解説 張昭


-学三設定-

広陵の張紘とともに「二張」と称される徐州校区の有名人。
二人して生徒会から色々と招待を受けるが、「党錮事変」の混乱が全校区に波及する時流を鑑み頑なに断り、やがて黄巾党の蜂起により学園の混乱が大きくなると、その争乱を避け比較的治安の安定している揚州高区へ活動拠点へ移していた。そこへ、袁術から独立し湖南に覇を唱えんとする孫策と出会い、自分より二つも年下の、しかも暴威の象徴にも見えたはずの孫策の何故か心を動かされるものを感じ取った張昭は、盟友でもある張紘共々その任用を受けた。後年の暴れっぷり()からは想像しづらいが、孫策麾下時代の張昭は長湖部最強の「軍師」であり、常に最前線において最善の策を練る知謀の士であった。ところが、そんな「長湖部の大軍師」張昭をもってしても、孫策を襲った悲劇を回避することが出来ず、そのことは最後まで尾を引き続け、同時に孫権の可能性を信じた彼女は持てるコネクションをフルに使い、周瑜ともどもまだ中等部の三年生であった孫権を新部長として「長湖部」を守ることを誓った。
だが、彼女はやがて「湖南の校区全体の象徴」である「長湖部」を保つことに執心することとなり、それ故にあくまで「独立政権として学園都市に覇を唱える」ことを目指す孫権とのすれ違いが生まれ始めた。曹操が南下すると「長湖部」としてその傘下に入る意味での「無条件降伏」を唱え、戦乱を避けて湖南に逃れた多くの知識人仲間の賛同を得るも、諸葛亮や魯粛に焚きつけられた孫権がそれを突っぱねたことが、後々まで響くレベルで関係性にひずみを生み出してしまった。聡明な彼女はそのことに気づいていながらも、ある意味ではヤケを起こしたのか「ならば表だって憎まれ役を買って出よう」とばかりに、公の場でも正論に正論で追い打ちを掛けて孫権を言い負かし、逆ギレした孫権と取っ組み合い寸前になることも日常茶飯事となった。しかも、彼女は卒業してもなお「特別顧問」の名目で相談役として二年も居座り、孫権にとって目の上のこぶであり続けた。当人も解っていてやっていたことであるが、それでもあるときなどは、意見を違えた張昭が部屋へ閉じこもって出てこなくなると「じゃあもう出てこなくていいもんねっ!」と孫権はバリケードを築いて部屋を封鎖、負けじと張昭も内側からバリケードを築くという泥仕合を繰り広げたなどということまであった。これには後日談があり、非を認めた孫権が誤りにきても張昭は封鎖を解かず、ついにブチ切れた孫権はバリケードに放火、スプリンクラーが作動して大騒ぎになったという。この時には流石に陸遜達も庇いきれず、張昭も渋々ではあったが「特別顧問」の名目を卒業を控えた諸葛瑾へ押しつけ勝手に「引退」を決めたという。ただしその口喧しさから辟易はされていたものの、流石に長年培われた「時流を見る目」は確かで、孫権以外には素直に面倒見の良い面を見せることもあって人望は非常に高かった。時に、孫権のところに通す事案をまず張昭の元へ持ってきてから意見を上申するような幹部も多かったらしい(孫権もそれを知っていたので余計に気分が悪かった)。
寒がりらしく、真夏でも冬物の衣服を着る事も多いように思われるが、孫策麾下時代は真逆で、冬でも半袖と夏用の衣服で平然とうろつき回っていたらしい。


