解説 郭淮


-学三設定-

曹氏蒼天会において、五覇(張遼、楽進、徐晃、張コウ、于禁)が去った後に「四天王」と呼ばれた少女の一人。「西の郭伯済」とも、「蒼天の白虎」(白虎は西方を護る瑞獣)とも称される。
「蒼天通信」に参画した頃はそれほど目立ったところはなかったが、並外れた計算能力を曹操に見出され、漢中アスレチック決戦の際に夏侯淵の軍師として漢中入りした。しかし夏侯淵が敗れ後送されたときは独断で張コウを主将にすげ替えて危機を乗り切るなど、実際はほぼ「裏の総督」というべき立場にあったようである。また知略だけではなく、「戦闘術としての」太極拳の使い手であり、幾度かあった姜維との学園無双においては、奥義「雷声」を駆使し、帰宅部側の主将を幾人も葬っているほどの使い手である。
後に西の雍州棟に入り、陳泰と組んで西方面の総てを総監した。魏延や諸葛亮には苦戦を強いられたものの、後任の姜維たちには全く隙を見せず、西の重鎮としての評価を磐石のものとした。王凌のクーデターの際、親戚の少女が王凌と近しい関係であったことから処罰対象となったが、彼女は規則を護るために最初はそれに従い、部下や妹たち、果てはパートナーの陳泰までもが嘆願したためにその少女を奪還、改めて司馬懿に弁明状を送って少女の無罪を認められている。
やがて鉄籠山の敷地を巡る攻防で、窮地に陥った司馬師を救うため益州校区相手にソフト大会を開催。序盤は優位に試合を進めるものの、8回に姜維のピッチャー返しを受けて昏倒。そのまま勝負に敗れたため、条件を呑んで校区総代を辞任するハメになった。


-史実・演義等-

郭淮 ?~二五五
字は伯済、太原郡陽曲県の人。その祖父は漢の大司農、父は雁門太守を務めていたと、伝にある。
建安年間(一九六~二二〇)に孝廉で推挙され、平原の丞となった。曹丕は五官将となると郭淮を召し出して配下に加えたが、間もなく曹操について漢中征伐に随行した。漢中制圧後は夏候淵の司馬としてその地に残ったが、劉備軍の侵攻の際は病気で参戦していなかった。夏候淵が討たれると、郭淮は混乱する兵士を取りまとめ、張コウに司令官を代行してもらうことで当地を守った。曹操が漢中に到着すると、曹操は大いに感心し、張コウを漢中駐留軍の司令官に、郭淮をその司馬に任じた。
曹丕が帝位についたとき、郭淮は関内候の爵位を与えられた。このとき、都へ向かう途上で病気にかかり、彼は都までの道のりと日数を計算した上で療養に努めた。ところが、彼が参内した頃には既に祝宴が行われていたことで、曹丕は彼を咎めた。郭淮は古の例を取って非難する曹丕に対し、それを逆手にとって弁明したことで曹丕に気に入られ、仮の雍州刺史とした。その五年後、郭淮は正式な雍州刺史となったが、その頃には諸葛亮の北伐に対抗することとなった。
諸葛亮死後、今度は姜維の北伐が始まると、それを防いだ。二四四年には夏候玄の蜀攻めに先鋒として従軍したが、形勢不利を覚った彼はいち早く味方の軍を脱出させ、大敗させずに済んだ。二四九年には征西将軍・都督雍涼諸軍事となり、対蜀軍戦線の総司令官にまで登りつめた。さらに翌年には、これまで諸葛亮や姜維の北伐をよく防いだ功績を賞され、軍部の最高位に当たる車騎将軍に昇進し、続けて都督として雍州・涼州の軍事総司令官の任を兼務した。
二五一年、王凌が政権奪取を目論んでいたかどで、司馬懿がそれを討伐して王凌を処刑したのだが、郭淮の妻は王凌の妹であったため、妻は罪人として中央に召し出されてしまった。郭淮の配下や周辺の部族の長はこぞって郭淮の元へ押しかけ助命を嘆願したが、彼は聞き入れなかった。妻が雍州を離れる際になり、郭淮の子供たちが額から血を流すほどに叩頭して請願したため、郭淮はそれを見過ごすに忍びず、妻を取り返して、この件を司馬懿に言上し「子供らが母親を哀れみ、もし母親を失えば彼らもなくなるでしょう。そして子供らがなくなれば、また私もないことでもあります。故に妻を取りかえしてしまいました。これが法律上成立しないのであれば、私も然るべき罪に服す所存です」と述べた。司馬懿はその言を受け、彼らの罪を不問とした。
二五五年逝去。演義では姜維を射殺そうとしたが、逆にその矢を射返され、額を射抜かれて死んだとあるが、正史にはそれを裏付ける記述はない。郭淮の子孫も、晋代にはそれぞれ高官に上ったという。


-狐野郎が曰く-

狐野郎にとって実は色々思い入れ深い人物の一人で、それについて語るには中学時代まで遡ることになる。よくあるごっこ遊びの延長線上めいたもので、なんか狐野郎が割り当てられたのが他でもない郭伯済だった。当時三国志といえば横光三国志か吉川英治三国志で、コーエーの三国志シリーズでもそれに引き摺られてる程度には能力値も低い、まあよくある演義のやられ役みたいなポジションというイメージしかなかったんで、正直あまり良い気分ではなかったがそれでも何気に北伐とかでも出番は何気に多かったし、そのうちなんとなく愛着は湧いていたようなきはしていた。とはいえ、演義では諸葛亮にこそ手も足も出なかったが、その退場後は姜維を向こうに回して八面六臂の大立回りを演じていたはずなんだけどもな。ところが昨今では正史の記述もよく知られるようになり、昨今の三国志シリーズでも一流の名将と呼ばれるに相応しい能力をひっさげ、そして「蒼天航路」でもわりと個性的な役回りでデビューを果たしたりと株が上がっているのは個人的に嬉しい限りである。実際夏侯淵が退場したあと、彼がいなかったら魏の軍勢も総崩れ待ったなしみたいな感じだったみたいだしね。
学園三国志版郭淮はソフトボール部のリリーフエースとして登場、これが漢中戦の頃、走り屋夏候淵とどういうやり取りをしていたのかも気になるところなのだが、なんでか演義での最期が早いうちからクローズアップされていたことに微妙な感じになったのだけは良く記憶している。彼女と陳泰のコンビ、そして鄧艾は個人的にお気に入りなので、彼女達の交流や姜維との戦いはもっとSSとして書ければいいなあとは思う。