解説 諸葛亮
-学三設定-
揚州学区を担当する「不良警察署長」諸葛豊の次女で、学園史上最高とすら言われる天才的頭脳の持ち主であったが、学園動乱にいっさい参加せず、趣味の読書をひとりで楽しんでいた変わり者。博識で基本的に大人しいタイプのように見えるが、一度しゃべり出すとその弁舌は何人たりとも異論を差し挟めぬほどで、とことんまでに「萌え」や「燃え」というものを追求し続ける、色んな意味で変人。自分の興味のないものに対しては冷酷ですらあるが、入れ込むととことん尽くすもしくは徹底的に憎悪するという、妙な粘着性がある。
趣味は発明と同人誌製作で、己の様々な欲望を満たすためには他人の迷惑など屁とも思っていない。実姉の諸葛瑾に言わせれば「重要に思えることにも絶対本気を出さないかと思えば、どうでもいいように思えることに異常な才能を発揮することがある。というか、大概は自分の才能の使い方を間違ってるようにしか見えない」と散々にも思える評であるが、それが劉備という最高のパートナーに巡り会ったことで世に出てしまったのだからたまらない。巨大な学園組織をみっつに分割し、その上で学園の中心とも言える重要地である荊州学区を得て統一を目ざす「草蘆対」という戦略を提唱し、そのために長湖部と結ぶ大戦略を描いて実行に移していくのだが、曹操に敵対して長湖部と同盟を結ぶように主張したのも(大局的には学園統一の目的には完璧なまでに合致する戦略ではあったのだが)、曹操の幕僚には萌えの要素が少なく、対して長湖幹部会はツンデレと眼鏡っ娘の宝庫だったからという実にしょうもない理由があったからだと言う者すらいる。その割には密かに司馬懿や陳羣といった蒼天生徒会の中枢と文通して交流を深めるなど、その行動一つ一つにいちいち整合性を持たせるのは難しい。
直観で行動しているように見えながら意外と理論立てて行動しているらしく、なおかつその能力そのものは本物で、どんなにおちゃらけた態度を見せていても仕事振りそのものは正確で途轍もなく早かった。特に数的な管理能力は人間離れしており、徹底的な資金管理で帰宅部連合の各グループに十全な活動資金を供給しつつ帳簿を誤魔化して私的な研究費等々を捻出し、その事実が発覚したのは帰宅部連合が解体されて以降のことだったという。人物を使い分けることにも長けており、子飼いの盟友たる馬謖、楊儀、蒋琬といった「荊州派閥」と呼ばれる連中の他にも、私情の上では毛嫌いしていた魏延の能力も認めていて、如何に彼女の欠点を補いつつ活用していくか腐心していたようだ。だが、馬謖を溺愛するあまり劉備の忠告を聞かず、馬謖に重要任務を与えそれが戦略的な大失敗を犯すのみならず敵前逃亡するという、あるまじき大失態を演じた際にはさすがにショックで寝込んでしまうという一幕もあった。劉備の卒業後は副部長として劉備の妹・劉禅を盛り立てるが、劉禅の天然ボケぶりに呆れながらもやがて学業をそっちのけにして連合の運営に心血を注ぐようになる。その上で生徒会相手に無茶な「北伐」を敢行し善戦を重ねるが、その激務ゆえに体調も崩し、挙句に進級のための必要単位を取得しきれず強制退部を余儀なくされた。
常に白衣を身にまとい、オリジナルデザインの妙な扇子や、時代錯誤にも見えるジュリ扇などを携えている。黙って立っている分には中々の美人で、プロポーションも抜群なのだが、口を開くと損をするタイプである。無論当人はそんなことカケラも気にしていない。また常に研究室に閉じこもってデスクワークに没頭しているイメージとは裏腹に、決して運動音痴ではなく、実はかなりの行動派でもある。
-史実・演義等-
諸葛亮 一八一~二三四
字は孔明、瑯琊郡陽都県の人。呉の名臣・諸葛瑾の弟(実弟ではなく族弟という説もある)で、漢の司隷校尉諸葛豊の子孫とされる。