-史実・演義等-

張昭 一五六~二三六
字は子布、徐州彭城国の人。
若い頃から学問を好み、書も巧みで、琅邪の趙昱や東海の王朗などの名士と並び賞される名声を持ち、その二人と親交があった。陶謙が徐州牧として赴任した頃に張昭を茂才として推挙したが、張昭はそれに応じず、怒った陶謙に捕縛され投獄されるという一幕もあった。
戦乱時代の到来と共に、張昭もその難を避けて江南へ移り住んだが、孫策が江南平定に乗り出すとそれに協力し、孫策は事務や戦略などの一切を張昭に任せた。孫策からの信頼は厚く、彼が臨終の際、特に張昭に「もし弟(孫権)に君主としての能力がなければ、あなたに政権を執って欲しい」と遺言された話が伝わる。張昭はその信義に応えるべく、周瑜と共に孫権を孫策の後継者として擁立、朝廷に働きかけて然るべき官職を孫権に与えられるよう手を尽くす一方で、実兄が非業の死を遂げ悲しみに暮れる孫権を叱咤激励し、軍を視察させるように仕向けたという。だが、張昭は孫権を思うあまりか、常に孫権の行動に気を配り、時には強行苛烈な言動でその咎を叱責することもあったという。
そんな孫権と張昭の関係を物語る有名なエピソードはいくつもある。例えは孫権は虎狩りを好んだが、それを止めさせるように進言し、意固地になった孫権は装甲車のような馬車を作って狩りに出かけ、以後張昭何度諌めても笑って聞き流したと言う話がある。またとある酒宴の席で、酔った孫権が潰れた臣下たちに水をぶっ掛けているのを観て呆れた張昭は、まったく口を利かずに退出し、そのあとその理由を問いただすと、古の悪君の例を引き合いに出して皮肉を言ったとか。極めつけは公孫淵の帰順問題でも張昭は考え直すよう再三に渡って諌言したが、聞き入れられずにいたことに腹を立てて家に閉じこもった時のエピソードだろう。やがて孫権が己の不明を詫びに来ても応じず、張昭の態度に腹を立てた孫権が家の門を土で塗り固めると、張昭も対抗して内側から門を土で塗り固めてしまった。コレで怒り心頭に達した孫権、ついにはその門に火を放って大騒ぎとなってしまった。ココまで来るとまさに子供の喧嘩である。裴松之はこのような張昭の行動を「君臣の道義に外れた行為」と非難している。そもそも曹操の南征に際しては、真っ先に降伏論を唱えて、そのことにより孫権が帝位に昇り間もない頃に「もし周瑜がいなければ自分は帝位に昇る事はなく、あの時に張公(張昭)の言うとおりにしても帝位に昇ることはなかった」と居並ぶ群臣の前で面目を潰されたこともあった。
二三六年、八十一歳で世を去った。彼は名声、実力ともに丞相足りえるものを持っていたが、最期まで丞相の位につくことはなかったが、孫権はその理由として「かの人(張昭)は剛直な性格であるから、意見が通らないと感情的な行き違いが起きるだろう。丞相に任ずることは彼を計ることにはならないのだ」と言っている。また、正史に残る孫権の言葉からは、彼のみでなく、呉の国中で張昭を畏れ敬い、孫権の元ではなく張昭の元に出仕する者も多く居たという。


-狐野郎が曰く-

孫呉の御意見番、というのは簡単だが、孫権にとって最大の天敵であるとも言える。ある意味ではどんな強大な敵や、あるいは無能すぎる味方よりも、張昭のように「能力は高いし無駄に裏切ることもないけどひたすら自分に牙抜いてくる奴」が一番始末に負えないのかも知れない。実際この二人のいがみ合いは張昭伝に多く残されているが、正直言ってどれもこれも大人げないことこの上ない。ぶっちゃけ、虞翻が交州に飛ばされていたのになんでこの人ずっと孫権の近くに居たのかが理解できない。いやマジで。裴松之だって「君臣の上下関係としてありえない(くらい張昭の行動は臣下として誤っている)」と激おこである。
学三版張昭は誰がモチーフなのか明確ではない(まぁ、ほとんどの学三キャラはそうだけど)が、何処かのスレッドで話題に上がったように、外見は「あずまんが大王」の水原暦に近い。流石によみちゃんはここまでひどい性格はしていない。孫権だってとも程おかしくは…いや、負けず劣らずおかしいかあいつは()。
卒業後も居座り続けたのは本家設定そのままで、その居座り年数()も設定に殉じている。何気に本家のストーリー年表でも何故か張昭の学年にだけ触れているのは笑うところなのかも知れない(