解説 黄蓋
-学三設定-
長湖部の最古参のひとり。
何故かやたらと程普や韓当とトリオで取り沙汰されることも多く、事実仲も良くプライベートでは行動を共にすることも多い。家族は彼女が幼い頃に地方から学園都市の零陵社宅団地に越してきたが、両親共働きの上に生活は裕福とはほど遠く、近所の人達の頼み事を受けて貰った駄賃で文具を購入するなど苦労しながら、倦むことなくスポーツと勉学に励んだ。孫堅の眼鏡に敵い、ある程度の援助を孫家から受けることが出来た縁で長湖部の運営に参画し、三代に渡り重責を担うこととなる。苦労人気質で情に厚い一方で他人を見る目も確かで、確かな経営手腕を発揮して多くの棟で棟長として治績を上げている。
彼女の武名を高めた最も有名な事象は、赤壁島決戦をおいて他にないだろう。彼女は膠着した戦況を打破すべく、周瑜と謀り「苦肉の策」を実行に移す。黄蓋はこの際、芝居とはいえ額に四針縫うほどの大怪我を負った上、利き腕の親指を骨折させられるハメになったものの、そこまでさせられた事により曹操にすら偽降を信じ込ませてしまったことで、周瑜の仕掛けた大奇策を成功させ大勝利に貢献した。この時に黄蓋は親指骨折でロクにものを握ることすら出来なかった己の右腕に木刀を縛りつけて縦横無尽に暴れ回ったが、乱戦中勢い余って大小のボートひしめく長湖に落水。決戦の趨勢が決まった頃に会稽棟の近くまで自力で泳ぎ着いたものの、額の傷が開いて失血で気を失っていたが、彼女を発見した長湖部員はそれが黄蓋とは気づかず、事もあろうに会稽棟のトイレの中に置き去りにされてしまい、戦後処理のためにたまたま会稽棟を訪れた韓当に発見されるまで小一時間そこに放置されていたという。周瑜も芝居にノリノリになりすぎたことを詫びて彼女を勲功第一とすることを申し出たが、人の好い黄蓋はそれを辞退して周瑜、程普に次ぐ勲功第三となった。
戦後は零陵棟に駐屯し荊州軍団の総司令官として関羽に対抗するも、赤壁島で一芝居打ったときの怪我の予後が芳しくなかったこと、尚且つ両親の仕事の都合で卒業後は故郷に戻り仕事に就くこともあってか、孫権に惜しまれつつも三年生時の夏休み明けに階級章を返上して引退した。
-史実・演義等-
黄蓋 ?~二一四
字は公覆、零陵郡泉陵の人。
元々、その祖先は南陽太守を勤めた家柄で、そこから一門が各地に散らばり、黄蓋の祖父が零陵に移り住んだので彼もそこで生を受けたとされる。黄蓋は幼い時に父と死に別れ、さらに家も不幸に見舞われて貧乏暮らしを余儀なくされたが、それでも黄蓋は大志を抱いて勉学に励み、生活の糧を得る薪拾いの合間にも兵学や表文の書き方を学んだという。こうした努力が実を結んだのか、やがて郡の役人となり、考廉として推挙されるまでになった(当時は権力者の子弟であるか、有名な人相見の太鼓判を押されなければ考廉や茂才として推挙されることは難しかったので、それだけすごいことだということが解る)。
やがて孫堅が挙兵すると、黄蓋はその元に馳せ参じ、黄巾討伐などで名をあげた。代が孫堅、孫策、孫権と代替わりしても孫家に仕えたが、特に黄蓋は山越系の不服従民がいる地域の県令などに任命され、その地の統治をすることが多かった。
例えば、このような話がある。石城郡の役人達が綱紀を無視して好き放題に振舞っていたが、黄蓋は赴任直後そこから二名の属官を任命し、文書管理をさせた。初めは黄蓋の威を恐れていた二人だったが、やがて黄蓋が文書にあまり目を通して居ないらしいことを知ると、その文書の内容を勝手に改ざんし始めるようになった。黄蓋はそれを知ると、酒宴を開いてその席でふたりの属官を問責し、公約どおりに二人を処刑してしまった。このことで他の役人も震え上がり、以後綱紀は改められたという。
