解説 陳矯


-学三設定-

豫州校区の名門一族である陳氏一門のうち、広陵陳氏の末葉に当たる少女。広陵陳氏宗家の陳登とは幼馴染で、陳登のほうが年上だったが、陳登は常に彼女を同等の友人として扱っていた。
彼女が課外活動に参加した頃、広陵周辺もかなりの混乱に見舞われていたため、湖南の学区に難を逃れていた。そこで彼女のウワサの聞きつけた袁術や、半ば袁術に対する嫌がらせ目的での孫策双方のスカウトを蹴って、当時徐州校区総代であった劉備率いる帰宅部連合の一員となっていた陳登の元に赴いてその専属マネージャーとなった。やがて紆余曲折あって陳登が曹操へ帰順すると、同じ豫州系陳氏として面識のあった陳羣の推薦で陳矯は曹操と面会し、一目で気に入られたらしい陳矯は翌日から猛烈なアプローチを仕掛けられ、最初は恐縮のあまり辞退するも結局根負けするような形でその抜擢を受け、各地の棟長をたらい回しにされることになる。
降って湧いたあまりの重責に不安がっていた陳矯だったが、赴任地の何処も彼処も放り出しっぱなしの案件が山積している有様なものの、陳登がやってくるほど程の無茶振りではないと感じたのか行く先々で瞬く間に案件を片付けて回ってしまった。期待した以上の陳矯の働きに喜んだ曹操は、デキる裏方を要求して煩い曹仁に陳矯を専属マネージャーとして押しつけた。生来引っ込み思案で気の弱い彼女にとって、曹仁とそれが率いる「薔苦烈痛団」メンバーとの毎日は気が気でないシロモノだったが、周瑜の侵攻の際に見せた曹仁の活躍ぶりに、彼女はすっかりその虜となった。また曹仁を筆頭とする「薔苦烈痛団」メンバーからも、細々しく働く彼女の姿はかなり好意的に受け止められており、彼女が曹仁軍団の調整役の任を解かれて生徒会運営に関ることになった際は、「薔苦烈痛団」総出の歓送会が行われたほどであった。
やがて曹操が引退を表明した際、生徒会執行部内でもかなりの大混乱がおきたが、陳嬌は曹仁達と過ごした時に培った果断さをもって、蒼天生徒会の認可を待たずに曹丕の「魏の君」襲名式典を瞬く間に、かつ強制的に推し進めて混乱の収束を図った。事態は彼女の思惑通りに進み、曹丕は「彼女のような人をまさに救世の英雄っつーんだよねー♪」と称揚した。
彼女はその後も曹氏蒼天会の発展に尽力し、その成立の年度に卒業生として引退。また彼女の、歳の離れた妹である陳騫は曹氏蒼天会に続く東晋生徒会の重鎮として活躍し、広陵陳氏の名声を高めた。


-史実・演義等-

陳矯 ?~二三七
字は季弼、広陵郡東陽県の人。
動乱を避けて江東や東城などの地を旅して廻り、その先々で孫策や袁術の招きを受けたが、それらの招聘を拒んで結局は広陵に戻った。その後、広陵太守陳登の任用を受けて郡の功曹となり、あるとき郡が孫権に攻められ危機に陥った時、彼は命ぜられて曹操に救援を求める使者となった。曹操はこのときの陳矯の受け答えを気に入って側に留め置こうとしたが、この時は辞退したが、曹操が広陵へ救援を送ってその危機を救った後、改めて陳矯を召し寄せた。曹操に仕えるようになった陳矯は彭城太守、楽陵太守を経て魏郡太守となった。彼が魏郡太守となった頃、判決のないままに何年も獄につながれているままの罪人が四桁の数になっていたが、陳矯は古の例からそのことが誤りであると考え、自分で罪人たちの罪状を調べ上げ、一時に判決を下した。
曹操の南征が始まると中央に戻り、長吏として南郡を任された曹仁の補佐についた。曹仁が敗れるとそれに従って再び中央に戻り、元の魏郡太守の職に戻ったが、以後は曹操について漢中攻略などに従軍し、漢中攻略から戻ると尚書へ昇進した。
曹操が亡くなり、太子であった曹丕が王位を継ぐにあたり、群臣の多くが「勅命が下ってから王に即位するべき」と主張したが、陳矯は「王が外地にて逝去され、天下は混乱している。その上寵愛を受けている御子(曹彰を指す)が側に居り、時間をおけば継嗣を巡って騒乱も起こる懸念がある。太子には喪を断ち、早急に王位を継承するべきである」と主張し、即座に即位式に必要な官をそろえて準備し、翌日には式典を行わせてしまった。曹丕はその行動を嘉し「まさに一大の俊傑である」と褒め称えた。曹丕が帝位に就くと高陵亭候に封ぜられ、尚書令に昇進した。後には司徒の位にまで昇り、明帝曹叡の代まで仕え、景初元(二三七)年に亡くなった。
このような話がある。陳矯が陳登に使えていた時のこと、陳登は陳矯に命じて許都の様子を探らせようとしたが、その際、都で自分の評判がまだ不十分だという理由を調べてくるように申し付けた。陳矯は世間では陳登が傲慢な性格であることを非難しているということを告げたが、陳登は劉備など自分の尊敬する人物とその理由を語り、「これだけ尊敬する者がいて、傲慢になるわけがない。世間の人間は小物だらけで歯牙にかけるほどのことはない」と言い返した。陳登の平静の気持ちはこのようなところであったが、陳登は常に陳矯を敬愛し、対等の友人として接したという。


-狐野郎が曰く-

本家には主役になったSSがあったにもかかわらず、意外なことに玉絵が存在しないことを知ったのは、狐野郎が居座ってかなり経ってのことだった。イメージ的には甘寧に対する丁奉とは違い、「気弱な優等生とヤンキーのお姉さん達」というある意味では対照的な組み合わせで、それでいてあくまで自分のカラーというか立ち位置を見失っていない点では共通しているという。実は何気に正史でも、敵陣に取り残された牛金を救出しようと当たり前のように再出撃して敵兵をばったばったと薙ぎ払う曹仁の上等ぶりに感動する陳矯の姿が語られている。
演義では南郡攻略戦の時に「曹操軍の割符を持っている」人物として名前だけがまず登場しており、そして曹丕が即位する際に己の着物の袖を切裂き、居並ぶ群臣を半ば脅迫するようにして禅譲を認めさせるという役割で登場しているが、前者では割符を持っていた陳矯がこの時どうなっていたのかはまるで触れられてないんだよね。それが諸葛亮情報なのでマジであの孔明何したんだろう。後者にしても実際は禅譲の少し前、魏王継承の手続きをさっさと進めさせたことが元ネタなんだろうか。といっても曹丕の禅譲は演義だと特に茶番くさい展開なので、華歆や王朗なんかと一緒に悪の軍団の小物みたいな扱いにされている気がしなくもない。正史では何気に(能力も名声もあるけど)自信過剰なクセモノ陳登に対等の友人として優遇されてたお人なのでかなりの大人物なのだが。
デザインはその本家SSからの想像をベースにして、またキャラスレに項目があった晋の陳騫(陳矯の次男)のデザインを加味して作り上げたものである。陳騫については狐野郎が晋書の人物に触れる機会がほぼ無かったので当然ながらよく知らぬ。一応モチーフらしいモチーフはないが、頭にでかいリボンを配するデザインって結構好きなのでそれを前面に持ち出した感じである。