解説 張嶷


-学三設定-

益州校区巴棟の運営スタッフ(という名の下働き)であったが、帰宅部連合の益州攻略戦時の混乱で棟長が雲隠れした際、取り残されたその妹を暴徒から救出して名を馳せた烈女。神経性の難病持ちであったが、それでも武芸、学業に精を出し、細かいことには頓着せずラフプレーも多かったため、上流階級層から眉を顰められることも多かったが、裏表のない好人物でもあったため慕う者もまた多かった。
諸葛亮の引退後、俄かに周辺男子校勢力が不穏な動きを見せ始めると、その為に誰もが行きたがらなかった南中総括の任務に志願。彼女は飴と鞭を巧みに使い分けるとともに、信義をもって対等の対話を続け、やがてその人気は諸葛亮よりも高まっていった。同時進行で馬忠と組んで、終末思想にとらわれ自棄を起こした連合内不穏分子の鎮撫にも当たり、内患平定のプロフェッショナルとしてその地位を盤石のものとしていった。
連合に身を寄せて間もない夏侯覇が、人づてに聞いた彼女の人柄に惚れ込んで、ある時交友関係を持ちたいと嘆願(告白?)したが、張嶷は「あたしとあんたはまだ知り合って間もないから、お互いの事なんてまだよくわかってないじゃん。もう半年くらいして、それでも気持ちが変わらなかったらもう一度そう言ってよ」と、逸る夏侯覇を宥めたことは連合の語り草となった。しかし、それからひと月も経たぬうちに狄道の学園無双に臨むこことなった張嶷は、苛烈な撤退戦の中で持病の発作に苦しみながら、単独で蒼天会軍の徐質旗下の師団を潰走させ、陳泰率いる本軍も追撃不能になるほどの大損害を与えるものの、その激戦の中で力尽きた。
「友」となれたかもしれぬ存在のリタイアに夏侯覇は殊の外悲しみ、彼女が洮水で玉砕するのもまるでその後を追うかのようだったという。一般生徒となった二人が「友」となれたかどうか…その結末は、秘話の域を出ない。


-史実・演義等-

張嶷 ?~二五五
字は伯岐、巴西郡南充国の人。
二十歳で県の功曹となった。劉備が益州を平定した頃に県で山賊が蜂起し、県長は領民どころか家族さえ見捨てて逃亡する有様であったが、張嶷は県長の夫人を救出して名をあげた。それが切欠で従事として召し出され、多くの名士たちと交わった。後に重い病にかかったとき、彼は貧乏だったゆえ薬も満足に変えない有様であったが、博愛で知られた広漢太守の何祇に懇願したところ、何祇は私財を投じて張嶷の療養に尽くしてくれたため、何とか回復することが出来たというが、それもこうした交流によってもたらされたものであるという。
二二七年、諸葛亮が漢中に赴いた際、広漢・綿竹の山賊たちが略奪行為を繰り返し、張嶷はその平定のため都尉に任じられた。張嶷は彼らを一網打尽に捕まえることは難しいと感じ、和睦と偽ってその頭目たちを呼び寄せ、酒宴の最中に頭目たちを総て斬り殺し、残った賊徒も十日を待たずして壊滅した。
やがて牙門将に任じられ、馬忠の配下として国境を脅かす異民族の反乱平定、もしくは鎮撫に当たったが、彼はその地を治めるときには恩愛と信義を第一にして彼らを招き寄せた。武都周辺の氐族の王苻健が降伏を願い出たものの、約束の日を過ぎても苻健がやってこないことに大将軍の蒋琬(張嶷伝では二五一年の事としているが、蒋琬は二四五年に亡くなっている為後任の費褘の間違いか、二四一年の出来事であるのが正しいと思われる)が心配したが、張嶷は苻健の信義を信じ、その弟が狡猾な性格であったことからきっと変事があったのだろうと述べたが、張嶷の思った通り苻健の弟は一族郎党引き連れて魏に降り、苻健一人だけが張嶷の元へ身を寄せてきたという。それより前の二三九年、張嶷は南中が諸葛亮死後反乱が相次ぎ郡太守がたびたび殺されて、誰も南中に赴任したがらないことから張嶷を越雋太守として派遣したが、張嶷は瞬く間に不服住民たちを慰撫して帰順させた。そうした異民族のひとつである捉馬族は勇猛で、なかなか従おうとはしなかったが、張嶷は族長の魏狼を生け捕って厚遇を加え、説得して捉馬族を帰順させると、魏狼を候に封じる上表をした。こうした張嶷の行動に、他の異民族も続々と恭順を誓うようになったという。また、結局恭順を誓わず滅ぼされた民族もあったが、その縁者が復讐しようとすると、その生き残りをその人物に預け、自分の意図をしっかりと伝えたため、その人物は以後反乱を起こすどころか、長きに渡る戦乱で荒れた道路や宿場を改修するようになった際、一族を上げてそれに協力すらした。そうしたことから、張嶷は非常に異民族に慕われており、郡太守として十五年して都に戻ることになると、張嶷との別れを惜しんだ現地の民は涙ながらに彼を見送ったという。
張嶷は優れた軍才と見識を持ち合わせていることでも知られ、諸葛恪が軍を起こした時も必ず失敗すると見抜き、大将軍の費褘があまりにも降伏者を信用しすぎるのを戒めていた。気ままな行動が多く嫌うものも多かったという一方で、その気概を士人から愛され、当時、蜀に身を寄せて間もない夏侯覇が「あなたとは疎遠でありましたが、旧知の人と同じようにあなたを慕っております。どうかこの気持ちをはっきり知ってください」と訴えると張嶷は「我々はまだお互いを深く理解しあえていませんし、友情の大きな道は努力の彼方に有るものです。願わくば、三年経ったあとに、もう一度その言葉をお聞かせください」と述べた話も伝わっている。
中央に戻ってきた張嶷は、姜維の北伐に参加する。狄道で魏将徐質の軍と死闘を繰り広げ、その陣中で落命することとなったものの、敵軍に与えた損害は凄まじいものであったという。二五五年のことであった。
張嶷が亡くなると、その子が候に封じられたが、南方の異民族たちはその死を知るとことのほか悲しみ、廟を建てて四季ごとに祭ったという。


