解説 孫策
-学三設定-
「長湖水上運動部連合」(通称「長湖部」)創始者である孫堅の妹。顔つきもどちらかというと美少女というより美少年系で、姉とは異なりスレンダーな体つきのために少年に間違われることも多いが、当の本人はあまり気にしている様子もないらしい。周瑜とは幼馴染のなかでも特に仲が良く、実の姉妹以上の関係にあると言われるほど。
孫堅が劉表と荊州学区の領有を巡っての大会の最中、劉表側が仕組んだ罠にはまって大怪我を負ったのが原因で引退を余儀なくされた孫堅に代わり、長湖部を受け継ぐ事となるのだが、暫しの間袁術に飼い殺し同然の扱いを受けていた。ところが孫策は、董卓が放火し荒廃した洛陽棟から孫堅が持ち帰ったという「蒼天学園都市中心サーバー」のマスターキー(後にこれが曹操の手に渡った際、形だけ似せたフェイクだった事が判明する)を惜しげも無く袁術に引き渡し、その対価として空白だった水泳部長のポストを元手に揚州を中心とした湖畔の学区に覇を唱えるべく奮闘する。兵を挙げた孫策は持ち前の行動力と実行力、そして道すがら集めた多くの人材と、朱治を筆頭とした孫堅時代の中核メンバーを集めた強力な戦力をもって、当時割拠状態であった揚州学区の大半を僅か一ヶ月あまりで平定、蒼天生徒会に対しても「揚州校区において問題を起こす山越高校及び五渓高校生徒の行動を取り締まること」という条件を引き換えに長湖部を生徒会に公認させた。そのことにより「長湖の小覇王」として、学園内外に広く名を知られるようになった。
学園でも屈指の卓越した戦闘能力の持ち主で、運動神経も抜群に良く、特に水泳に関して孫策に匹敵するのは姉の孫堅を別格とすると精々丁奉くらいしか存在しない。姉と微妙に異なる色合いながら、面倒見がよく世話好きで、学年問わず絶大な人望を寄せられている。孫権とは反りが合わなかった張昭や虞翻なども孫策に心酔し、孫策もまた彼女らに厚い信頼を寄せていたのだが、反面好き嫌いがハッキリしているため、彼女に眉をひそめている集団も多い。そのため姉の仇である劉表と対立しつつ、曹操が擁する「蒼天会長」を奪取して長湖の畔に学園の覇権を確立しようとしたが、秘密裏に勧めていたその作戦の実行直前になって闇討ちに遭い、その怪我が元で引退を余儀なくされた。一説にはそのこざっぱりして肝の据わった性格に反して怪談(コズミックホラー、クリーピーパスタ系のものも含む)が大の苦手だったにもかかわらず、ある夜に肝試しめいた度胸試しの最中、その言動が「魔女」の通り名で知られるある少女の逆鱗に触れて本気で怖がらされた勢いで、呉郡棟の屋上から落下して頭から地面に激突した怪我が元でドクターストップがかかり、周囲を唖然とさせながら引退を余儀なくされたとも言われる。
経緯はともかく、彼女は生死の境を彷徨うレベルの怪我を頭に負ったことから回復は絶望視されていたものの、異常な回復力により二週間で目を覚ましなおかつ半年ほどで完全回復してしまった。とはいえ一年生の身で課外活動から身を引かなくなったことは事実であり、諦めた孫策は課外活動に参加していなかったものの、後々も長湖部に近しい場所で魯粛や甘寧などとつるんで色々と騒動を巻き起こしていたようである。また、当時洛陽棟にいた陸抗や陸凱に色々仕込んでいたらしく、この二人が取る戦術は孫策の戦術を生き写したかのようなものだったと後世に評されるようになった。
-史実・演義等-
孫策 一七五~二〇〇
字は伯符。破虜将軍孫堅の長子で、呉の大皇帝孫権の実兄。
十七歳の若さで孫堅の荊州攻略に随軍し、華々しい戦功をあげて初陣を飾ったが、その最中孫堅が不慮の事故により戦死すると、軍団をまとめることができず一時は袁術のもとに身を寄せた。袁術の食客である間、孫策はその命令を奉じて廬江などを平定する功績をあげていたが、袁術は孫策の才能を高く評価すると同時に、自分が取って代わられぬよう飼い殺し同然の扱いをしていた。
