解説 夏侯惇


-学三設定-

曹操の従姉妹して一番の幼馴染み。そのため彼女は曹操とはいつも行動を共にし、それだけに最も被害甚大な迷惑を被りながら、それでも結局は曹操のフォロー役に徹するという損な役回りを演じる苦労人。
幼い頃、曹操に連れられていった交州地区の密林地帯で野生化した虎に襲われたのが原因で左目を失い、常に眼帯を付けている。そのことも結局は曹操が原因であったのだが、何故か彼女は「自分が弱かったから」と責任を感じてしまい、その時から剣道を始めた。元々才能があったのか、初等部を終わる頃には所属していた徐州校区でも「最強」と呼ばれていた五人の高等部剣士をひとりで撃ち破る豪勇を身につけるまでになった。常に冷静を装ってはいるが、本性はかなりの激情家であり、幼い頃に自分に勉強を教えてくれた近所の老人を馬鹿にする年上のガキ大将をぶちのめして大怪我をさせるという事件を起こしたこともあった。そのため、常に眼帯を身につけていたことからも「片眼の狂犬」と揶揄されたが、後年そのことを論われた彼女はブチ切れて校内の鏡という鏡を叩き割ったこともあった。そのために補導されることとなるも、流石の曹操も彼女を見捨てられず色々手回しをして罪に問われなくしたという。
そんな彼女も高校に入ってからも曹操に引きずられるようにして「蒼天生徒会」に籍を置き、曹操の代理として、留守を指揮する役割を十全に遂行した。常に曹操のそばで呆れた顔で侍し、その曹操には存分に振り回され続けながらも、彼女は彼女で曹操に引きずりまわされることもまんざらではないようで、曹操も最も気心の知れた彼女と行動を共にするのが当たり前のように感じていた。その引退もまた曹操とほぼ同時期で、文字通り「形影を共にした永遠のナンバー2」といえる。
気性の激しい面もあった一方、普段の彼女は温和で人当たりも良く、曹操が彼女を呼ぶ際の「惇姉」という呼び名で周囲からも慕われた。決して戦場での派手な活躍はなく、唯一の戦功と言えるものでも「漢中アスレチックを攻略する際、別働隊と合流する途中で道に迷って敵陣地である陽平チェックポイントの裏口から迷い込んで、そのまま成り行きで陽平チェックポイントを制圧攻略してしまった」ことぐらいだろう。このことは蒼天生徒会において「迷子の惇姉が陽平を落とした」と、長く語り草になった(本人はそれを聞く度に不機嫌になったらしく、これを面と向かっていうのは曹操の他、族妹の夏侯淵や曹仁といった一部に限られたが)。また学内でトラブルが起こると率先して出動し、老朽化して雨漏りが酷いある棟にいた際、先陣切って大荒れの天候の中でずぶ濡れになりながら雨漏りに対処する彼女の姿に、一般生徒達も我先にと彼女の指示に従い作業にあたったという。彼女最大の美点は、蒼天生徒会におけるその人望と言っても過言ではない。
家庭菜園を作る(本人は「ガーデニング」と言い張っている)のが趣味であり非常に強い拘りを持っている。そのため曹操には「部隊の主将よりもそっちのほうが合ってんじゃないのぉ?」とからかわれることも多かったという。


