解説 陳泰


-学三設定-

蒼天生徒会において「最強の風紀委員長」と恐れられた陳羣の妹。姉とは正反対に体を動かすことが大好きなスポーツ少女であるが、学業成績もずば抜けて優秀で、文字通り文武両道をよく修めた。
生徒会の重鎮として辣腕を振るい、学園都市辺境、特に郭淮と組んで対帰宅部連合作戦の中核をなして活躍。彼女は郭淮のように「四天王」などというようなカテゴリーに括られる事はなかったが、彼女が蒼天ソフトボール部でキャッチャーという目立ちにくいポジションであったから、というよりも、実際は「四天王」を統率する実力者、という意味であえてそのカテゴリーから外されている、という者もいる。故に彼女を「蒼天の黄龍」(黄龍は四方を司る四神を統べる存在で、中央を司る)と呼ぶ者もいる。因みに郭淮とは「蒼天ソフト部の黄金バッテリー」と呼ばれる関係にもある。中国拳法(形意拳)の道場にも通っており、陳羣とは違って荒事もこなす…というよりも五覇や司馬懿が去った後の蒼天会において、部の面においても知の面においてもトップクラスの存在であった。
基本的に司馬シンパであったが、その司馬氏が蒼天会の乗っ取りを企むと毅然としてそれに反発し、司馬昭を辟易させた。さばさばした性格ではあったが根っこのところは姉同様、筋を通さないことを憎悪し、それが例え敬愛する人間相手であろうが道理に合わないことに対しては堂々と糾弾するため、結局それを切欠に彼女は階級章をつき返す形で引退してしまう。また一時期趙儼の元で鄧艾と行動を共にしており、後輩としてことのほか可愛がっていたというが、彼女は引退後に鄧艾の受難を知り、罪人として連行される鄧艾を救うべく護送を妨害してその身を強奪、挙句に雲隠れするという暴挙に出たなどという話もある。こうした彼女の行動から、晋生徒会において名門・陳一族の立場はそれほど芳しいものではなくなってしまったとも言われる。


-史実・演義等-

陳泰 ?~二六〇
字は玄伯。演義においてはその出自は明らかではないが、正史によれば魏の名臣陳羣の子。
初め散騎侍郎の官にあり、正始年間(二四〇~二四九)に并州刺史として統治に赴任し、匈奴をはじめとした周辺異民族の宣撫に当たった。当時、都の貴族たちは陳泰に仲介してもらって奴隷の購入を行おうとした者が多数いたが、陳泰は預かった財貨をすべて壁にかけたままにし、封も開けなかった。そして中央に召し返された際、陳泰は預かった財貨をすべて持ち主に返してしまったという。
嘉平の初年(二四九頃?)に郭淮と交代で雍州刺史となり、郭淮、鄧艾とともに姜維の北伐を防いだ。姜維が麹山に侵攻した際、陳泰は麹城の蜀軍前線基地と蜀軍本隊とが離れた位置にあったことから、麹城包囲を郭淮に進言し、郭淮もそれに従った。かくして姜維が麹城の援軍に駆けつけると、陳泰は郭淮の軍と共に蜀軍の退路を断ち、蜀軍は撤退せざるを得ない状態になってしまった。この戦いはほとんど陳泰の策によって勝利を得たものであり、その戦上手振りが窺える。郭淮が二五五年に亡くなると、陳泰はその仕事を引き継ぐ形で征西大将軍・仮節都督雍州諸軍事(要するに、雍州地区の軍事総司令官)となり、以後も度々行われた姜維の北伐をよく防いだ。演義においては度々姜維と一騎打ちをし、しかも互角の戦いを演じたと言うので、単純に考えればその武勇は趙雲にも匹敵するレベルであったといえる。
陳泰は司馬一族と親交が深く、司馬師は「沈着にして勇武に優れ、決断力もある。地方官吏としても優秀で、落城寸前の城を救いながら、援軍に頼らず、また報告も簡便な方法を取れるのは、必ず賊を処理できるからである。大将たるものはこうあるべきだ」と絶賛した。司馬昭もまた、陳泰と親交があったのだが、皇帝・曹髦が司馬一族の専横に反抗してクーデターを起こして賈充の軍に殺されると、陳泰はそのことを良しとせず、その直後に行われた朝議に出席しなかった。司馬昭は陳泰を召し出したが、陳泰はただ涙を流して沈黙を守り、困り果てた司馬昭が「玄伯、御身はわしに如何にせよというのだ」と問うと「賈充を処刑して天下に詫びてください」と答えた。司馬昭が「別の手段を考えてくれ」と重ねて問うと、「私の口はただこのことを進言するためにあります。別の手段などありません」と答え、司馬昭もそれ以上何もいえなかったという。それから間もなく、陳泰は世を去った。一説には、その司馬昭のやり取りのなかで悲憤のあまり吐血して、そのまま死んでしまったともいう。
彼の子弟たちも晋代で高官に上ったというが、その権勢は次第に衰えていったといわれる。


-狐野郎が曰く-

魏国がずっと名将を輩出し続けていたのは演義も正史も同じなのだが、諸葛亮没後の演義でまさしく姜維のライバルとして立ちはだかるのが陳泰である。というか、演義で姜維が趙雲と互角の一騎打ちをしたときには姜維は若干二十代の若者で、対する趙雲は年齢的にもう余裕でじいさんだったはずで、陳泰と姜維もそんなには…と言いたいところだけど、仮に陳羣が亡くなったときが七十代(まあ徐州時代の劉備に仕えているし、若くてもそのぐらいにはなるよな)としたら、当時の姜維が大凡四十代から五十代で陳泰も大体同じぐらいの年齢になるワケで。まあ羅貫中がそこまで考えてたかどうか解らんけど。とにかくその陳羣とも活躍の場が異なるんだけど、それでも当時演義でも正史でも姜維を向こうに回して盤石の戦いぶり(もっとも当時鄧艾も居たしね)は第一級の名将として恥じない活躍は十分していたことは窺える。そんな彼も結局は、自分をよく認めてくれたとは言え、司馬昭の行動に大いに異を唱えて気骨のあるところを見せたことで退場を余儀なくされるのだが、そんなところは清廉潔白で知られた親父譲りのものがあったと思う。その後司馬昭が「なんとか考え直して」って説得しようとしているあたり、司馬昭もその能力と人格を高く買っていたのは間違いないことだろう。
学三環境でも陳羣は文系、陳泰はどちらかといえば体育会系とカラーの違う姉妹で、同じくソフトボール部所属の郭淮や田豫、満寵なんかとは異なりキャッチフレーズ的なモノは持ってないようだったんで、演義での活躍ぶりを鑑みて「実は居キャプテン的な立場だったのかも知れないなあ」と勝手に思ってそんな設定を付け加えている。キャッチャーで時期的には郭淮とバッテリーを組んでたという風に考えても面白いかな、というわけでここでの方向性が決まったようなところもあるか。あと復帰戦というわけでもないが先年学三SSを一本新しく書いた際、鄧艾をメインにしたかったのでじゃあ先輩役か友達役かどっちかいるかな、と考えた末にまずその第一歩を踏み出す話にするならじゃあ先輩だ、となって同時期に同じ地域にいた陳泰(と郭淮)に白羽の矢が立ったのも自然な流れだったろう。