-狐野郎が曰く-

演義では蜀の一将でしかないが、諸葛亮死後に周辺他部族の鎮撫に多大な功績を残し、実際諸葛亮以上に慕われた事でも知られる名将である。どこぞの「爆笑三国志」では「諸葛亮の南征は実際張嶷が主導したのを諸葛亮の手柄として羅貫中のアフォが演義に書いた」などとすっとぼけたことを書いているが、二二六年の南中遠征は諸葛亮主導なのでとんでもない出鱈目である。今思うに爆三のライターって孫盛とかの生まれ変わりばかり集めてるのだろうか?と思うくらい内容がめちゃくちゃなので、あんなものは絶対鵜呑みにしてはならない。狐野郎との約束だ(
話は脱線したが、先述したように張嶷が周辺部族相手の折衝に活躍し始めるのは諸葛亮死後である。諸葛亮も「(南中平定後)諸葛亮が死ぬまで再び叛くことはなかった」とその伝に記される治績を残しているが、張嶷の場合はその死を知った住人達が彼の為に廟を建て、四季の祀りを欠かさなかったというからそれ以上であったろう。馬謖が言った「心を攻めるを上策」とガチで実行できたのは、彼の方であろう。兎に角信義を大切にしたことがその伝から伺え、、夏侯覇とのやり取りもさることながら、最後の戦いになった狄道の戦いでは、麻痺症の持病をおして出陣したときに述べた言葉で劉禅も心を動かされているほどだ。そんな彼を「勝手気ままだ」といって嫌っていた奴らはいったいなんなんだろう。わざわざこんなことを伝に書いてるってことは、陳寿はむしろ(一般的にニュービーが勘違いするように)諸葛亮ではなく張嶷の事が嫌いだったのではないのだろうか。
学園三国志では狄道の戦いのSSがすでに寄稿されている状態で、収録された際はあまりの神展開振りにお祭状態だったことがスレから伺えた。著者曰く展開に元ネタはあるらしいが、こまけぇことはいいんだよ!!みたいな感じで誰も気にしちゃいないし、そもそも何を元ネタにしているのかは明言されてなかったので知る由はない。なお同じ頃に投稿されたキャラスレの記述では、学三張嶷のモデルは「月姫」(というより派製作品の「Melty Blood」)に登場する弓塚さつきであるらしい。さっちん確か栗毛では?ボブは訝しんだ(