解説 朱績(施績)


-学三設定-

長湖部で「動けば手柄を立てる」と謳われた名主将朱然の妹。
姉同様優れた主将としての資質を備えていたが、「二宮の変」の混乱で突如朱然の仕事を引き継ぐことになり、彼女は名将の後を継いだプレッシャーと戦う日々の中、蒼天会三征の一角である王昶につけ込まれたり、陸凱など一癖も二癖もある同輩たちにからかわれるなど苦労したようである。だが実際にはその王昶も朱績の潜在能力の高さを知った上で、それが開花せぬうちに叩き潰しておきたいという本音があり、陸凱や虞汜なども言葉に出さずとも朱績の才能を高く買ってたゆえの感情の裏返しでそう接していたようだ。
そんな苦難の日々の中で、果たして一方が危惧しもう一方が期待したように、彼女の資質は徐々に開花し始め、孫休が部長職を引き継ぐ頃には荊州学区の重要拠点である夷陵棟(後に西陵棟)周辺の実働部隊総括を任されるまでになった。当時副会長の座にあって好き勝手に振る舞っていた孫綝を処断した際には帰宅部連合と密かに連絡を取り合い、破れかぶれになった孫綝が暴発したときに備えるなど用意周到なところも見せている。個人戦闘能力についても、姉の朱然から受け継いだ「立身流」と「香取神道流」を主軸として様々な剣術を修め、長湖部後期では屈指の猛将として重きを成すようになる。
そうして斜陽の長湖部において、夷陵実働軍総括として睨みを利かせていた彼女は、翌年度の夏季休業明けに受験を理由として引退する。以後同地区は、江陵を護る陸抗が合わせて管理する事となった。秘話に類する話ではあるが、その引退の直接の原因は、ある理由から親友であった丁奉と壮絶な一騎討ちを行い、その際に負った怪我が原因であったともいわれる。


-史実・演義等-

施績(朱績) ?~二七〇
字は公緒、呉の名将朱然の子。朱然は元々施氏であったが、幼くして両親を失い、叔父にあたる朱治の養子となり、朱氏に改めたという。それゆえ施績も始めは朱姓を名乗っていたが、朱然が二四九年に死去すると、元の施姓に戻りたい旨を上奏した。このときは認められなかったが、孫亮の時代に再度上奏し、ようやく認められたという。なお曾祖父(朱然にとっては祖父)には後漢の大尉を務めた施延がいる。
施績は朱然の子であることから郎となり、潘濬の下について五谿の異民族討伐に随行し、その大胆さと実行力を称揚されることになった。昇進して盗賊の取り締まりに当たったが、ここでも法を曲げることをせず、治績をあげたという。魯王孫覇は彼と親交を結ぼうとしたが、施績は畏れ多い事と固辞し、結果的に「二宮の変」の災いから逃れることが出来た(ある史書では実際には孫和派に属していたとも)。
朱然死後はその兵を継ぎ、その翌年、王昶、王基、州泰らを総大将とした魏の大軍が攻めてきたときは江陵でそれを防いだ。王昶伝では王昶の挑発に乗ったため大敗を喫したというが、朱績伝では挟撃の約束を取り付けていた諸葛融が約定に反したために敗れた、と記されている。このときは陸凱、戴烈らの援軍が間に合ったため事なきを得、失態はあったものの朱然の子である彼が活躍をしたことに孫権も大いに喜んだというが、この事件により施績と諸葛融、そしてその兄である諸葛恪との関係は非常に険悪なものになったという。その諸葛兄弟が一族誅殺となると孫峻、次いでその従兄弟の孫綝が独裁政治を行うようになったが、施績はそれが呉に混乱をもたらすものと危惧し、密かに蜀へ密使を送り、有事の際には兵を出して魏を牽制するよう要請し、約定を取り付けたという。
その後も彼は順調に出世を重ね、二六〇年前後には上大将軍になって巴丘・西陵地区の防備に当たり、二六四年には左大司馬の位にまで昇った。伝は二七〇年に死去したと記したのみで、その年齢については触れていない。1995年には朱然の陵墓に新たな墓室が発見されたが、それが施績の墓ではないかと考えられている。当時でも呉国屈指の名将として国内外に広く知れ渡っていたようで、魏書「三少帝紀」でも上奏文の中で「猜疑心が強く自己をあれこれと類推し上官に嫌われた」と人格を否定しつつも「賊国の名臣」と記されていた(これは皮肉の可能性も高いが)。また晋代のある書物では、降臨した真人(仙人)として、道士として出家した娘が居たことが語られている。


-狐野郎が曰く-

演義では当然の如く出番はなく、それ故実はコーエーの三国志シリーズにもつい最近まで登場していない程度の(ある意味)レアキャラ。一応復姓が認められてもいるので史書では基本的に「施績」の名で記されているが、学三世界では基本的に「朱績」のまま扱われている。といってもこいつを取り上げてる人俺ともう一人くらいしか居なかった気がするが
孫権の死の間際、あるいは死の直後の混乱期には魏の大規模遠征が行われているが、呉書を見るとその前者の主役が施績、後者が丁奉ということになるようだ。といっても演義では後者(東興堤の戦い)しか出てこないから、尚更影が薄くなってる感もある。もっとも前者に関しても、居たら居たで(某氏のSSよろしく)散々王文舒におちょくられる役割しかなかったんじゃねえかという気がしなくもない。それどっちかというと陸凱が活躍した戦役だしね。とはいえ東興堤の時は名前が出てこなかっただけで、案外施績が引き続き江陵の守備に当たっていたのかもわからんし。陸抗が西陵近辺の軍事を総括するのが施績の死後で、それまで西陵辺りまでの防衛の任に当たっていたって事はやはりそれだけ能力的にも信頼されていたわけだろうし、三少帝紀の記述も皮肉(だろう)とは言え名将だって相手方からも認められてたってことでまあ。
そういうポジションなので当然嬉々として狐野郎はオリジナルデザインをこさえたわけだが、朱然の妹なのでそれをベースに「シスタープリンセス」の四葉を超魔合成()してデザインを作り上げた。といっても朱然にツーサイドアップを装備しただけともいうが。ちなみに「月姫」の弓塚さつきもほんの少しイメージしてるんだけど、こいつモチーフは既に張嶷が存在したのでほんの少し匂う程度に留めた。ストレートヘアっぽい大元のデザインに比べてリファインしてみたら大分もっさりした感じになっているが、これは単純に狐野郎の趣味嗜好が二十年余の時間で変貌したからとご理解頂きたく思う。もしかしたらチルノあたりが混入しているのかも知れないが気のせいだ(