解説 司馬懿
-学三設定-
河内地区の名族である司馬家の令嬢で、曹操の下で兗州学区総代を務めた司馬朗の従妹にあたる。
曹操は彼女の才覚を聞きつけると召し寄せて側近としようとしたが、司馬懿は曹操の何が気に入らなかったのかあの手この手で招聘を拒否。しかし最終的には手段を選ばない曹操の態度に折れ、渋々蒼天生徒会の運営に携わることになった。曹操の下ではあまり目だないように行動していたが、それ故に曹操に招かれながら、その曹操があまりにも彼女の潜在能力が底知れぬ為に恐れて重く用いなかったとも言われるようになった。結局曹操は渋る司馬懿を強引に曹丕付きの補佐役を押しつけたが、どうやら曹丕とは何やらウマが合ったらしく行動を共にすることが多かった。
曹操が突如引退を表明し、その後継者となった曹丕がやがて蒼天生徒会長のポストに就くと、その片腕として実力を発揮。諸葛亮の「北伐」を六度にわたって退け、遼東キャンプで挙兵した公孫淵の軍をその僅か三分の一に満たない兵力で撃破するなど優れた軍事的才幹を見せ、曹氏蒼天会に重きを成した。最終的には自分を権限のない名誉職に追いやり、わが世の春を謳歌していた曹爽一派をクーデターによって一掃して司馬一門の勢力を磐石のものとし、間もなく妹の司馬師・司馬昭のふたりに後事を託して引退した。妹達は蒼天生徒会を乗っ取る気満々だったようだが、少なくとも司馬懿本人にその気はなかったらしい。
無口でやや根暗、あるいは浮き世離れしたような言動を取ることから近づきがたい雰囲気を持つが、天才的なイリュージョニストという一面を持つ。ただそれ以上に様々な、第六感とか超能力と呼ばれるような能力を持つとも言われており、彼女やその妹達が行うイリュージョンにもその仕掛けが不明なモノもあることから、実際は魔法のようなモノを使うことも出来るというウワサすらある。その性格通り普段の服装も地味なものを好むが、強制引退の危機にあって焦る諸葛亮が送りつけたリオのカーニバル衣装を模した度派手なステージ衣装を見事に着こなしてショーを行い、蒼天会・帰宅部連合双方の度肝を抜いた。諸葛亮に対してなにやら特別な感情を抱いていたようで、引退してすぐその足で彼女の元へ押しかけて行ったとも言われる。
首が180度近く回るといわれるほど柔軟な体を持つ。曹操があるとき、司馬懿を驚かせようと後ろから近づいたが、逆に司馬懿が首だけで後ろを振り向いて曹操を驚かせたというエピソードがある。
-史実・演義等-
司馬懿 一七九~二五一
字は仲達、河内郡温県の人。後に晋の武帝となる司馬炎の祖父に当たり、晋建国の際には諡して宣皇帝と称された。故にその人物伝は「三国志」にはなく、「晋書」の宣帝本紀がその伝にあたり、三国志正史には通常「司馬宣王」の記述で登場する。その遠祖には戦国時代末期の趙国で李牧と並び称される名将・司馬防とその子で殷王となる司馬卬がいるとされる。
司馬懿には当人含め八人の兄弟がいたが、いずれも優れた才能の持ち主で、その兄弟は皆字に「達」の字を持っているため、「八達」と称された。中でも次男の司馬懿は特に優れているという評判があり、若い頃から聡明で知られる一方で感情を隠すことが巧く、内心激しい怒りを抱くことも多かったが、表面上は穏やかに振る舞いそれを他人に悟らせなかったという。この特技(?)によって内心嫌っている人物にも寛大な態度で振舞うこともできたが、猜疑心が強く、変わり身の早い性格の持ち主だった。また、「狼顧の相」という、首が真後ろにまで回るという異相の持ち主であったとされる。
