解説 諸葛恪


-学三設定-

諸葛姉妹の末っ子で、諸葛喬の双子の姉。
心房欠損の持病があった双子の妹に対して彼女はまったくの健康体で、髪型には長姉諸葛瑾同様動物の耳のようなクセがあった(というか、諸葛亮のイタズラで作られていた)ためどちらかというと諸葛瑾に近い印象を与えるが、性格は大雑把で面倒くさがり、しかもすぐに調子に乗り高慢ちきに振る舞うと似ても似つかない。しかも途轍もなく口達者(諸葛瑾に言わせれば「屁理屈の天才」)で、明らかに揚足取りの屁理屈にしか聞こえない発言ですらあの張昭に(呆れ半分ではあろうが)なんの反論すらさせなかったというレベルで、挙句に中途半端に投げ出すことは多くともやはり高い実務能力と戦術構築能力を持っているため、多くの長湖幹部がその才能を高く評価して将来を嘱望していた。しかし陸遜と諸葛瑾は諸葛恪の性格的に「このままでは将来確実に取り返しの付かない失態を犯すどころか、それで長湖部すら共倒れにさせかねない」と憂慮し、妹大好きな諸葛亮ですら諸葛恪が重職に就いたと聞いて、止めさせるよう直接長湖部に乗り込もうか思案したとすらいわれる。実はそんな諸葛恪があえて孫登の「四友」に仕立てられたのも、彼女に対する名誉では勿論無く、同じ「四友」の陳表にその性格をたたき直してもらうという目的と、孫登の人格を諸葛恪が見習ってくれることを願っての事だったようだ。
しかしそんな周囲の思いも空しく、自分の才を鼻に掛け勝手気ままに振る舞う諸葛恪は「二宮事変」でも処断や左遷の憂き目に遭う顧譚や張休に反して、むしろ半ばこの二人を後々幹部会を牛耳るときに邪魔になると思っていた諸葛恪は、その混乱を見て見ぬフリをしていた。このような性格であったために幹部候補同期の中でも陸凱や虞汜、さらには後に作戦行動における振る舞いから朱績をも敵に回しており、彼女らは揃って諸葛恪を「アホロバ」と呼んで忌み嫌っていた。
孫権引退後には祭り上げられる形で長湖部の運動部実働部隊総帥の地位に就いたが、東興堤防衛戦は実質丁奉や朱異の活躍で成功させたにもかかわらずそれを自分の功績だと思い込んでいたことで、調子に乗って合肥に新造されたバリケード新城攻略に乗り出すが見事失敗。諸葛恪はそれを決して自分の能力不足であることを認めようとしなかったが、孫峻と結託した呂拠の謀略により完全に居場所を失っていた諸葛恪は過去に至るまでの細かな失策までを論われて生徒会を追われ、その後更にドジを踏んで退学に追い込まれた。しかしこれで完全に自分が周囲にコケにされていたことを思い知らされた諸葛恪は、恐らく彼女が生まれて初めて示した全身全霊の嫌がらせで孫峻を自殺寸前まで追い込み、学園から追い払ったという。