黄蓋は他にも九つあまりの県令を歴任したが、何処でもその治績に対する評判は高く、常々孫家の支配体制に反感を持っていた山越系住民にさえ慕われたという。どの県に着任しても、権力のある土豪を抑え、力を持たない民衆を保護したことが評価されていたのだろう。また黄蓋は威厳のある風貌をしていたが、兵士の生活には特に心を砕いていたので、兵士達は彼のために皆先を争って戦うほどであった。職務に当たっては決断が早く、処理を遅延させることはなかったという。
黄蓋といえば忘れてはならないのが赤壁の戦いだろう。当時周瑜の配下だった彼は、曹操の南征に当たり、兵力に勝る曹操軍を火攻めで滅ぼすべしと進言した。そのとき、黄蓋は偽降の申し入れを曹操に送って信じ込ませ、決行の時には自ら先陣に立ち、鎖で繋がれた曹操軍の大船団の深い部分へ入り込むや否や、火薬や薪を満載して火達磨となった小型船を放って船団を炎上させた。折りしも強風(時期的な関係で、貿易風であったという説がある)により、烏巣に展開された曹操軍の大陣営は文字通りの火炎地獄と化したという。なお、このときに曹操に偽降を信じさせるため、周瑜と共謀して狂言し、自ら杖罰を受ける「苦肉の策」を実行したといわれるが、これは演義の創作であり、正史にはそれを裏付ける記述はない。またこのとき、火計を成功させた黄蓋は帰還中流れ矢に当たって長江に落ち、すぐに別の船に助けられたが、誰もそれが黄蓋と気付かず、韓当がそれに気付くまで船内の厠(トイレ)に放置されていたという逸話もある。
赤壁の戦いの後は武陵の反乱鎮圧に当たり、平定後もその地で統治に当たり、さらに長沙でも反乱民の鎮圧に従事した。それらの地でも異民族に慕われた。これらの功により偏将軍となったが、まもなく在官のまま病死した。武陵が劉備の、長沙が孫権の支配地になったのは二一四年のことであるので、亡くなったのはそれから少し後だと推測される。
孫権は帝位に就くと、生前の黄蓋の功績を思い、その息子に爵位を与えたという。
-狐野郎が曰く-
演義においても正史においても、赤壁の戦いの立役者といえる黄蓋。実際、水軍提督である周瑜よりも、彼の活躍のほうが目立っているどころか、時に世界史の教科書にすら名前が載ることがある何気に凄い人である。とはいうものの、近年の見解では「赤壁の戦い」は大会戦のようなものでないことはほぼ確実視されており、そもそも鏖殺の代名詞的な赤壁の大火計は明建国の功臣である大軍師劉伯海(劉基、伯海は字)が鄱陽湖の戦いで陳友諒の大水軍を撃滅した大火計が元ネタになっていることは現在よく知られる話になったと思う。黄蓋の「苦肉の策」も当然ながら演義の創作である。とはいえこの「苦肉の策」のシーンは黄蓋一世一代の大芝居であり、孫家の宿将たる彼であればもしかしたら、というものも彼にはあったのかも知れない。正史の記述では幼少決めちゃくちゃ苦労をしたことで培われただろうその人格により、威厳と思いやりを持つ優秀な為政者であったようだし、部下は勿論山越異民族すらも引きつける人望があり、死後には肖像画が描かれ各地で祀られたとか…あれ、なんか張嶷のところでも似たような話があった気がするが気のせいだろうか(
「学園三国志」版黄蓋と、あろ呂岱に関しては、ぶっちゃけるとデザイン上に大きな違いが殆ど無かったりする。そのため狐野郎は創生期からの宿将である黄蓋にはばかって呂岱のほうのデザインをいじくっているのでこちらはほぼ玉絵デザイン準拠で描いている。設定では元々孫堅、程普、韓当、祖茂でつるんでいて、米運びのバイトをしながら本を読んでいた黄蓋が本に夢中になる余り長湖に落ちたのを四人が助けたのが縁で行動を共にするようになった…という設定があるそうな。うーん、ほのぼのとしてるな。あとなんか九州の出身という設定もあるらしいが、博多と熊本と薩摩で全然カラーが違うので何処の出身かでも大きくキャラが変わりそうではあるなあ。