解説 劉備


-学三設定-

幽州校区を本願とし、劉氏生徒会の一門の末葉を自称する少女。
熱血で気っ風がよく、計算高い割に底抜けなお人好しで、何事にも一生懸命な姉御肌であるため、校区でもかなりの顔役であった。関西の生まれなのか大阪弁を喋り、己の背丈の半分ほどの巨大ハリセンを担いでいる姿がよく知られており、裏では校則では裁けないいざこざを解決する何でも屋としての顔も持っていた。不思議な魅力があり、彼女と知り合った者は皆「彼女のために何かしてあげねば」と思い詰めたように行動してしまう。そして劉備自身もまた、自分を慕って集まった「仲間達」を何よりも大切に思う少女であった。
そんな気の良い仲間達と、いわゆる「同人活動」を行っている事でも有名であり、最初はお笑い好きが高じて、精々「月イチのコピー誌でも創ろうか」という程度だったが、やがて学園の動乱が迫り、関羽や張飛と知り合ってからは世直しの一環として本格的な学園新聞を創ろうと決意。結果として部員&部費集めと部室探しに奔走する三年間を過ごすハメになる。そうして出来た彼女達の「新聞」は、肩の力を抜いて読める庶民派新聞ながら、鋭い風刺を織り交ぜ、一部の識者からは高い評価を受けていた。後に学園のありようを巡って対立することとなる曹操も実は終生の隠れファンで、一時は蒼天生徒会の広報部と提携したこともあったほか、劉備が本格的な同人サークル活動を始めると、変装してまでその新刊を抑えに行っていたらしい。ちなみに劉備にはバレバレであったが、少なくとも課外活動に在籍していた間は特別扱いはせず、あくまで「サークル主といちファン」としての関係を崩さなかったという。ちなみに活動的なわりに眼鏡を掛けているが、サークル活動や風刺新聞を作っていることが原因になり視力が本当に悪いためである。
とはいえ蒼天生徒会(というか曹操)に批判的なことから、一度は公認となった劉備の新聞も「公認取り消し」を通り越して違法活動と見なされてしまう。曹操達と対立することになった劉備一党は、拠点となる部室を求めて流浪の放課後ライフを送る。劉備に従う個性様々な連中は総勢数百名にもなり、これだけの集団が結局は「帰宅部」扱いになってしまい、ついには一大裏ネットワーク「帰宅部連合」という組織に育つ。荊州校区に潜んでいた「学園史最高の変人」諸葛亮を得てから、その組織は荊州学区の大逃亡を経て、やがて益州学区を拠点とする一大勢力となった。
しかしその最期は、劉備のもつ姉御肌気質が悪い方向へ向いてしまったがために起きた悲劇といっても良かった。長湖部の「背信」によって学園を追われた関羽の仇を討つため、帰宅部連合の総力を挙げて長湖部に宣戦布告した劉備は、周瑜によってその将器を長く隠匿されていた陸遜の軍略の前に敗れ去り、失意のうちに学園を去ることとなった。この際に劉備は妹・劉禅に「帰宅部連合」総帥の地位を後継させたはいいものの、「もし阿斗(劉禅)ちゃんにその気が無かったり、総帥の器ではないと想うなら、アンタが代わって総帥になり」と諸葛亮に言ったことはあまりにも有名。その諸葛亮との馴初めにもナゾが多く、諸葛亮自身が「北伐」を宣言した際の「宣誓」において「玄徳様は荊州の片隅で趣味に耽溺するだけだった私を認め、三度にわたり私の元を訪れ、大望を語り合って我が心に火を点してくれたのです」と述べてはいるが、真逆に劉備の新聞の隠れファンだった諸葛亮が自らを売り込んできたという説もありはっきりしない。だが正対称なキャラクターでありながらウマが合ったことだけは間違いないようだが。
その後は行方不明になった関羽の行方を探りながらも、やがて孫権達に対する遺恨も水に流し、代わらぬ仲間達と共に気ままな同人創作生活を送っているらしい。


