解説 朱然
-学三設定-
朱治の二つ下の妹…とはいっても実の妹ではなく、元々は従姉妹の関係にあり、本姓は朱氏ではなく施氏。彼女の妹である施績(朱績)が生まれて間もなく、彼女の両親は交通事故に巻き込まれて非業の死を遂げ、残された姉妹を朱治の両親が引き取って養女にしたので、戸籍上姉妹となった。
そんな生い立ちの暗さも何のその、厳格ながら優しい養父母や、妹が欲しくてしょうがなかった義姉の朱治が実の娘・実の妹としてしっかりと面倒を見てきたお陰か、随分とからっとした明るい娘に育つ。蒼天学園初等部に進学すると、クラスメートであった孫権と意気投合し、わずかな間に「竹馬の友」というべき関係にまでなった。長湖幹部に高身長の者がやたら集まることを度外視しても背丈はかなり低く、実の妹のほうが目線一個でかいくらいであったというが、幼い頃から「立身流」というわりとレアな剣術を習熟しており、一撃必殺の「豪撃」により多くの武勲を上げたバリバリの武闘派である。
孫権が長湖部のユースとなると、彼女もまた朱治との関係もあってユースとして抜擢される。血縁関係というコネだけでユースに抜擢されたようにも見えるが、先述した剣の腕前のみならず確かな実務能力や優れた調整役としての能力で見る間になくてはならぬ運営スタッフとなり、後に関羽とのいざこざで長湖部を去る事になった呂蒙と孫皎が口を揃えて後任に推薦するまでになった。ノーテンキに見えるほど明朗な性格の割に思慮深く、周囲には常に笑顔を振りまくがそれ以外の感情はあまり表には出さず、「行動するたびに手柄を立てる名主将」と評された。陸遜ほどの活躍はないものの、長湖部が「長湖畔校区連合生徒会」として独立を果たすと対蒼天生徒会戦線で一定以上の戦果を叩きだし、引き時を弁えた戦術は多くの者から一目置かれるまでとなった。
「二宮事変」が起こると、彼女は親友である陸遜の受難に際し血の涙を流しながらも、あくまで中立の立場をとって無用の混乱を避けた。学園を去ることとなった陸遜から後事を託された彼女は混乱収拾のために全力を尽くし、当時次期副部長候補であった孫峻や諸葛恪ではなく、陸抗、陸凱、丁奉など独自に「これ」と目した少女達に部の行く末を託して引退した。一方で秘話に類することであるが、親友・陸遜が言われなき讒言にあって粛清に近い形で部を去るに当たり、温厚な彼女もとうとう本気でブチ切れたらしく、長湖部解体寸前までの事態を引き起こしたともいわれ、自己を失いかけていた孫権が正気を取り戻せたのもそんな朱然の行動があったからだとも言われる。
-史実・演義等-
朱然 一八二~二四九
字は義封、丹陽郡故章の人。身長は七尺(当時の単位では現在での161センチ)に満たない小柄な人物であったが、からっとした性格で、生活は身を修めて清潔そのものだったという。終日謹んで職務に励み、有事には冷静に行動したため、行動の度に手柄を立てることが出来たといわれるほどであった。
孫策の挙兵を援けた名将・朱治の姉の子にあたり、元々は施姓であった。朱治が三十九歳の時(一九四年)、まだ子供がなかったことから十三歳の朱然を養子に欲しい旨を孫策に願い出て、認められたことからその養子となった。孫策は鄭重な礼をもって朱然を召し出し、彼が蘇州にやってくると養子縁組の成立を盛大に祝ったという。また、朱然は孫権と共に勉強をしたことがあり、孫権とは深い恩義関係で結ばれていた。
