解説 孟宗(孟仁)


-学三設定-

母子家庭で家は貧しかったが、孝行娘として荊州学区で有名な才媛。荊州学区の名講師李粛にも太鼓判を押される程の神童としても有名だったが、とにかく孝行娘としての評判のほうがより有名だったという。
その孝行娘ぶりをよく知られるエピソードに、ある冬病に倒れた母親を勇気づけるため、その好物であったタケノコを手に入れようと一日中奔走し、ある竹林で大泣きして哀願するとにわかにタケノコが地面から顔を出したものがある(そのため孟宗の才能に嫉妬した同輩からは「タケノコ娘」と陰口を叩かれていた)。病がちだった母親は彼女が長湖部の幹部候補生になって間もなく身罷ったが、その際には幹部候補生の重要なミーティングがあるにもかかわらず現場を飛び出して行き、事情を知らなかった孫権に処断されかかった一幕もあった(これは後に孟宗の面倒を見ていた朱拠や陸遜が事情を説明して事なきを得ている)。以後は彼女の後見人となった遠戚のわずかな援助と、魯家が運用する格安の奨学金を受けて学園に通い、同時期に幹部候補生となっていた陸凱や丁固と断金の交わりを結び、その両名に共鳴するかのようにして孟宗も組織運営に非凡な才能を見せるようになった。
「二宮事変」のごたごたと、その後の不安定な政権内部の混乱を避ける意味合いもあって、彼女はあえて孫綝に接近して武昌棟長のポストに就いて、麾下の軍権を掌握していたこともあったため、朱績に眉をひそめられていたこともあった。だが孟宗を陸凱が信用していた事もあって、後に孫綝が暴発しそうになったら暴走できないように孟宗が軍権を抑えていた事を知った朱績も、それに倣うようにして孟宗や帰宅部連合と連絡を取って孫綝の暴発に備えることにしたという。孫綝が抵抗らしい抵抗も出来ずに丁奉や濮陽興らの手により処断された裏には、孟宗(と朱績)のこうした行動があったからだと言えよう。
孫皓の暴政が激しくなると、彼女も陸凱の立てた排斥計画に参画する。これは結局実行の前に頓挫するものの、彼女は丁固共々処断されるどころか生徒会風紀委員長のポストに就き、陸凱が長湖生徒会を去って行った後も最後まで長湖生徒会の存続に尽力した。
柔和で大人しい、やや気弱な一面もあるが反面行動力は抜群で、母親が亡くなったときのように突飛な行動を取ることもあったが、陸凱や丁固の間でも潤滑油的なポジションにいたと言える。更に言えば母親同様彼女自身もタケノコが大好物で、その料理のレパートリーもタケノコだらけ、ついでに自身の薄い髪の色も「タケノコばっかり食べてたらタケノコみたいな色になった」と自称している(実際は北方系の血筋があってその先祖返り)。


-史実・演義等-

孟宗(孟仁) ?~二七一
字は恭武。江夏郡の人。彼の元来の名は「孟宗」であるが、その諱は孫皓の字「元宗」と同じ字であったことから、孫皓が帝位に就くと「孟仁」と改名したという(いわゆる偏諱)。ただ彼は後述する孝子としてのエピソードから「孟宗」の名のほうが有名なので、本項では表記を「孟宗」で統一する。
若い頃に南陽の学者李粛の元で学問に励み、昼夜真面目に学問に打ち込んだことで才能を認められ、李粛から「お前は宰相となるべき器だ」と称揚された。孫権に仕え始めた頃には朱拠の部下であったが、朱拠も彼の才能を認め、呉県の県令となった。その後は光禄勲から御史太夫、さらには二六八年に三公のひとつ司空の位にまで出世した。孫綝が権力を握っていた頃その麾下の軍権を握っていたことから、目立った戦績についての記述は見られずとも一定水準以上の軍才も有していたとも考えられる。高官に昇っても、陸凱や丁固らと共に常に国家の行く末を案じ腐心していたが、二七一年に死去。享年は明らかではない。
非常に親孝行な人物として知られており、正史には彼自身の業績よりもその母親との関わりにまつわるエピソードがいくつか記されている。中でも有名なのが筍にまつわる話だろう。
当時、呉国には任地には家族を連れては行けないというルールがあったため、孟宗は任地にあるとき、珍しい食べ物が手に入ると先ず母親の元へ送り、それから自分も口にしたと言う。あるとき孟宗は、母親の好物であった筍を食べさせてあげたいと思ったが、生憎時期は初冬で筍など手に入るわけがなく、困り果てた孟宗は竹林に入って哀願すると、なんと筍が生えてきて、彼は母親に筍を食べさせることが出来たという。それを伝え聞いた世の人々は、彼の母親を思う心に筍が応えてくれたものであろうと噂したといわれる。この筍がいわゆる「孟宗竹(モウソウチク)」で、このエピソードにあやかって名付けられたといわれている。
また、二三七年には孫権が業務停滞を防ぐため服喪を禁じる法令を出したが、それから間もなく孟宗は母の葬儀のため禁を破ってしまった。本来なら死刑になるところであったが、顧雍や陸遜のとりなしもあって、罪一等を減じられたというエピソードもある。


-狐野郎が曰く-

かつてのIMEだと、「三国志」に関わる人物の中で劉備や曹操以外にデフォルトで一発変換できるのは孟宗だけだった時期があった。だが何故か「孟宗竹」が一発変換できなかったというのも面白い話であるが、儒教の概念では「考」は重要なファクターであり、それを代表するようなエピソードを持つ孟宗の名が後世よく知られるようになったのも、儒教理念がそれだけ広く伝わったためであるからとも言えるだろうか。現在では孫権や司馬懿なんかも一発変換できるんだが…それにしても、主君よりその臣下の名のほうが一発変換出来た孫呉ってマジで一体…。
とまあ孝行息子としてあまりに有名になりすぎて、そもそも三国志時代の人間だったと言われてもピンとこない孟宗だが、実は孫皓時代とは言え三公にまで昇っているかなりの大物。ただ丁固や孫邵なんかのように、他の業績に関する記録が少なすぎて立伝には至らなかったと言うべきか。孫皓時代に孫呉の歴史を記録した韋曜が言われなき冤罪で孫皓に誅殺されたため、本来立伝されるべき人物の業績が後世に伝わらなかったためこういう例が多数出てくるのも致し方ないところだが、そもそも裴松之がお馴染みの「江表伝」からすらネタを掘り出してこなかったことを考えると、ガチで業績がほとんど残ってなかったからなのかわかりにくい所である。
それはさておき、孟宗のデザインは最初陳嬌として考えていたようである。ただ人物スレの陳騫と並べた時あまりに姉妹のイメージに乖離がありすぎるために「陳矯としては」ボツとなり、代わりに当時孫皓絡みの話を考えていて孟宗だけはキービジュアルが存在していなかったため、どっちにして気弱そうなキャラが嵌まると思って孟宗に流用した次第である。更に言えばこのデザインのモデルになったのは「ミルモでポン!」の三人目のヒロインである森下はるかである。まあ性格というかキャラ付けは真逆なんだけども。髪色のネタはまあ、「鬼滅の刃」の煉獄杏寿郎と甘露寺密璃が番外編で言っていた台詞(甘露寺さんについては本編こぼれ話にもあった記述だが)からですな。