-史実・演義等-

劉備 一六一~二二三
字は玄徳、幽州涿郡涿県の人。前漢景皇帝の子、中山靖王劉勝の後裔とされ、本人もそれを自称するも確証はない。その人相も並外れたもので、身の丈は七尺五寸(約170センチ)、手を下げると膝まで届き、振り返ると自分の耳が見えるという異相だった。
幼い頃から大望を持ち続けており、生家近くに巨大な桑の木はまるで車の幌のように見えたが、劉備少年は常々「俺もいつかはこんな立派な車に乗るような身分になってやる」と放言し、叔父の一人に窘められていたという。幼い頃に父を亡くし、母親とともにわらじを売って生計を立てる貧乏な暮らしをしていたが、一族の劉元起と言う人が劉備のために金を援助し、息子の劉徳然とともに高名な学者である廬植の門下生にさせた。劉元起の妻がそれに不満を述べると、劉元起は「(劉備は)並みの人間ではない。口出しをするな」とそれを突っぱねたという。ところが遊学中の劉備は学問そっちのけで衣服を飾り立てて楽しむなどの放蕩ぶりを発揮、一方で口数は少なく謙虚で、喜怒を顔に表さなかったが、天下の豪傑たちと好んで交わり、人望があったという。
黄巾の乱が起こると、各地で義兵が起こったが、劉備も兄弟分となった関羽や張飛、同郷の簡雍らと共に義挙し、戦後はその功で安喜県尉となった。しかし、郡の督郵(監察官)の巡察の時、劉備はその督郵への面会を拒否されたことを逆恨みしてそれに暴行を加え、官位を捨てて逃亡するという暴挙をしでかした(因みに演義では、賄賂を要求した督郵に怒った張飛が、それを半殺しの目にあわせたという有名なシーンである)。その後も各地を転戦し、遊学していた頃の兄弟子・公孫瓉の元に身を寄せ、その推挙を受けて平原県の令になった。余談だが、当時起こっていた反董卓連合の軍に、劉備らが参加していたという記述は正史及び信頼できる資料に記述はなく、「英雄記」なる書物には、劉備と曹操が共謀して諸侯に呼びかけ、反董卓連合を立ち上げたなどという記述もあるが、当然ながらこれも風説の類である。当時劉備を疎ましく思う者がいて、刺客を送られるのだが、刺客は劉備と話をすると殺すに忍びなく、自分が刺客であることを打ち明けてなにもせずに立ち去ってしまったなどというエピソードが残っている。
曹操が徐州討伐を行った際、劉備は徐州救援の名目で徐州入りし、州刺史の陶謙が死ぬとその旧臣たちの勧めで徐州の主となった。だが落ち延びてきた呂布を受け入れたことで徐州を失い、その後も曹操、袁紹、劉表と各地の有力者の下を転々とした。劉表が死ぬと、その継嗣である劉琮とその家臣団が曹操に帰順したため、劉備は逃亡を余儀なくされた。しかしこのとき、劉備を慕う民衆が数十万もその逃避行に同行するという異常事態が発生する。そのため当陽周辺では民草を巻き込んだ凄まじい追激戦が展開され、劉備たちは辛くも夏口の地へと逃亡することとなった。そこで劉備は江東を支配する孫権と同盟を結び、曹操の南征軍を赤壁にて撃破した。
赤壁の戦いの後、劉備は荊州の南四郡を支配下に納め、さらには益州の地を奪取してようやく大勢力を築き上げることができた。二一九年、曹操勢力の支配下であった漢中をも平定すると、劉備は漢中王となるのだが、同年の暮れに股肱とも恃む関羽が孫権によって滅ぼされてしまう。
曹操の後を継いだ曹丕が皇帝となると、劉備もそれに対抗して帝位に就く。だが劉備は関羽を滅ぼした孫権への恨みを晴らすことに固執し、諸葛亮らの諌言を跳ね除けて呉への遠征軍を起こす。その遠征軍は呉の名将陸遜の大火計により全滅に近い損害を受けて敗退、それを恥じた劉備は蜀都と定めた成都に戻らず、益州と荊州の境にある永安の地に没した。享年は六十三。死後、諡して昭烈皇帝、後に蜀が滅ぶと先主と称された。死の間際、諸葛亮に「もし息子(後主・劉禅)が皇帝の器でない時は、君が代わって帝位についてくれ」と遺命したことは正史にも記述がある。
劉備が人望があったことは正史・演義共に語られることであるが、大きな違いといえば演義の劉備は「儒教的理想君主」の尺度に当てはめられているため、その上で正史の事績を重ね合わせていることから時にちぐはぐな行動をしているように見え、三国志ファンからは「偽善者」と呼ばれることも多々ある。劉備の実像はそんな聖人君子ではなく、むしろ侠客の大親分とか、中世ヨーロッパにおける傭兵隊長のようなイメージの方が近いだろう。近年の作品で言えば、「蒼天航路」の劉備が実像に最も近いと言えるかも知れない。


-狐野郎が曰く-

いろんな意味で「三国志」の顔とも言える劉玄徳。今ではすっかり「蒼天航路」で見られるような「大侠客」といった実像のほうが認知されつつあると思うが、一方で「恋姫†無双」や「一騎当千」みたいな「萌え三国」兄の作品では演義ベースの劉備も多い。あとなんか「ランペイジ」だと劉備だけが女性だったりもしてたな。
曹操もそうだけど劉備は完全に演義の主人公で、多くの作品でも主人公もしくは重要なキーパーソンになっていることが多いので、今更何を語れば良いのか…と言うより狐野郎自身があまり「劉備というキャラクター」に魅力を感じていないせいか残念ながら語るべきことはあまり多くない。そもそも史実でも劉備を完膚なきまでにぶちのめした陸遜のサイドを主人公っぽく描いているからあんまり劉備にスポット当ててはないしね。
ちなみにだが学園三国志の劉備は「蒼天航路」のそれを要素として持たせ、その上で温泉パンダ(「こみっくパーティ」の猪名川由宇)をキャラのベースに持ってきてるみたいなんで、女侠客というよりも名うての同人屋、と言うべきところか。でも茶髪でもないんだよね。ついでに詠美ポジションの奴がいな…いや、それは曹操なのかこの場合。