解説 張悌
-学三設定-
「長湖部」こと「長湖湖畔連合生徒会」最後の副会長。
彼女が中等部に入って間もない頃、諸葛亮は荊州学区出身の彼女を自分の属官に望んだが、丁度その頃荊州学区の領有権は長湖部に移っていたため、未練を捨てきれない諸葛亮はせめて自分の姉である諸葛瑾に彼女の引き立てを嘆願した。諸葛瑾もまた直に会って張悌の非凡な才覚を認め、幹部候補生として推薦。「二宮事変」を端緒とする激動の長湖生徒会において少しずつ頭角を現していったが、彼女が丁固・孟宗から長湖生徒会副会長としてのその舵取りを任される頃には、既に長湖生徒会はこれまでの混乱と暴政により、交州校区での郭馬を首魁とする大規模な反乱への対応すらまともに出来ないという崩壊寸前の状態であり、そして計ったかのように司馬氏蒼天会による大規模な南征に直面することとなった。しかし張悌は滕修や吾彦、沈瑩ら最後に残った主将達とともに、長湖部創成の頃から連綿と紡がれてきた想いに殉じるべく、長湖生徒会を見捨てる多くの一般生徒を咎めることもせず意志を同じくする僅かな者と最後の戦いに挑んだ。その絶望的な、破れかぶれの抵抗でしかないその戦いの最終局面で、孫皓が本懐を遂げたことを知った張悌は、先に大軍勢に飲まれた沈瑩に続くかのように単身、益州校区総代王濬の本軍に吶喊して玉砕した。
諸葛亮が張悌にこれ程までに入れ込んだ理由は、大凡八割はその「萌え」要素によるものと言われているのだが、それ以上に諸葛亮自身、張悌が決して逆境に挫けぬ強い意志を有していること、それに共鳴する何かを感じていたからだったともいう。張悌も最後に突撃を敢行する際、副将を務めていた諸葛靚が「この軍勢に討ち入って玉砕する意味なんて何処にも無い、まして、あなたには武芸の心得らしいものすらないというのに」と涙ながらに引き留めるも、彼女は「私は子瑜先輩、そして孔明先輩と、あなたの族姉ふたり分の期待をも背負ってここに立っている。長湖部の最期に私が殉じる事が出来るならば、大役の在任中に何も出来なかった私は初めてあの人たちの期待に応えることが出来る…だから、そんな風に引き止めたりしないで」と涙ながらに応え、止める諸葛靚を振り払った。王濬は、傷だらけになっても鬼気迫る表情で己の前まで辿り着いた彼女の姿に感銘を受けて、本来なら決して届かぬだろうその切っ先を受け、これを理由にして長湖生徒会解体の事務処理を終えたことを宣言すると同時に自身の引退を宣言したという。
-史実・演義等-
張悌 ?~二八〇
字は巨先、襄陽の人。若くして道理に通じていると評判があり、幼い頃には諸葛亮(一説には諸葛瑾)にその才能を認められたという。
蜀が滅びるに際し、ある人が張悌に「まだ司馬氏は自国の人心を掌握したわけではないので、この時期に遠征の軍を起こせば失敗は目に見えている」と言ったところ、張悌は「蜀は政治腐敗によって対抗するだけの力は残っていないから滅びるだろう」と主張した。人々はそうした彼の言葉を笑ったが、果たして蜀は鄧艾の成都奇襲が図にあたり全面降伏してしまった。
孫皓の時代には軍師の職にあり、呉滅亡の前年である二七九年八月に丞相となった。しかし同じ年には交州で郭馬を首謀者とする大々的な反乱が起こっており、呉国内は混乱に見舞われていた。これを好機として晋の南征が始まると、張悌は右将軍の諸葛靚(諸葛誕の子)、丹陽太守の沈瑩と共に牛緒で晋軍を迎え撃ち、激戦の中で散った。
張悌は最後の戦いに臨み、諸葛靚や沈瑩に降伏を勧められたが、「国が滅びようとしているとき、その危難に命を捧げる者がいないとなれば恥だ」と言って軍を進めたという。またその最期の時、諸葛靚はその場から一歩も動こうとしない張悌に「何故そう死に急ぐのですか」とその手を引いたが、張悌は「仲思(諸葛靚)殿、今日が私の死ぬべき日なのだ。ここで私が身をもって国家に殉じるのであれば、幼い頃の私を見出してくれた、あなたの一族の丞相(諸葛亮)の知遇に応えることが出来る。だからそんな風に手を引かないでくれ」と涙ながらに応えたという。
-狐野郎が曰く-
最後の瞬間、孫呉には既に戦う力など欠片も残っていなかった。それでも虞忠や沈瑩、そして彼が玉砕して国に殉じ、吾彦は主命を受けるまで頑強に任地を守りきってそれぞれ名を残した。亡国にあって無道の君主のために命を賭けることにどれほどの意味と価値があったのかなど、彼らの生き様を語る上にとって余りに無粋なことではなかろうか、と思う。それは最期の瞬間まで主君袁尚に対する忠義を見せて刑場に散った審配や、滅びた智伯の仇を討つべく趙襄子の命を狙い続けた予譲などに通じるものは確かに存在すると思う。その主が道に外れていようとも、それに殉じた烈士が一人居るだけでも印象はだいぶ異なるだろう。最も狐野郎は孫皓について、本当に唾棄すべき暴君でしかなかったのかと言われれば大いに「NO」と言うところであるのだが。
正史によれば彼の才能を認めたのは諸葛亮先生になっているのだが、「金陵新志」という史書に拠れば諸葛瑾の推挙によって呉に仕えた、ともある。張悌の年齢は不明であるが、この人の一族が襄陽にいたということを考えると、諸葛亮の知遇を受けたというほうが自然、と言えなくもない。諸葛亮は二一二年くらいまでは荊州にいるわけだし、この頃までに出会っていれば(尚且つ諸葛亮に遭遇していたとすれば)亡くなった頃は若くても七十歳くらいにはなっているだろう。年亭的にもっと若いとすれば諸葛亮だと流石に無理があるのだが…。
デザインに関しては狐野郎によるものだが、「長湖文系は眼鏡でツンデレ」という自分ルール()に則って基本は黒髪で地味な眼鏡っ子という感じで仕上げてみたものの、今回イラストをリファインするに際して、改訂開始頃から沼に沈み始めた「ウマ娘プリティダービー」(CyGames)よりライバルトレーナー・桐生院葵をベースに、ウマ娘・イクノディクタスのメガネを足したデザインにリファインしてみた。「鉄の女」イクノのイメージは、長湖最後の抵抗者となった彼女らしさとうまくマッチしていると思っているのだが、さて。