-史実・演義等-

夏侯惇 ?~二二〇
字は元譲、沛国譙県の人。高祖劉邦が挙兵した頃からの臣下であった汝陰侯・夏侯嬰の後裔とされ、曹操の父曹嵩の兄の子に当たるという(曹嵩は元々夏侯氏の出自とされる)。
夏侯惇は十四歳の頃、自分の学問の師を侮辱した男を斬り殺したことがあり、その事件から気性の激しさを知られるようになった。曹操旗挙げの頃から付き従い、曹操は徐州討伐の際に夏侯惇を濮陽に残して後方の守りを任せた。この時呂布の猛攻で囚われの身になったが、部下である韓浩の働きで生き延び、曹操が兗州を再び平定すると呂布攻略に従軍した。
このとき、夏侯惇を語る上で外す事の出来ない事件が起こっている。彼は乱戦の中、流れ矢を左目に受け、それを失ってしまったのだが、夏侯惇は目に突き立った矢を引き抜き、それに己の左目がくっついてきたのを見るや「これぞ父の精、母の血。捨ててなるか!」と大喝し、食べてしまったという。このエピソードは正史でも演義でも展開に差はほぼ無く、後に従兄弟の夏侯淵も彼と同じく将軍であったことから軍中では夏侯惇を特に「盲夏侯」と呼んでいた事を知ってそれを嫌い、鏡を見るたびに憤慨して片っ端から叩き壊してしまったとも伝わっている。
曹操は夏侯惇に対して特別に親しみを持っていたようで、曹操は魏王となってからも彼と同じ車に乗り、寝所も同じくしたという。河北平定の頃には既に独立した政権を任されており、曹操がどれほど夏侯惇を信頼していたかが窺われよう。また演義では勇猛な将軍というイメージがあるし、正史でもその気性の激しさを物語るエピソードがあるものの、戦働きで目立った功績を挙げたかどうかについてはほとんど触れられていない。精々漢中攻略の際、陽平関を襲撃するための奇襲部隊を呼び戻しに行こうとして道に迷い、辿り着いた先がたまたま敵軍陣地だったことからそこを攻め落とし、結果として陽平関陥落に一役買ったということくらいである。激情家の一面もあったが、実際の性格は清潔で慎ましやか、余分の財貨があると常に人々に分け与え、旱魃や蝗の害にあったときは河に堰を作る作業に率先して土のう運びや、将校士卒に稲を植えるよう指導し、民衆に慕われたという。
曹操が亡くなると大将軍となったが、曹操の後を追うかのように間もなく病死した。彼の息子には諸葛亮の北伐開始時、諸葛亮に対して「噛ませ犬」として相対する羽目になった夏侯楙がいる。夏侯楙は正史でも「無能で金集めに一生懸命になっている」と記されてしまっている有様で、諸葛亮が責めてきた際には早々に前線から中央に召し返され、弟たちと仲違いしたのが元で誅殺されかけるも、父である夏侯惇の多大な功績を考慮され不問にされ命を拾ったという。


-狐野郎が曰く-

「蒼天航路」ではある意味もう一人の主人公とも言える惇兄。何故か横山光輝三国志では「かこうじゅん」という読みが振られており、コーエーの「三国志」シリーズ「三国無双」などで「かこうとん」という正しい読みを初めて知った方も居られるのでは無かろうか。とにかく「射貫かれた目玉を引き抜いて食べた」という、正史でも凄まじいエピソードを残している事で、三国志ニュービーでも最初に履修する(?)人物の一人であるといっても良いだろう。演義でもそれほど戦績を上げている人ではないし、その武勇も精々、五関を突破した(恐らくは本気ではないだろう)関羽と互角に打ち合ったことぐらいなものである。将軍として有能だったかといえば、実は演義においてすら決して有能というわけではなく、「蒼天航路」では曹操に「図抜けた武威もなくきらめくような用兵術も持たない」などと言われてしまっているが実際その通りだったのが残念な点であるが、それでも執政官としてはそれなりに有能だったことが正史の記述から読み取れるのではないかと思う。気性の激しい一方で、他人に仁徳を施せるのはもしかしたら劉備よりもずっと夏侯惇のほうが優れていたんじゃないのか?と思えるほどだ。
学三では流石に学内の事故で左目を失ったわけではないが、その事由が更に突飛なモノになっている。演義というか初期三国志シリーズの剛勇ぶりを反映しているようにも思えるプロフィールだったが、なんだか曹操に振り回されてあまりその武勇を生かすチャンスに恵まれていないような…むしろ曹操の側にいることで損ばかりしているようにすら思える。まぁそれでも曹操の側にくっついているんだから、それはそれで彼女当人は幸せなのかも知れない。そんな辺りも「蒼天航路」の惇兄に近いのかも知れない。