一九四年、袁術から軍兵を借り受けることができた孫策は、程譜や韓当といった孫堅子飼いの猛者達や、義兄弟の周瑜らの人士、そして新しく集めた蒋欽や呂蒙といった荒くれ達の協力を得、江東の土着勢力を次々に平らげ、平定していった。因みに軍兵を借り受ける質として孫策が伝国の玉璽を袁術に献じた、というのは演義における孫策挙兵の経緯として有名だが、正史ではその真偽についてははっきりしていない(「江表伝」には孫堅が洛陽で玉璽を発見し持ち帰ったことが記されているが、裴松之はその説に否定的な見解を示している)。ともあれ、僅か四年ほどの間に江東に大勢力を築いた孫策は、「西楚の覇王」と称された項羽に擬えられ、「江東の小覇王」と呼ばれるようになった。
その人となりは、秀でた容姿を具え、談笑を好み、性格は闊達にして他者の意見を良く聞き入れ適材適所に人材を用いたため士人も民衆も、孫策のために命を惜しまないほどだった。反面、自分よりも名声があり、慕われるものを酷く嫌う面があり、なおかつかなりの激情家であった。「小覇王」という呼び名も、項羽は戦に強く士卒を愛した反面敵対者には容赦がなく、癇癪を起こすと他人の意見を全く聞き入れないという欠点があり、孫策にも同様の性質があることを揶揄したものである。さらには戦場でも平時でも単独行動を好む悪癖があり、三国志正史で数少ない一騎討ちである孫策と太史慈の一騎討ちも、周囲の諌止も聞かずに僅かな供を連れて劉繇の陣を偵察しに行く道中に起こったものである。この凄絶な一騎討ちは正史・演義供に描写は変わりなく、最終的に孫策と太史慈は馬から転げ落ちてまるで子供の喧嘩じみた取っ組み合いになったが、やがて双方の援軍が来たため痛み分けとなった。
孫策はそうした欠点が重なり、自分に叛意を抱いたかどで一族もろとも滅ぼしたかつての呉郡太守許貢が養っていた食客の残党によって闇討ちされ、その時負った怪我が元で急死。数え年にして若干二十六歳という若さであった。彼の息子孫紹は後に呉候に封ぜられたが、その孫紹の子孫奉は、帝位簒奪を疑われて孫皓に殺された。
有名な話だが、孫策と周瑜の妻は名士として知られる橋玄の孫娘であり、孫策は姉を、周瑜は妹を娶っている。孫策と橋氏(大橋)の娘は後に陸遜に嫁ぎ、陸遜とその孫氏の子が斜陽の呉を支える最後の名将・陸抗である。
-狐野郎が曰く-
小覇王。今思えばこの呼び名こそが孫策にとっての死亡フラグだったのではないか、と思えなくもない。孫策が横死して果てたのは二十六歳の時だが、項羽が討たれたとき彼の年齢は三十一だったとされるわけで、同じようにまるで帚星のように儚く散ってしまった感がある。ただ項羽と違ったのは、彼には後に皇帝となる弟と、それを支える名臣達がよく彼を補佐したことが挙げられるだろう。面白いことに「気に食わないヤツはとことん嫌った」と評されるわりに、後に孫権と悶着起こしまくる張昭や虞翻といった面々が孫策には大人しく従ってるんだよな。もしかしたら後年、連中が孫権相手にあれこれやり出すのは、孫策を失ってしまったように孫権が巫山戯た行動を起こさないように自分たちで何とかしよう、と思った結果なのかも知れない。一説には孫策の死に郭嘉が絡んでいたという話もある(郭嘉は孫策を「やることなすこと性急すぎてそれを顧みようとしないし、そのうちつまらん輩の手にかかって死ぬだろう」と予言めいた評価を下していたが、孫策が横死したのもその直後ぐらいだったことから、郭嘉が許貢の食客達を唆していたからとかなんとか…)のだが、まあ、あまりにも早世が惜しまれる人であった。演義でも正史でも派手な活躍が多く、間違いなく三国志前半を彩る英雄の一人と言っても良いだろう。孫策を主役とした漫画で有名なものに「一騎当千」(著作塩崎裕二)があるが、幸いにも主人公だけあってこちらの孫策はまだまだ死ぬことなく暴れ続けているようであるが。
学三版孫策はというとその「一騎当千」の孫策とは正対称と言えるような風体…言ってしまえばスレンダー体型でショートカットのスポーツ少女。ただしオツムの中身にあまり大差ないような印象である(言い草)。個人的に長湖部歴代でもっとも個人戦闘力が高いのは孫策という前提で話を作っているため、実はある意味でかn…おっと、誰か来たかな(
なお敢えて言うが、今回デザインを軽くアレンジするにあたってカラーリングを、普段狐野郎がどっかの騒霊三女と同じものにしたことも実は意味があったりする。イメージ的にはそのリリカ・プリズムリバー本人と言うより、東方卓遊戯の名作「白玉楼ALG」でそのリリカがRPした樫野リカが近い。あとは「鬼滅の刃」の嘴平伊之助も少し混じっているかも知れない。