解説 袁紹


-学三設定-

世界有数の名門で、学園都市の中央部に位置する汝南地区に本拠を置く袁財閥当主の長女。しかし最初から嫡出というわけではなく、元々は分家当主であった父親がメイドに産ませた娘であり、認知はされたものの家中の厄介者扱いであった。
小学校に上がる頃に、彼女は本家相続権第二位の分家に幼女として出されたが、彼女は年老いた養父母に子供がなかったことから実の娘のように可愛がられた。それなりに裕福で、何不自由ない生活を約束されていた彼女に、やがて一大転機が訪れる。本家当主と跡取りの突然の事故死により、彼女は突如時期袁財閥の党首の座を手に入れてしまったのだ。嫡腹・妾腹の区別なく仲が良かったはずの異母妹・袁術ともこのことがきっかけで断交状態になった。
やがて袁紹は、帝王学を学ばされるために蒼天学園へ編入させられ、幼馴染であった曹操や、断交状態にあった袁術たちと思わぬ再会を果たすことになる。学園ではその家のネームバリューもあって当然ながら生徒会入りをし、書記として人望を集めることとなり、そのままであれば何もせずとも学園の覇者としての未来が約束されていた袁紹であるが、董卓の出現や、それに伴う乱世に乗じて力を蓄えてきた曹操の存在がその未来予想図を狂わせていった。しかしそれでも、彼女は生まれ持った資質で有能な人材を幕下にかき集め、北部四校区の覇者となった。
袁紹は物腰はゆったりと余裕があり常に穏やかな微笑を絶やさなかった。当然容貌も優れ、幼少期の躾も良かったのか周囲への細かな気配りもできるため自然と人に慕われ、おのずから集団の指導者になる素質があった。しかし表に出さないぶん、胸のなかでぐるぐると思考迷路に迷い込む一面もがあり、これと認めた子飼いの者は絶対に疑うこともしないが、我の強い者に対しては、それが如何に正しい提案をしても退けがちにするという欠点があった。彼女の集めた頭脳集団も軒並み優秀で、田豊のように口の上では苦言を呈しながらも心酔しているような人物も多数居たものの、その田豊を含めて腹心の逢紀、自ら見出して側近とした審配や郭図、かつての盟友であった許攸など誰も彼もアクが強すぎて常に衝突を繰り返している状態で、袁紹自身彼女らの方針にあまり口出しせず、個々の自由を重んじたためにかえって混乱を招く結果となった。
結局それらの要因が重なり、曹操との決戦では始め優勢だったものの、劉備の口先三寸や郭図の戦略を信じ込んだために総敗北を喫する。彼女はその敗北に混乱を来す北部四校区の混乱を何とか収拾するが、己の限界を悟って引退する。しかしその際にはっきりと後継者を定めず、袁氏政権崩壊の火種を残したまま課外活動の表舞台を去ったため、後世の学園史研究家から批判の嵐を食らうことになった。


