解説 王基
-学三設定-
課外活動の表舞台から諸葛亮が去った後の学園において、「蒼天会三征」の一角に数えられる名将。
同じく「三征」とされる太原の王昶とは昔なじみであり、その関係から王昶の姉貴分である王凌からその才能を非常に愛された。王凌の入れ込みようはかなりのもので、王基はあまり乗り気ではなかったもののとにかく王凌は彼女を手元に置こうとあの手この手を駆使し、生徒会三役であった王朗と王凌が険悪な関係になる一因を作ることになった。王基自身は甚だ迷惑がっており、後に司馬懿が半ば誘拐に近いやり方で王凌の元から彼女を引き離した(なお誘拐実行犯は王昶だった)が、流石の王凌も司馬懿の権勢を恐れて渋々従ったらしい。一説に、王凌が後年クーデター未遂事件を起こした遠因もここにあるとか言われる。
そんなこんなで生徒会の中枢に入ると、彼女は実務的な功績は元より、文芸面でも大いに才能を発揮。寡黙で常に溜息ばかり吐いているが、王昶とはお互いに切っても切れない相棒同士として多くの局面で行動を共にしている。その言動は面倒くさがりにも見えるが、同期の仲間内でも常にどっしりと構えて泰然自若としており、発言の際は誰もが彼女に注目した。なおかなりの暑がりで、夏になるとクーラーをガンガン効かせた(王昶が「寒くて敵わん」と言うレベルの)部屋でだらだら過ごすのが至上の楽しみであるらしい。
その引退時期も王昶とほぼ同時期であり、それまでの間は王昶共々やはり長湖部に対する守りの要であり続けた。
-史実・演義等-
王基 ?~二六一
字は伯與、東莱郡曲城県の人。幼い頃に家族を失い、叔父の王翁に引き取られて育てられていたが、王翁は王基をとても可愛がっており、王基もまた叔父を慕って孝行を賞賛された。
一七歳の時都に官吏として召しだされたが、彼は思うところあって官職を辞し、瑯邪で遊学した。黄初年間(二二〇~二二六)に孝廉として推挙されて郎中に任じられたのだが、青州刺史王凌は特に臨んで彼を別駕とした。後に中央に召し返されて秘書郎の任務に就いたが、王凌は要請して彼を召し返し、ときの司徒であった王朗が召喚しようとしても王凌が拒絶するという有様だった。怒った王朗は公的に文書を出して王凌を非難したが、王凌はそれでも無視を決め込んでいたと言う。当時王凌の名声は青州にとどろいていたが、その裏には王基の補佐があってこそではないかとも言われる。その後、大将軍であった司馬懿が王基を召し寄せ、到着する前に王基は中書侍郎の役につけられた。
明帝曹叡が大規模な宮廷造成を始めると、民の疲弊と魏朝廷への不満が募ることを危惧した王基は、それを諌める上表をしたが受け入れられなかった。また、散騎常侍の王粛(王朗の子。晋の初代皇帝司馬炎の叔父に当たる)が諸経伝の注釈を表し、後漢末の大学者鄭玄の旧説を改変しようとする学説を打ち出したが、王基は鄭玄の説を支持し続けて常にその論に対抗的な立場を示していた。
やがて安平太守となったが、些細なことがあって一度官を辞し、それから少し間をおいて安豊太守となった。任地である廬江郡安豊県は呉との国境に位置していたが、王基の治政は清廉にして厳格、対外防備も万全に整えられていたため、呉の側ではそこへ攻め入ることが出来ずじまいだった。二四〇年代後半頃、呉は大々的に攻め入る姿勢を見せたので、当時揚州刺史であった諸葛誕は王基に相談したが、王基は「今、呉の国内は陸遜らの名臣を失い、政情も不安定なので、結局は大々的な軍事行動に移れないでしょう」と述べたが、結局はその言葉どおりとなった。
間もなく病のため官を辞して都に召喚され、再度河南の尹に任じられることになったのだが、曹爽が処刑されたとばっちりで結局官を辞することとなった。彼が以前、曹爽の属官であったことが原因であったが、直接の関わりはなかったのでその年の内に尚書として官に復帰し、荊州刺史となった。翌二五〇年、征南将軍の王昶、新城太守の州泰と共に三路から呉に攻め入ったが、決定的な戦果をあげることが出来ず帰投することになったが、それでも王基は夷陵近郊にあった呉の食料庫を奪い、呉の将軍を捕らえる功績をあげて関内候の爵位を受けた。
以後も毋丘倹・文欽の乱の鎮圧、諸葛誕謀反の鎮圧にも参加し、それらの功によって鎮南将軍・都督豫州諸軍事に、ついで征東将軍・都督揚州諸軍事に転任し、爵位も安楽郷候から東武候へと格上げされたが、爵位については固辞して功績を部下達に譲った。いずれの鎮圧戦においても、王基は優れた献策をして勝利に多大な貢献をした。二六一年、呉の将軍が偽の投降を申し入れてきた時にも、彼はそれが偽降であると疑い、司馬昭に「今の時期は外部の利益を求めるよりも足元をしっかり固めるべき」と上表し、司馬昭は「おおよそ物事に対処する場合、迎合するものが多く、論理と事実をしっかり把握できるものはほとんどいない。規正し指示をしてくれるのであれば、いつも謹んでその趣旨に従おう」と、その意見に従った。
王基はその年の内に亡くなった。死後、司空の位を追贈され、景候と諡された。
-狐野郎が曰く-
正史における活躍の度合いで言えば、何気に同列伝で同姓の王昶よりもしていたりする。家門としては青州王氏だから全くの別系統になるんだけど、毋丘倹・文欽の乱の時も諸葛誕のときも、常に的確な判断を示して軍を援け、また政治の場においても、司馬師や司馬昭に的確なアドバイスを送って絶大な信頼を寄せられていたとか。といっても権力者に媚び諂うような態度は見せず、あくまで身を質して国家そのものに貢献する立場を貫いていて、王凌が手放そうとしなかった気持ちも解らんでもないのだが…王朗の招聘を突っぱねておきながら司馬懿に逆らわない、というのはアレか、悪いのは王基じゃなくて王凌のほうか。兎に角、人格的にも将帥としての才覚も、かなり優れていたのは間違いあるまい。対孫呉にもこんなに厚い壁が置かれてたんじゃねえ。
さて、王昶と王基に関して学三では何気にいいコンビになってるんだよね。というか正確には王昶の項で触れた某氏の描写によるところも大きいのだけど…飄々としてつかみ所のない王昶と、冷静で寡黙なツッコミ役王基。史実では就寝値も全然違うんだけど、共に王凌と大きく関わっている人物なので、もしかしたら史実でも本当に仲が良かったのかも知れない。任地も近いし、亡くなったのも同じ頃だし。
デザインもほぼ玉絵通りだが、表情とかキャラ付けとか某氏のSSに大いに引っ張られている事は確かである。狐野郎のイメージ的には「けものフレンズ」(たつき版)のキタキツネかフェネックが近いかも知れない。