曹操は司馬懿を招聘しようとしたが、司馬懿は曹操よりも家柄が優れていたことでその下風に就くことを良しとせず、仮病を装って拒否していた。しかし捕縛してでもつれてくるようにと命じられた使者が来ると、恐怖心を抱いた司馬懿は、渋々ながら招聘に応じた。ところが、そこまでして司馬懿を手元に置いておきながら曹操は、漢中攻略や荊州の攻防戦において司馬懿が多くの優れた献策を行おうとも、その多くは採用しなかった。曹操は司馬懿が天下を窺う器量とその志を持っていたことに気づいており、そのためにさほど重用されなかった為だと宣帝本紀に記されている。そういう経緯もあり曹操との関係はしっくりこなかったが、曹丕に対しては太子四友の一人になったこともあってか関係は良好で、司馬懿に対して警戒心を緩めない曹操に対して常に曹丕がフォローを入れるという関係であったようだ。
その曹丕が曹操の後継として魏王に、そして禅譲によって帝位に就くと、二二五年に仮節を与えられるとともに撫軍大将軍・録尚書事に昇進する。間もなく文帝・曹丕が崩御すると曹真、曹休、陳羣とともに新帝曹叡の後事を任されたが、曹叡の母親が罪を得て誅殺されていたことから後宮暮らしが長く、知っている臣下があまりに少ないこともあり、陳羣と共に引き続き朝廷の重鎮として重く用いられている。その年に諸葛瑾らを大将とする呉軍が襄陽へ攻め寄せてくるとこれを撃退すると共にそのまま宛に駐屯、次いで二二八年に新城太守孟達が謀叛すると、それをいち早く知った司馬懿は曹叡への拝謁を後回しにして孟達を電撃的な行軍によって速攻撃破し、曹叡はその功績を認めたうえで更に無断で軍を動かした件については不問とした。そして蜀軍の補給路の要であった街亭を落とし北伐を頓挫させ、以後も数度の北伐を良く防いだ。諸葛亮が世を去った後も、公孫淵討伐(遼隧の戦い)や芍陂の戦いといった主要な合戦の総指揮を執り、それぞれ敵を打ち破っている。演義では只管守りに徹して麾下の武将からブーイングが飛ぶことも度々あるために持久戦の得意な人物と思われがちだが、先述の孟達謀反の時のエピソードや、公孫淵の討伐の際にも全速力で遼東まで乗り込んで速攻撃破してのけている実績からも窺えるように、本来は電撃戦と得意としている。
諸葛亮が陣没したことを知った途端に即座に追撃を仕掛けるも、撤退する蜀軍の動きに諸葛亮の影を感じ畏れを抱いて軍を引いており、そのことから「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という言葉が生まれた。司馬懿は後に人々からこう言われていることを知って「わしは生きている人間を相手すること出来ても、死んだ人間に対してはどうにもできぬ」と述べたという。
曹叡が世を去ると、司馬懿は曹真の子曹爽とともに後事を託された。しかし実権を握りたい曹爽は、司馬懿を名誉職に過ぎない大傅の位に祭り上げ、実質的に政治の中心から外してしまった。司馬懿は曹爽一派の隙を誘うため、病と称して家に引篭もり、見舞いにきた曹爽の腹心李勝の目の前でボケたフリをして油断させ、曹爽一門が狩りに出かけた隙を突いてクーデターを起こして政権を奪取した。以後、魏朝廷は司馬一門に牛耳られ、のちの晋王朝への禅譲の下地が作られるのである。
司馬懿はクーデターから程なく、本当の病によって世を去った。享年は数えで七十三。
司馬懿といえば有名なのは、横山光輝「三国志」で、功を逸る諸将に対して「待て、あわてるな。これは孔明の罠じゃ」と釘を刺すシーンといっても過言ではないだろう。これは三国志関連のネットミームでもかなり知名度が高いものとなり、三国志を知らなくても「孔明の罠」というフレーズは知っていると言う人も多いのではないだろうか。演義でもそうであるが、正史でも蜀の軍が撤退した陣の跡を見て「諸葛孔明はまさしく天下の鬼才だ」と感嘆したといい、更に演義では今際の際に「諸葛孔明は素晴らしい男であった。あの世へいったら彼の元でゆっくり教えを請いたい」と言い残している。
