解説 趙雲
-学三設定-
後に「帰宅部連合」主将の中でトップクラスの強さを持つと称された五人の猛将「五虎」と呼ばれるうちの一人にして、冀州校区の側にある学園都市最大の神社「常山神社」の一人娘。かといって別に巫女さんやってるわけではないが、特に年末年始などの長期休みには巫女服を着て家業の手伝いをしている(定番の庭掃除以外にもいろいろ)。そのため、学園都市において「巫女さんといえば趙雲」という絶対のミームがあったとかなんとか。ちなみに(本人はあまり信じていないが)ご先祖様にはガチの神様(しかも軍神とか祟神とか言われるタイプの)がいるとか。
実家である常山神社の宮司一族には古くから「常山流薙刀術」という武術が伝承されており、趙雲もこの武術の使い手であった…というよりも「数百年に一度レベル」と言われるほどの天才児であった。その才能と技量を活かし、中等部時代は薙刀部のエースとして勇名を轟かせたという。
キリリとした美少女で、関羽とはやや違う意味で生真面目。関羽ほどボリュームはないが、やはり長く艶やかな髪をもつ。またその胆力は相当なもので、何時いかなる時でも常に冷静沈着。ど根性の権化ともいえる劉備をして「子龍は肝っ玉の権化やで」と言わしめるほどだった。その劉備たちより学年は一つ下で、元々劉備の姉貴分である公孫瓉の軍団にいたのだが、同じ軍団に合流してきた劉備に一目惚れに近い形で惹かれ、その後を追い慕うようになる。それでも義理堅い少女であり、公孫瓉勢力が滅亡する直前まで従っていたようだが、袁紹が公孫瓉を攻め滅ぼすと、袁紹の元に身を寄せていた劉備の所に転がり込み、劉備新聞部の構成員となって以後苦楽をともにした。
趙雲は一人っ子であったため、自分によく懐く劉備の妹・劉禅を自分の妹の如く溺愛しており、劉備が曹操の南征に追われ逃亡する際には、逃げ遅れた劉禅を背中に括り付けつつMTBを駆って単身で曹操の包囲網を突破。曹操の「絶対アイツを無傷で捕獲しろ!あたしの側近にしてやるんだから!」という無茶振りがあったとは言え、曹仁を筆頭とした猛将達が趙雲を止められないどころか主将クラスが飛ばされるというとんでもない事態になって、このことで趙雲は武勇を学園全域に鳴り響かせることとなる。諸葛亮とも相性は悪くなく、趙雲も諸葛亮の萌え談義に理解を示しそのリクエストによく応え、勿論課外活動の作戦行動にも忠実に従って、派手さはなくとも期待以上の功績をたたき出す事は日常茶飯事であった。当然劉禅を愛する彼女は劉禅に対して絶対の忠誠を誓っていたが、家業を引き継ぐ関係で高校三年冬に卒業を待たずして引退した。
武一辺倒に見えるが意外に博学で、特に学園都市の民間伝承に詳しい。益州校区には彼女がその改修に関ったためにその字を頂いた「子龍神社」という小さな神社があることでも知られる。
-史実・演義等-
趙雲 ?~二二九
字は子龍、常山郡真定県の人。身長八尺、姿や顔立ちは際立って立派であったことが「趙雲別伝」に記されている。
元々は北平太守公孫瓉の配下であったが、そのとき劉備と軍を共にしたことが縁で、後に劉備が袁紹の元に身を寄せていたとき、趙雲は劉備の元に出向いてその配下となった。趙雲が公孫瓉の元を去るきっかけは、趙雲の兄の服喪のためであったが、劉備はその別れを惜しんでその手を握ると、趙雲は「絶対に御徳を裏切りません」と別れの辞を述べた。そのときには既に、趙雲も劉備の人柄に惚れ込んでいたのであろう。