-史実・演義等-

諸葛恪 二〇三~二五三
字は元遜。呉の大将軍諸葛瑾の長男で、蜀の武郷候諸葛亮の甥に当たり、その容貌は180センチを越える身長に、かぎ鼻で額が広く、口が大きくて声が高かったと「呉録」に記されている。
若くして優れた才能を持っていたと評され、特にその弁舌は「才知に溢れたきらびやかな言葉を用い、当意即妙の答弁を得意として、対等に議論を交わせる者がいない」とまで言われていた。孫権は彼と面談すると、その才能を高く評価して「藍田(宝石を産出する山のこと)に玉を生ず、というのは虚言ではない」と、諸葛瑾に言ったといわれている。しかし父親である諸葛瑾は、息子の高慢で才覚を鼻にかけてひけらかそうとする性格を危ぶみ、「我が家は息子の代で潰えるだろう」と嘆息し、陸遜や諸葛亮も同じ印象を諸葛恪に対して抱いていたらしく、孫権が諸葛恪の才覚を試そうと兵糧管理の役目につけようとした際に陸遜が「いい加減な性格の諸葛恪には兵糧管理の役目には向いていない」と上奏したために、兵士の指揮を任せることになったという。それは後のこと、その陸遜の子である陸抗と任地を入れ替えた際、陸抗が元の任地の庁舎をきちんと整頓して退去したのに対し、諸葛恪は壊れた場所は壊れたままの有様にしていたというエピソードからも窺えよう。これに際してか、諸葛恪も陸遜が自分に対して眉をひそめていたことを知っていたが、配置換えについては自分の考えでも誤りの無いことであったことから、上奏して遠回しに「(陸遜に言われるまでもなく)自分もそういう風に考えていた」とアピールするなど大人げないところを見せている。
そんな問題児・諸葛恪はそれでも親の七光りだけではない才覚を買われ、二十歳前後で騎都尉となり、丞相顧雍の孫である顧譚、婁候張昭の末子張休、陳武の子陳表と共に太子孫登の側近となった。二三四年、陳表を副官として丹陽郡に赴いているが、その際には丹陽の地形風土の険しいことを述べ、自分が丹陽の長となってこの地で四万の兵を徴集してみせるとアピールした。このことは父である諸葛瑾を筆頭に多くの者が疑問視したが、果たして丹陽に赴任して三年すると陳表の手腕もあって宣言通り四万の兵を登用して見せた。この功績により威北将軍に任ぜられ、都郷侯に封じられている。丹陽に赴任した時点で諸葛恪三十二歳であったという。
その後、順調に出世を重ねた諸葛恪は陸遜の死後に大将軍にまで昇進し、荊州の軍権を握る事となる。孫権が世を去る際、臣下に後事を託すべき人物を審議させると筆頭に諸葛恪の名が上がった。孫権は初め躊躇っていたが、孫峻が諸葛恪の人物を高く評価し、強く孫権に勧めたために結局後事を孫峻と諸葛恪に任せることになった。孫権が亡くなると、孫権の腰巾着となっていた中書令の孫弘は元々諸葛恪と仲が悪く、諸葛恪が実権を握ったら即座に粛正されると思って、孫権の遺言書を改ざんして諸葛恪を誅殺しようとするも、それを孫峻経由で察知していた諸葛恪はあべこべに孫弘を誅殺し、孫亮が帝位に就くと大傅の位に就き、人臣を極めた。
二五二年の東興堤での防衛戦を成功させた諸葛恪は、その功績を誇って更に高慢な態度をとるようになる。そして翌年には逆にこちらから合肥を攻めようと主張を始め、それは呉朝廷から「連年戦続きで民は疲弊している」と多くの反対意見が挙がり、中には朝廷から強制退去させられる者すら居たほどであるが、諸葛恪はすべての反論を封殺して二十万の軍を発した。それにより人心を失い、最終的に合肥攻めは兵の中に疫病が流行したこともあってなんの成果も上げられず、その上この失敗を認めず他の者の失策であると主張したためその威信も地に落ちた。諸葛恪は再三の引上命令で渋々軍を引いたものの、群臣高官を全て自分の息の掛かった者に入れ替え、更に出兵を目論んだことで孫峻によって誅殺されてしまった。その一族も皆殺しの憂き目に遭い、結局のところは諸葛瑾が危惧したとおりになってしまった。


-狐野郎が曰く-

「才は才に滅ぶ」。横光やそのベースとなった吉川英治「三国志」で、かつての大尉楊彪の子楊修が曹操に誅殺されたときに出てきた言葉であるが、諸葛恪の最期こそこの言葉が相応しい。むしろ諸葛恪の場合、その悪才により一族は元より、二宮の変で屋台骨がガタついてた孫呉の命運を更に悪い方向へ蹴倒してるのだから始末が悪い。なにしろ自分の失策を絶対に認めないのだから、例えポーズでも自分の罪を認めた馬謖のほうが幾分かマシに見えてくる。性格からなにからこいつ本当に諸葛瑾の息子なのか疑わしくすらあり、諸葛瑾と別伝にされた挙句同じ巻に専横野郎ばかり集められたのも致し方ないところであろう。実際、諸葛恪晩年の行動は本当に専横そのもので、(経緯はどうあれ)孫峻がやった数少ない善行が諸葛恪の誅殺であるといってもいいぐらいだ。
それはさておき学三版諸葛恪も何故かロバミミ。何しろ親子関係の前後三代くらいが姉妹関係になるので、諸葛一家なんて最低でも八人姉妹(上から瑾、亮、均、恪、喬、譫、融、尚で恪と喬は双子)になるという驚きの事態に。しかも何故かロバミミは諸葛恪と諸葛瑾だけなので、ロバ耳の馴れ初め話では、孔明の悪戯で子瑜姉さんと元遜だけが実験台にされたということになった。まあ流石に人数も多すぎるし、ここでは本当の姉妹はそのうち四人、あとは親戚縁者でその中の年長のまとめ役として諸葛瑾、というイメージになってそこに諸葛誕・諸葛靚も加わっているみたいなイメージで考えている。性格の悪さも据え置きで、誰か「最初はイイ娘だったんだけど、権力を持ってから人が変わった」というカテジナさん的変貌を考えていた人もいたらしいが…どう考えても「こいつは生まれついての悪人だッゲロ以下のニオイがプンプンするぜェーッ!!」の方がイメージしやすいかなあ。救いはない、悲しいが(