余談であるが彼の正妻である張春華(宣穆皇后)はとんでもない恐妻としても有名で、司馬懿も彼女の恐妻ぶりに辟易していたらしいこともその伝から窺える。
-狐野郎が曰く-
「三国志」の時代に深く関りながら、その伝が「三国志」に存在しないという不思議な人、司馬仲達。コーエーの「爆笑三国志」などの解説本を読むとたいていの場合は嫌われ者とか、まるで三国志全体のラスボスの如く書かれているわけだが、大体こういうモノは演義ベースで話を進めていると相場が決まっているので、どうしても諸葛亮を良いように書くし、それに対抗した司馬懿を悪者に仕立て上げるというのも当然の帰結となるわけだが。なお司馬懿自体には本当に簒奪の意思はなかったようで、死の間際にふたりの息子に「自分は常に謀反する謀反するって言われ続けてたし、故に疑われぬよう注意を払ってきた。お前達も疑われないように気をつけて生きろよ」と訓戒を残している。しかし司馬昭が特に、専横の意思を露骨にして振る舞ったこともあって、司馬懿はとばっちりに近い形で後世「こいつ生前からずっと簒奪したい簒奪したいって思い続けてやがったで」って言われまくるようになってしまったわけだが…中国の多くの人物からのみならず、かの吉田松陰までもが「司馬懿(と曹操)のような臣下が居ることはあらゆる人民の罪であり、恥である」などと散々な言い様をしている有様。とにかく長いこと司馬懿と曹操は、アジア圏というか「三国志」を知っている文化圏では「絶対悪」の代名詞として扱われ続けていた風にすら思える。これも近年の帰正史運動で大分見直されていくようにはなり、三国志正史の翻訳に関わった中国史家の故・井波律子女史は「司馬懿は文帝(曹丕)、明帝(曹叡)から遺命を受けながら、最終的に魏王朝の簒奪を目論む裏切り者の烙印を、これまた千古に押された」とも述べている。考えようによっては司馬懿こそ演義最大の被害者なのかも知れんね。めっちゃおっかないというかエキセントリックでサイコパスな奥さんもいたしね。
あと司馬懿と言ったら忘れてはいけないのが、「真・三国無双」シリーズの司馬懿とそれを演じた故・滝下毅氏。3の五丈原の戦いステージ(蜀軍サイド)では司馬懿を挑発するイベントがあるのだが、フリーステージではプレイヤーが司馬懿を使ってCPU(というかステージボス)の司馬懿を挑発するというトンチキな事態を起こせるので必見である。そもそもこの司馬懿、やたら「馬鹿め(が)!」を多用し他の者を見下して「凡愚」と嘲る普通にイヤな奴なのだが、特殊攻撃や無双乱舞で羽扇ビームをぶっ放しながらメチャクチャハイテンションで高笑いをするなど妙にはっちゃけており、シリーズを経るごとになんかいろんな意味でファンに愛されるようになり、滝下氏も自身のブログアドレスに先述の得意台詞(?)を用いるなど非常に愛着を持たれていることが窺えた。滝下氏は経緯不明のまま2013年に不慮の事故により突如身罷ってしまわれたが、訃報を知ったファン達からは「馬鹿めが!!(´;ω;`)」と嘆く言葉が多く寄せられ、公式もその冥福を祈るべく特別に司馬懿の壁紙を配信するに至り、その後に配信されたアプリでも司馬懿ボイスに在りし日の滝下氏のものが今でも用いられてるとのことである。「孔明の罠」のフレーズも併せて、ある意味では、正史の再評価とは別の意味で愛されるキャラクターになりつつあるのかも知れない。
学三司馬懿のモデルは「ガンパレードマーチ」の石津萌と明言されていた(はずな)ので、概ねキャラ付けもそれベースで考えて支障が無いようであるが、狐野郎はそこへ更に「ポケットモンスター(ウルトラ)サンムーン」のオカルトマニアの要素を加えている。あくまで見た目だけかって?
いやいや、ポケモンのオカルトマニアってまあどいつもこいつも言動がエキセントリックだからねえ(ぉ 顧雍とは別タイプの魔法使いキャラのテンプレであるのかも知れない。