二〇〇年、朱然は余姚県令に任じられたのを皮切りに各地の県令・郡太守を歴任して各所で治績をあげ、山越系反乱民を僅か一月で平定するなどの功績を立てた。関羽が滅ぼされ、間もなく呂蒙が危篤に陥った時、孫権は後任を誰に任せるかを訪ねると、呂蒙は「朱然は決断力と実行力に優れ、この地を任せるに足りるでしょう」と告げた。孫権はその遺志に従い、朱然に仮節を与えて江陵の守りを任せた。夷陵の戦いでは陸遜らとともに防衛戦にあたり、蜀軍撃退に尽力した。二二七年の石陽攻めでは、殿軍の潘璋が苦戦を強いられていることを知って救援に向かい、全軍が安全に撤退したのを見計らってから帰途に着いた。二四二年には呂拠や朱異らを引き連れて襄陽攻略を行っている(芍陂の戦い)が、このときは夜襲で魏軍を打ち破ったものの、結局決定的な戦果をあげることが出来ず引き上げている。
二宮の変によるとばっちりで陸遜までもが世を去ってしまうと、功臣や名将の内で生き残っている者は朱然だけになってしまい、孫権は特に篤い礼をもって彼に接した。その間にも朱然は度々功績を挙げて最終的には右軍師・左大司馬という軍部でもトップの役職に就いており、諸葛瑾の子諸葛融、歩隲の子歩協らはそれぞれに父親の任をついでいるものであったが、孫権は特に朱然に彼らを纏めさせて総指揮を取らせていた。その頃には朱然も病の床につき、孫権は心配のあまり食も進まず、宮廷から使者を送って薬や食べ物を送らせた上でその使者にも厚い礼遇を加え、呉の功臣たちが病床についたときの礼遇という点では、呂蒙と凌統に次ぐほどであった。二四九年、病に勝てず六十九歳で世を去った時、孫権は喪服をつけて哭礼を行ったが、それは心のこもったものであった、と朱然伝に記されている。
演義ではどういうわけか、夷陵の戦いの際に劉備を追撃している最中、劉備の撤退を助けるべく江州から出撃してきた趙雲に呆気なく討ち取られてしまっている。先述したとおり実際はその二十七年後まで生存しているわけだが、何故こんな役回りを与えられてしまったのか謎である。また、1986年に安徽省馬鞍山市で彼の陵墓が発見され、盗掘はされていたものの副葬品が多く埋蔵しており、とりわけ名刺と謁が出土したことで当時の呉国の文化を知る重要な歴史資料となっている。同年に陵墓へ至る街道も整備され、彼にあやかって「朱然路」と呼ばれている。
-狐野郎が曰く-
決して華々しい活躍をしたわけではないが、 呉国でも屈指の名将のひとりといえる。何しろあの呂蒙が自分の後継者として推したほどの人物なわけだから只者であろうハズがなく、なんで演義では夷陵の追撃戦のドサクサに紛れて趙雲に討たれてあっけなく死んでしまっているん?という有様。彼の陵墓が見つかったときも「ああ、なんか趙雲に殺されてるわwwなんでそんな奴の墓なんて残ってんのwwww」みたいな認識しかされてなかったのではないだろうか。「蒼天航路」でもなんか影の薄い役回りだったし。実際あまりにもメディアで取り上げられなさ過ぎて、なんとなくここでもあまり書くことがねえのは悲しい話ではある。狐野郎は比較的SSでは多めに登場させているつもりではあるのだが…。なお、彼の身長は陵墓の遺体というか棺とか身の回りの副葬品からもほぼ記録通りらしいのだが、当時の161センチ前後といえばそこそこ高い部類じゃないのか?という気がする。ちなみに狐野郎もそのぐらいの身長である。これはどうでもいい話か。
学三朱然のデザインだが、当時のキャラスレからは「あずまんが大王」の滝野智(ともちゃん)がモデルであるらしいことが読み取れた…と記憶している。ともちゃんもだけどイメージ的には「日常」の相生祐子(ゆっこ)のイメージもあるんだけど、ゆっこやともちゃんと違って義封さんは決して馬鹿じゃないんだけどなあ。ICPOにもなろうと思えばなれそうだしなあ。あとイメージが引っ張られてるせいかなんか脳内だとCV:本多智恵子がしっくりくる気がする。