-史実・演義等-

袁紹 ?~二〇二
字は本初、汝南郡汝陽県の人。彼の五代前の袁安から四代に渡って、後漢王朝の三公を輩出した名門の生まれであることは良く知られており、中には宦官として権勢を振るった者もいる。袁紹は後に帝位を僭称する袁術の異母兄であったが、庶子であったため、実父袁逢の兄に当たる袁成の養子となりその後を継いだ。それゆえ、袁紹は袁一族の頭領となったのだが、一説によればそのために袁術との仲がしっくりこなくなったといわれる。戦乱の世にあって母の喪に三年服してみせたり、中々推挙に応じず任侠を気取って徒党を組むなど変わり者のような青年時代を送っていたが、やがて司隷校尉として官途についた。
霊帝崩御の折、大将軍何進と謀って宦官誅殺を目論んだが、何進の妹である何太后の妨害などにあって何進は二の足を踏んでいた。宦官たちは何進の元へ陳謝に訪れ、袁紹はこの機会に計画を実行するよう進言したが、結局何進は聞き入れず、後に十常侍達によって何進は殺される羽目に陥ったが、予め袁術に近衛兵を掌握させていた袁紹は、宮中に乗り込んで宦官の虐殺を決行した。このとき、ひげのないものが真っ先に狙われ(宦官は去勢されていることから、男性ホルモンの関係でひげが生えなかったので)、宦官でもないがひげが生えていなかったものも殺され、素っ裸になって宦官でないことを証明して命が助かったものすらいたという。しかしこの事件は、何太后をけん制するために何進が呼び寄せてしまった董卓が、混乱で行方知れずとなった帝を保護したことで、董卓の専横を招くことになってしまう。そのあと、董卓に少帝の廃位の相談を受けたが、それに反対の意思を持つ袁紹は言葉を濁して席を辞し、そのまま渤海へ逃亡した。董卓は激怒して袁紹討伐の軍を起こそうとするが、周囲の諌止を受けて袁紹を渤海太守とした。
その後、反董卓連合軍の総大将となり、連合が瓦解すると逢紀の進めに従って冀州を得た。冀州牧の韓馥は元々袁紹と懇意だった人物であり、その配下は袁紹の勢力が弱小であり従うのは馬鹿馬鹿しいと反対したが、北平を支配する公孫瓉の脅威に脅かされていた韓馥はあっさりと冀州牧の役職を袁紹に譲り渡したと言う。以後は北平の公孫瓉と勢力争いを繰り広げ、一九九年にそれを滅ぼして河北四州の覇権を得た。その勢いをもって、袁紹は後漢皇帝を要する曹操と決戦するため南進を開始した。
袁一族は四世三公の名門ということもあり、天下の人々に大きな影響力を持っていた。袁紹は堂々として威厳のある風貌をしており、士人には身分を問わず礼を尽したため、多くの人士が彼の下に身を寄せていた。曹操とも若い頃から交流があり、袁紹の下風に甘んじていた時代もあった。しかし、反面では猜疑心が強く、策謀を好んだが優柔不断で、名臣も良策も用いることができなかったと評されている。そのため許攸の裏切りによって官渡で総敗北を喫し、名臣田豊を讒言を信じて殺害してしまった。演義等々ではこれで袁紹の築き上げた勢力があっさりと崩壊したように描かれているが、実際はそうでなく、官渡の戦い以後に冀州周辺では反乱が相次いだが、袁紹はこれらのことごとくを平定して見せている。
そして官渡の戦いの二年後、袁紹は世を去った。袁紹は長男の袁譚の性格を快く思っておらず、三男の袁尚の器量を愛でており、それを後継者にしたいと常々思っていたという。しかしそのことが公表されないうちに袁紹は世を去ってしまったために、袁譚と袁尚は、それを支持する郭図や辛評、審配や逢紀といった臣下の対立を孕んでお家騒動へと発展していった。しかしそうして分裂した勢力ですら当時の曹操にとってはかなりの巨大勢力で、また袁氏に味方するものたちも各地で不穏な動きを見せたため、曹操は五年近くかけての北伐によってようやく河北を制圧するに至った。さらに彼の出身地である汝南郡では滅亡後も袁紹を慕う者が多く、晋の時代まで袁氏政権の復権を望む声が高かったという。


-狐野郎が曰く-

「三国志」「優柔不断」と連想すると高確率で袁紹の名前が挙がってくるのではないだろうか。確かに後継者問題というのはどの時代においても騒動の火種になり、これは孫権すらもやらかしているのだから袁紹だけがこの件で責められるのは酷ではあるのだが、正直沮授が「うちらのほうが大勢力なんだから、守りを固めて曹操の自滅待った方が絶対に良いッスよ」とか「烏巣やらんたらうちら終わりますんでなんとかしてくださいよ!!」と再三にわたって進言してるのに徹底的に無視したり、田豊の言ったことをちゃんと聞いていれば…と後悔した次の瞬間逢紀にありもしない悪口を吹き込まれた瞬間それを外宇宙までぶん投げる勢いで死を賜るとか、正直こういうのばっかりの印象すらある。そのくせ官渡の大敗北後も、多発した華北の反乱も自力で鎮圧してるからデキる人なのかただの狂人なのかよくわからんのだよな。それまでは袁術との仲違いで中華全土を巻き込んだ大乱世を生み出した首魁とみることもできるんだがそれはそれですごいことで、コーエーの三国志解説本では実は後世の封建制度に通じるビジョンを持っていた意味では、実は演義での誹謗じみた見解に反して曹操よりもずっと先進的なビジョンの持ち主だった、なんて書かれているんよね。まあ同時に「当人もその能力が足りず、臣下もそれを理解できないために結局巧く行かなかった」とも書かれてるんだけど、ただ彼の地元ではその治績自体は相当評価が高かったらしく、かなり後世まで慕われ続けたとも言われるんで、失敗はしたけど当代でもトップクラスの人物ではあったのかも知れない。
「学園三国志」における袁紹に関しては、実はほとんどネタが出揃っていなかった感じだった。恐らくは「蒼天航路」ベースの、独自の覇道観のようなものを持つ大物として描かれるはずだったのだろうと思いたいというか、むしろそういう方向に持って行かせればなあというところである。ぶっちゃけ個人的に結構好きなんですよ、「蒼天航路」と「三国無双」の袁紹。何でかっていわれても困るんだけど。
黄色のヘアバンドでおでこ全開という、某薔薇さまを連想させるお嬢様なんで人格的にも評されるよりはもっといい人なんだと思う。むしろ思わせてくれ。