諸葛亮は幼い頃に父を病で失い、戦乱を避け、豫章太守となった叔父の諸葛玄の元へ身を寄せた。諸葛玄が太守の役目を代わって劉表の元へ赴くと、彼もそれに従ったが、諸葛玄の死後は隆中に移り住んで晴耕雨読の生活に入った。彼は常々己のことを管仲(春秋時代、最初の覇者となった斉の桓公を補佐した名宰相)や楽毅(戦国時代、燕を援けた名将)になぞらえていたが、多くの学友が自惚れと一笑に付すなか、徐庶など一部の者はその通りだと称揚したという。流れ流れて荊州の地にたどり着いた劉備は、徐庶の紹介で諸葛亮を己の臣下として求めた。そのときの「三顧の礼」のエピソードはあまりにも有名な話だが、この一件は正史諸葛亮伝にも記述があるものの異説も多く、中には諸葛亮自身が直接劉備の元へ赴き、自分の才能をアピールして売り込んだというものもある。
曹操の南征を避けての逃避行の後、諸葛亮は単身孫権の下に赴き、それを説得して曹操に当たらせようとした。孫権も魯粛らの説得があって曹操と戦う決心をし、赤壁にて曹操の軍を撃破した。諸葛亮はその隙に荊州の南四郡を奪取するように動き、劉備を荊州牧の位につけることに成功する。その後、法正らの策謀による益州奪取には最初は参加せず、荊州の守りに当たっていたのだが、劉備の軍師として随行していたホウ統が思いもがけなく戦死すると、彼は益州に赴いて劉備を助けた。そのあと、二一九年に劉備が漢中を平定すると、朝廷に上表して劉備を漢中王の位につけた。劉備が帝位につくと丞相となったが、劉備は趙雲らの諌止を振り切って大々的な孫呉討伐の大遠征軍を起こす。結局劉備は陸遜の仕掛けた火計に敗れ、失意のうちに病死した。諸葛亮は劉備の遺命を奉じ、蜀による天下統一に向けて死力を尽くすことを誓った。
二二五年には、反乱を続けていた南中を平定して後顧の憂いを断ち、その二年後、ついに大々的な北伐の軍を起こした。諸葛亮は五度にわたって北伐の軍を起こしたが、蜀軍の補給の要にあった街亭の守りを命じられていた馬謖の失策により、最初でいきなり頓挫してしまったのだ。その後、常に蜀軍を悩まし続けた補給路の確保は改善されることはなく、また魏の名将・司馬懿の存在が大きな壁として諸葛亮の前に立ちふさがった。
諸葛亮は政務を執るとき、朝はまだ明けきらぬうちから起き、夜は遅くまで寝ることはなかったという。食事の量も少なく、どんな小さな罰も自分が審議したという。軍使からその話を聞かされた司馬懿は諸葛亮の激務ぶりを聞くと「彼は間もなく死ぬだろう」と側近に話したという。その司馬懿の言葉通り、五度目の北伐の最中、諸葛亮は五丈原の地で病死した。正史ではそれを二三四年八月のことで、時に諸葛亮が五十四歳であったと記している。
諸葛亮の死後、その好機を逃さず司馬懿は全軍に攻撃を命じた。蜀軍は退却の途中にあったが、軍の指揮をとっていた姜維と楊儀があたかも計略があるような動きを見せたことで、司馬懿は諸葛亮の影を見たのか引き上げてしまったという。そのことは「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という故事になった。演義ではこのシーンで、生前諸葛亮が作らせていた精巧な木の人形を陣頭に出したことで司馬懿を大いに驚かせたことになっている。
陳寿の「応変の将略は、その長ずるところに非ざるか」と評した事はあまりにも有名で、そのことから諸葛亮は戦争が不得手だとか、陳寿が諸葛亮を恨んでいたなどの風説が生まれたが、実際陳寿は諸葛亮を「軍の統率能力に長けており、政治手腕についても管仲や蕭何(前漢三傑のひとり。名宰相として知られる)に匹敵する人物」「仮に魏の朝廷に仕えていれば、(当時魏朝廷の中枢を担っていた)司馬懿や陳羣など相手にもならなかっただろう」と絶賛している。また、彼が最初の北伐の際に上奏した「出師表」は名文中の名文と言われ、心あるものがこれを読んで涙を流さずには居られないとまで言われた。