趙雲最大の見せ場といえば、やはり当陽での一騎駆けにつきよう。これは趙雲伝にも記載されたれっきとした史実であるが、一説にはこのとき、趙雲は百騎程度の兵を率いていたという。とはいえ、追撃してくる曹操軍は数万とも数十万ともいえる大軍であり、その中をわずか百騎で、しかも幼い劉禅と甘夫人を守護しながらの撤退戦をやってのけた趙雲の武勇は尋常なものではないといえよう。また漢中攻略の際、曹操軍の兵糧集積場を叩くために出撃したものの、苦戦を強いられ撤退できずにいた黄忠の軍を救い出し、さらに撤退してきたあと、追撃してきた曹操軍に対して、陣門を開け放って兵士たちに物音ひとつ立てさせない「静寂の陣」によって計略を疑わせ、撤退し始めるを見るや否や、趙雲は猛烈な追激戦を開始して曹操軍を散々な目にあわせた(演義では、それを侮って王平が諌止するのを聞かず強行に攻めてきた徐晃の軍を撃破している展開になっている)。その翌日、戦場の慰撫に訪れた劉備がその話を聞きつけると「子龍は全身これ肝だ」と感嘆したという。このことにより、趙雲は軍中において「虎威将軍」のあだ名で呼ばれるようになった。
劉備が呉への遠征を行おうとした際、趙雲は思いとどまるよう進言したが、劉備は聞き入れず、趙雲を江州に配して留守を任せた。劉備が背走してくるとそれを援ける為に永安まで兵を動かし、それを護った。
諸葛亮の北伐にも参加し、街亭の敗北で引き上げる際にも敗残兵をよくまとめ、その被害の軽減に努めたことを諸葛亮に賞賛された。諸葛亮はこのとき趙雲の軍兵に、戦地から持ち帰ってきた絹を与えようとしたが、趙雲は「敗戦に下賜があるのはおかしなことです。むしろこれは冬まで倉に収め、冬の支度品として下賜されるべきです」と進言した。諸葛亮はそれを嘉し、その言葉に従ったという。
二二九年に死去したが、その年齢は明らかではなく、一説には劉備よりもずっと年上だったと言われている。諡して順平候というが、この号は姜維の言上を受けて決められたものである。
-狐野郎が曰く-
どういうわけか超絶美形&永遠の若大将というイメージがあるらしい趙子龍、正史にその人物の容姿について触れられている人物はかなり少ないのは御存知の方も居られよう。もっとも趙雲については正史ではなく、裴松之が引いた別伝の記述である。年齢の件についても、演義では北伐が始まった時、趙雲は既に七十歳を超えた、という記述もあることから、もしかしたら劉備よりも年上だったんじゃないか?というのが定説になりつつある。ただし「五虎将軍」というのは他の四人と同じ巻に伝が編まれたことからの創作であり、しかも趙雲だけは他の四人に比べれば最終的な位階が低く(征西将軍なので馬超や黄忠よりも下)、しかも実は演義で趙雲が斬った武将というのはほとんどが架空の人物であるらしい。とはいえ単騎駆けや静寂の陣は創作ではなく正史に記述があるガチの史実だから、やはりこの男なにかが違う。ちなみに趙雲が趙範の兄嫁を勧められて逆ギレしたという話も趙雲伝の注にある。意外と「いかにも作り話っぽい」史実がかなり多いのも趙雲の魅力であると言えよう。
学園三国志の世界での虎将趙雲は、田豫、陳到とトリオで巫女さんです。まぁ田豫とは袂を分かつことになるのだが、趙雲は愛する「阿斗ちゃん」にべったりで幸せそうではある。うん。あと神社という舞台が使いやすいのか、狐野郎も時々SSの日常話などで存在を匂わせたり、直接登場させたりしている。(狐野郎SSで)蜀将ではわりと出番は多い方だろう。
で、ここからが本題であるが、この趙雲も実は本家オフィシャルものとかなり異なる。細部が違うとかそんなレベルではなくほぼ別物に近い。元が特徴らしいのが巫女衣装くらいしかないので、ここでは狐野郎がこの十余年で汚染されてきた構築してきたミームに倣って基本のデザインに「東方茨歌仙」ベースの東風谷早苗(要するに葉っぱ苗)を持ってきている。流石に黒髪まで変えたらもう完全にオリキャラになってしまうのでそこだけは残したのだが…悪あがきも良いところですなこれ。