解説 王昶
-学三設定-
課外活動の表舞台から諸葛亮が去った後の学園において、「蒼天会三征」の一角に数えられる名将。
劉氏蒼天会時代から「清流会」に名を連ねていた名門・并州王氏の末葉に当たり、その関係もあって宗家の王凌からは妹分として待遇されていたようだが、彼女は表向き王凌に従って大人しく振る舞っていたものの、やがて曹丕に才能が認められて前線の校内管理を司る職務に就いて王凌のもとを離れた。彼女は時流をよく見ており、いずれ王凌が何らかの行動を起こして自滅するだろうことを予期していたらしく、実際王凌は司馬一族から実権を奪い取ろうと目論んで自滅した。
生徒会中枢に居た頃は末葉とは言え「清流会」に属する一門であったことから礼儀作法に通じた淑女として振る舞っていたが、その本性は常に飄々と心のままに振る舞う自由人気質であり、気に入った相手に対してはとにかくいじり回さないと気が済まないという困った性分の持ち主。特に前線で相対することも多かった長湖部の朱績に対しての粘着っぷりはかなりのもので、常に彼女の一枚も二枚も上手を取っては余計な挑発を入れて更にけちょんけちょんにするという塩梅だった。挙句彼女は幼少期から様々な武術に通じ、どれも長続きさせなかったもののそのどれもについて高い技量を持っていた。主に杖術をメインに扱い、その戦闘能力は当時の蒼天会においても随一のものだった。
彼女は同期の桜である王基、諸葛誕、毋丘倹らと特に仲が良かったが、やがて司馬姉妹の台頭や曹爽派閥の一掃などの事案により揺れ動く蒼天生徒会の動乱の中、盟友であった諸葛誕、毋丘倹らのクーデターに対しても蒼天会の安寧のためその鎮圧に尽力した。その後も長湖部に対する守りの要として、引退までその地で湖畔に睨みを利かせることとなり、特に朱績にとっては余りにも巨大な目標としてあり続けた。
-史実・演義等-
王昶 ?~二五九
字は文舒、太原郡晋陽の人。同郷である王凌(董卓誅殺に関わった王允の甥)とそろって若いころから名声があり、王昶は王凌が年上であったことから、王凌に兄事していた。また、彼の伯父や父親も、それぞれ漢朝の高官についていた。
曹丕がまだ太子であったころ、王昶は太子文学(太子専属の官職。教務内容は不詳)に任じられ、やがて中庶子(側近)に昇進した。曹丕が帝位に就くと洛陽の屯田を司る役目に回され、当時洛陽周辺では未開墾の土地が多かったが、王昶は命じて荒地をどんどん開墾させ、住民に勧めて田畑を作らせた。ついで曹叡が即位すると、揚烈将軍に任じられ、関内候の爵位を受けた。
王昶は、魏の法律が漢のそれを引き継いでおり、法律制度が苛酷かつ細かいところまで法で縛り付けるようなものであったことから、このままでは政治の強化を復興させることが困難であると考えた。そこで「治論」という、古代の制度に倣いつつも、当時の状況に合致した論文二十余篇を著した。また「兵書」十余篇を著し、奇策と正攻法の働きについて述べた。これらの論文は、青龍年間(二三三~二三六)に上奏された。
二三六年、詔勅によって品行と才能両方に優れた人物を推挙するよう朝臣へ命令が出された時、当時大尉の位にあった司馬懿は王昶を推挙した。正始年間(二四〇~二四八)には徐州に転任し、征南将軍・荊豫諸軍事として仮節を与えられ、武観亭候に封じられ、次いで南陽の宛に駐屯することになった。しかし守備に不安のあることから、王昶は上奏して役所を新野に移し、その地で水軍の調練や開墾増産に努めて治績を挙げた。
二四九年、司馬懿がクーデターによって曹爽の一門を一掃すると、上奏して大臣の得失について広く意見を求めた。王昶は政治の方策五箇条をあげ、華美を抑えて子弟にきちんと学問をさせること、勤務態度をきちんと評価するべきことなどを具申した。
二五〇年、王昶は呉が混乱状態にあることを述べ、その機に乗じて呉蜀を攻め滅ぼすべきと進言した。王昶は江陵から、荊州刺史の王基は夷陵から、新城太守の州泰は巫や房陵方面からの三路から呉への侵攻作戦を取り、王昶は江陵を守っていた施績を手玉にとってその軍を散々に打ち破ったが、結局は陸凱らの守りを打ち破ることが出来ず南征を断念することになった。このときの功績により征南大将軍となり、爵位も京陵候に格上げされた。以後も毋丘倹・文欽の乱の鎮圧、諸葛誕謀反の鎮圧にも参加し、それらの功によって司空に昇進した。
二五九年逝去、諡は穆公。子の王渾がその爵位を継いだ。王昶は自分の子供や兄の子供の諱と字をつけることになったとき、そのすべてに謙虚と質実を備えたものを選んだ。例えば自分の長男(王渾)は字を玄沖というが、それは道教や儒教の教えを踏まえ、玄黙(冷静で口数が少ない=余計なことを言わない)と沖虚(心を空しくする=常に自然体でいる)ことを行動の規範とするよう願ってつけられているという。王昶は郭嘉の息子である郭奕と懇意であったが、郭奕は性格に癖が強く、嫌うものが多かったため息子達にはそうであって欲しくないと思っていたようである。しかし王渾は、呉討伐の最大功労者であった王濬を非常に嫌っており、度々それを讒言する上表を行っていたというから、その願いが通じていなかったようである。
-狐野郎が曰く-
王昶といえば、狐野郎とほぼ同じ頃から「学園三国志」本家でご一緒するようになった方が、当時の曹魏に置ける対外防備の名将たち(王昶のほかには王基、諸葛誕、毋丘倹、文欽、鄧艾、胡遵など)を描く際の中心的な人物という第一印象を抱いたのが認知した最初だったと思う。当時はほとんどその時代に活躍した人なんて知らなかったわけだしな。
演義ではほぼ出番がないようだが、正史では清廉潔白な官吏で、荊豫の軍総司令官に当たる役職にあったことから優れた軍才も持ち合わせていたことがわかるのだが、学三王昶はなかなかナイスな性格の持ち主らしく、朱績を遊び半分にからかってみたり、反乱を起こした毋丘倹を説得するときにはベタベタな芝居かかった台詞を吐いてみたりとなんともいい感じのキャラクターに。まあ前述の方が描いたSSのイメージがそうなんだから概ねそういうことになってるんだろう、うん。夾石の攻防では朱績の成長を認めて正々堂々と戦って見せたり、自らの意志を貫こうとする毋丘倹と一騎打ちに臨んだりという格好良さもあれば、姉貴分の王凌には頭が上がらないような一面もあって、狐野郎が書く側からは完全にディランポジションなんだけど、実際魅力的なキャラ構築がされているんだよな。世代的には陸遜の下、朱績や陸抗らの上というイメージで捉えているんだが、実はこの世代、他にも郭淮とか陳泰みたいなバケモノじみた連中もいるわけで。
実際デザインというかモデルはなんなんだろう、キャラスレでも全然触れられてなかったし。一応多少アレンジは加えたがこのカットもほぼ本家通りである。