解説 陳武


-学三設定-

孫策が旗揚げしたときから長湖部に従っていた女丈夫。身長が一九〇センチにもなる大女で剣道の有段者でもあったが、そのいかつい見た目に似合わず、周囲に良く気遣いの出来る穏やかな人柄の持ち主であった為、孫権を筆頭に多くの者から慕われていた。それ故か彼女が主将を務めていた軍団は、行く先々の戦闘では向かうところ敵なしの活躍ぶりであったという。また長湖部長になる前の孫権が陳武の寮部屋に時折通って泊り込むという親愛ぶりを示したことでも有名になった。
孫権政権下でも主要な主将として黄祖討伐、赤壁島決戦といった主要な戦闘に参加しているが、合肥・濡須攻防戦において張遼の急襲から孫権を庇い、その際に大怪我を負って戦線離脱。この際に階級章を失っていたことからリタイアを余儀なくされた。このことは孫権をひどく悲しませ、後々妹の陳表や従妹の陳脩を幹部として手厚く待遇した他、陳武が卒業するまで折に触れての贈り物を欠かさなかったという。


-史実・演義等-

陳武 一七七~二一五
字は子烈、廬江郡松滋の人。身の丈七尺七寸(約一八五センチ)、演義では黄色がかった肌に赤い眼をしていたという怪異な容貌で描写されている。
陳武は十八歳のとき、おりしも食客として袁術の元にいた孫策の元を自ら訪ね、そのまま孫策の元にとどまって江東平定に従軍している。孫策が廬江の劉勲を破り江東を平定すると、廬江軍の捕虜から精鋭を選りすぐって軍団を作り、陳武にその指揮を任せたが、その軍は向かうところ敵なしの活躍をした。孫策死後も引き続き孫権に仕え、五校尉に任じられた。陳武は気前の良い性格で、他人に対する思いやりが人一倍篤かった。同郷の者や流民も彼の元にこぞって身を寄せたが、孫権からもいたくその人柄を気に入られ、孫権は度々彼の家を訪ねたと言う。
その後も様々な戦役に参加し、偏将軍に任じられるまでになったが、二一五年の合肥戦役において乱戦の中、討ち死にした、孫権は彼の死をいたく悲しみ、その葬儀にも臨席した。「江表伝」ではこのとき、孫権は陳武のために愛妾を殉死させ、小作人二百戸の租税を免除した、とも伝えられている。
陳武の爵位は十九歳になっていた嫡子の陳脩が継いだが、陳脩は二三〇年に死亡し子がいなかったために、妾腹の弟である陳表がその跡を継いだ。


-狐野郎が曰く-

三国志大戦では初期シリーズから登場し、何故か「トカゲ男」にされてしまっていたことで地味に話題を集めていたかもしれないので、名前を聞いたことがある人もいるだろう。低レアリティで入手も容易、計略も使いやすいことから一部では「周泰がいない時に何とかしてくれる人(というかレプティリアン)」と言われていたとかいないとか。確かに演義での外見描写からして人間離れしているというか最早妖怪じみているが、四方やこんな形で後世(一部から)話題にされることになろうとは、陳武当人も夢想だにしなかったことだろう。演義でも孫権の側近として身を挺して孫権を守り抜いて戦死した事に触れられており、おおむねその経緯は陳武伝の記述と大きな差異はないようだ。なおその生年についてはあくまで前後の記述からの憶測に過ぎず、孫策が寿春にいたのが一九三年~一九四年の割と短い期間なので、陳武が目通りしたのを孫策が江東に攻め入る直前と仮定しての記述としているに過ぎないことはご留意願いたい。wikiは一応生年未詳だし。まあwikiなんて他の人物で実際生年は明らかなのに生没年未詳にされてたり、どっかの毒舌家()のようにデタラメが書いてあったりであまり信用ならんのだが。
学三では徐盛や蒋欽のように、陳武のデザインも「蒼天航路」がベースになっていることは想像に難くない。ごっつい女丈夫といった風体であるが、蒼天航路のとは違って無口というわけでもないとは思う。登場している作品が少ないからなんともいえないところではあるけど。