演義においても重要なキーパーソンであり、かつ中盤以降では主人公ポジションとして描かれる関係性から、時に人間の領分を逸脱したような活躍(?)も多く見られる。例えば「赤壁の戦いではガチの祈祷で巽風を呼んだ」(吉川英治三国志では当時から偏西風の存在を知っていて、祈祷という形で心理的インパクトを残そうとしていたとされているが、地元の孫呉勢が知らなかったという展開で無理がある)、「死の間際の周瑜や曹真に手紙で煽って憤死させる」、「(魏延の乱入で失敗したが)怪しげな儀式で寿命を延ばそうとしていた」などなど。他にも南中の反乱平定は南蛮諸国の平定というように規模がやたらでかくていたり、またその際に川の反乱を鎮める生贄儀式を止めさせるために「饅頭」の原型を作ったことにされたり、あるいは陣中の屯田作戦に蕪の栽培を奨励し、その蕪を「諸葛菜」と呼ぶようになったなど民間伝承を交えた話も多い(ちなみに現在「諸葛菜」と呼ばれるのはハマダイコン科のオオアラセイトウ)。正史でも兵站問題を解決すべく「木牛」「流馬」という手押し車を開発したとされ、演義ではそれがやたらパワーアップして様々な発明を行った事にもなっているが、とにかく演義の諸葛亮はほとんど神がかり的な存在として描かれており、一説には演義を著した羅貫中が、明建国の功臣にして伝説的な活躍をした「大軍師」劉基をイメージとして取り込んでいるとも言われる。また横山光輝の「ジャイアントロボ」などを始め三国志以外の作品にも多数登場し、「底知れぬ知謀の天才軍師」としてのポジションを確立している。
-狐野郎が曰く-
演義ベースになっている作品では概ね、劉備共々「三国志」の顔と言っても過言ではない諸葛亮。ただ演義における諸葛亮はやることなすこと全てがぶっ飛んでおり、五丈原の陣中で亡くなったときもある意味では「えっコイツそんな素直に死ぬタマか?」と錯覚してしまうレベルである。というか、本当に魏延がインターラプトしなかったらあと十二年も生きてたのかって考えるともう本当に人間か疑わしい。三国無双シリーズだとメチャクチャ空中浮遊はするし羽扇からビームぶっ放しまくるしで、あの諸葛亮ならどんな妖術を使っても違和感は外宇宙へ飛び出して戻ってこないことウケアイである。史実では病死と言うけど、そもそも史実にも見える激務ぶりを考えれば過労死が正しいのではなかろうか。
そんなこんなで存在があまりにもでかすぎて、三国志といっていながら実質ほとんどの物語は彼の死で幕を閉じることもあり、彼が死んでから呉が滅ぶまでの実に四十六年もの時間の物語はさほど知られていないのが実情、という弊害すら生み出しているように思える。そして「三顧の礼」「水魚の交わり」「泣いて馬謖を斬る」などなと、彼の事績にまつわる成句も結構あるし、日本においても伊達政宗公がその戦上手ぶりから「今孔明」と評されたり、豊臣秀吉に仕えた竹中半兵衛も「その知謀の冴えは諸葛孔明に匹敵する」と、「天才戦略家」の代名詞的に語られている感はある。実際は政治手腕のほうに長けており、確かに戦術的にも軍の統率能力はかなり高かったのは間違いないだろうが…そろそろコーエーの三国志シリーズ、諸葛亮の知力を100にするの止めたほうが良くない?とは正直思う。政治は間違いなく100だろうけど、というか蜀の兵站能力異常としか思えない、っていう歴史解説動画結構見るしね。
学三諸葛亮、これは性格描写など基本は完全に「蒼天航路」の登場当初の諸葛亮であることは間違いあるまい。劉備が温泉パンダなので「こみっくパーティ」の九品仏大志とかかなり入ってる感じがあり、大体その系統のキャラクターの要素がごちゃ混ぜになっているようで奇人度が測定不能になっているきらいすらある。しかも自分は眼鏡をかけていないのに眼鏡っ娘マニアというんだからもう何がなんだか。天才と何とかは紙一重とはいうが、まあ日常話でなんかわけわからんことが起きてればこいつに原因を求めても誰も文句言わないし当人もあっさり認めそうではある。ほとんど東方二次創作の八雲紫みたいな扱いである。むしろコイツの科学力(?)をもってすればSCPのひとつやふたつどころじゃないくらい産生できるのでは…いや、そこまでできるんだったらなんで志半ばでリタイヤせざるを得なかったのか解らんな。そのための抑止力として司馬懿が大魔女になったのか?
だとすれば司馬懿もKeterクラスのなんかじゃねーかマジで。