その長男が既に若死にしていたため、次男の呂拠がその爵位を継いだ。
このような話もある。孫策はあるとき、呂範に会計事務の仕事を任せることになったが、孫権は度々呂範に金の無心をしてきた。呂範は必ず孫策の許可を求め、孫権には好き勝手に金を使わせなかったこともあり、孫権はこのことから初め呂範を嫌っていたが、後に孫権が幕府を持つようになると、呂範の節度を大いに褒めて信任したという。逆に、当時孫権のために帳簿を書き換えしていた人物は、その当時こそ孫権に気に入られたものの、後に「勝手に帳簿を書き換える人間など信用できない」ということで遠ざけられてしまったという。一方で呂範は家屋から衣服に到るまでかなり豪華なものを取り揃え、身分不相応として糾弾する者がいたほどだが、孫権は呂範の功績と、常日頃から呂範が規律を守って仕事に励んでいたことから、特に咎めることはしなかった。また呂範は格式ばったことを好んでいたといい、陸遜らの士人は皆彼を敬い、丁重にもてなしたという。
-狐野郎が曰く-
三国志演義では朱治と共に、孫策挙兵のキーマンとなっている呂範。このとき演義では朱治共々袁術の部下という立場だったのだが、実際は陳武や周泰、蒋欽と同じように、雌伏中の孫策に敢えて仕官して来た人物の一人だったりする。
演義では触れられていないがとにかくハデ好きだったらしいことが伝に触れられていて、功績が大きいこともさることながら人柄やその立ち振る舞いからも特別に孫権から不問にされていたのみならず、陸遜らの士人からも一目置かれていたり、陶謙に捕らわれた時だって、食客たちが危険を顧みず役所破りをしているくらいだから、人格そのものは立派だったのだろう。自分の贅沢のため、部下に金持ちがいたらそいつを殺して財を奪った誰かさんとは比べるまでもない(言い草)。
演義ではどちらかといえば文官寄りの扱いだが、学三呂範は正史準拠の生粋の武闘派。狐野郎の某作品では截拳道の達人などという扱いをされている。玉絵ではそういう特徴が見出せなかったのであるが、挿絵をリファインするに当たりハデな装飾品をいくつもデコってみた。ちなみに制服を改造してたなんて設定も本家にはない、狐野郎による後付設定である。