解説 徐晃
-学三設定-
最後の劉氏蒼天生徒会長「献サマ」こと劉協の書記を務めていた楊奉の元部下。楊奉が曹操に反発して生徒会を出ていってしまったので曹操に帰順し、武の面で大いにその才覚を発揮した。その功績の大きさ、そして武勇から、やがて張遼らと「五覇」として並び称されるまでになった。
元々から剣術(流派は直新陰流)の心得があったが、高等部に入ってからは何故か野球部に所属。まとめ役である楊奉がいなくなってからも、部員一名となってしまった野球部で選手兼監督兼マネージャーとして部を守り続けていたが、田豫や満寵らがそれを引き継いでくれたことで、やがて蒼天野球部(後に蒼天ソフト部)不動の4番バッターとして選手に専念できるようになり、彼女は体力作り目的の剣術にも打ち込めるようになった。だがその真実には、彼女と劉協の間にある不思議な関係も、原因として一枚かんでいるとかいないとか。その真相を知るのは当人と劉協、そして曹操だけであろう。
その武勇とスポーツマンシップは華北四校区の平定や、その後の南征、関中陸上部連合との戦いでも遺憾なく発揮され、曹操麾下の猛将の代表格とされる一方で、失敗した時を想定してあらかじめ事後処理マニュアルを作っておく程の慎重派。スイーツには目のない超甘党で普段はおっとりしたマイペースな性格、曹操よりも舌っ足らずな口調で、語尾は「~だお」みたいに妙なドモり方をするためアホの子扱いされることも多いが、そもそも部員が集まりだした野球部でもマネージャーを兼務することが出来るほど裏方業務も出来る程度の実務能力を持っていた。この第一印象に騙されがちだが、その自然体のままとんでもない暴威を戦場で発揮するため、張遼とは別の意味で敵軍から恐れられた。
帰宅部「五虎」の筆頭である関羽とは幼なじみであり、関羽からは「姉御」と呼ばれ一目置かれている関係。関羽が一時期曹操の配下だったときは、寮の同じ部屋で寝泊まりして語り明かした(関羽は劉備の部屋に戻れなかったから、最初は野宿するつもりだったらしいのを徐晃が強引に引きずり込んだらしい)。後に関羽と対決することになった際、彼女は一切の私情を挟むことなく、同じく全力を持って雌雄を決しようという関羽の意気に応えて見せた。その凄まじい一騎討ちが学園における徐晃最後の戦いであり、関羽が学園を去って間もなく彼女もその後を追うかのように階級章を返上、卒業すると同時に失踪した関羽の行方を捜すべく学園を去った。
なお、秘話に類することであるが、官渡決戦の前哨戦で見た袁紹軍のあまりに馬鹿げた大軍っぷりに驚いて、部下まで巻き込んで素っ裸になって戦略的撤退を断行したという逸話もあるらしい。
-史実・演義等-
徐晃 一六九~二二七
字は公明、河東郡楊県の人。
元々は車騎将軍楊奉の配下で、その元で賊討伐など戦功を立て、騎都尉となった。李傕と郭汜が長安を混乱に陥れると、徐晃は楊奉に従い献帝を守護して洛陽に戻った。洛陽帰還後、朝廷は曹操の保護を受けることになり、徐晃は楊奉にも曹操へ帰順するように勧めたが、初めそのつもりだった楊奉は何故か心変わりし、曹操に反抗して打ち破られた。楊奉は袁術を頼って落ち延びたが、徐晃はそのまま曹操のもとに残り帰順した。
曹操配下となった徐晃は賊討伐で戦功を挙げ、徐々に頭角を現し始めた。呂布征討、官渡の戦いにも従軍し、白馬では袁紹軍でも武勇随一の猛将文醜の軍を撃破し、偏将軍に昇進した。さらには袁紹軍の食糧補給隊を故市で撃破するという大戦果をあげたことで都亭候に封じられた。曹操はその後、袁紹勢力の掃討のため北伐遠征を行ったが、これは徐晃の進言を受けたものであるという。その後も曹操の南征にも従軍し、二一〇年の関中軍閥との戦いでは、関中諸豪族の連合軍の背後を脅かす戦略を曹操に進言して認められ、勝利に貢献した。猛将のイメージがある徐晃だが、このように優れた戦略を進言して勝利に貢献している。慎重な性格で、軍を率いている時は常に遠くまで物見を放ち、予め負け戦の配慮をした上で戦ったという。
関羽の襄陽攻撃に対する防衛戦において、徐晃も樊城に立てこもる曹仁、満寵の援軍として当地に赴いた。演義では関羽と親交がある事が語られ、徐晃も関羽と相対した際に昔語りに花を咲かせていたが、突如自軍の兵士に関羽を討ち取るよう命を下した。動揺する関羽に対して、徐晃は「個人的な友誼のために国家の銘をおろそかにするわけにいかない」と言い放った。徐晃の人物像を際立たせるシーンだが、正史では徐晃伝ではなく蜀書の関羽伝に記述がある(つまり史実である)。それによれば、同じ河東の出身である徐晃と関羽は元々友誼を結んでいたとある。曹操死後に右将軍となり、そのあとも攻め入ってきた蜀・呉の軍を打ち破る活躍を見せた。
最後まで名声を頼みにしたり政治的な後ろ盾を作ろうとしなかった徐晃は、二二七年に病死した。一説にはこのとき五十九歳だったともいわれる(それを裏付ける確かな資料はないが)。正史でも関羽をさんざんに破ったためか、演義では二二八年、反乱を起こした孟達を討伐した際、孟達の放った矢で額を射抜かれて戦死するという悲惨な最期を遂げることになってしまっている。
-狐野郎が曰く-
「蒼天航路」の「裸の大将」。初登場がそれなんだから他にいうべき言葉もないくらい凄まじいインパクトである。その後も素っ裸のまま夏侯惇と曹仁を袁紹の本隊が見えるところまで案内したり、そのまま素っ裸で曹操に「理解しきらんもんは語れませんわ!」と言い放つ。というかいい加減何か着ろという読者のツッコミが聞こえてきそうな徐晃だが、おかげで本人が主張する「不敗神話」も後々陳式や趙儼、挙句に関羽にまで煽り言葉として使われる始末。実際確かに敗北は一切してないんだけども、どうしても裸の大将のインパクトが強すぎる。あとなんか猫のヒゲみたいな妙な癖毛とか。これを見てしまうとあとで「三国無双」をやるとなんというかギャップが酷すぎて誰これみたいな。実際三国無双の徐晃って突出したものがなくて良くも悪しくも使っててつまらないというか…武器のわりに攻撃力があまり高くないとか、そのせいでムダに足が遅かったりでぱっとしないんだよねえ。
実は学三徐晃も本来は「蒼天航路」みたいなヒゲ(みたいな髪)があるんだけど、ここでは似た感じで前髪を跳ねさせてる形に留めており本家絵とはかなり異なるデザインであることをご留意いただきたい。性格に関しても初期ではほとんど特殊なものがなかったらしいのだが、SSシリーズ「倚天の剣」では独特に間延びした語尾でスイーツアホ()という新たな概念が導入されてそれが学三徐晃像のテンプレになった(あくまで狐野郎の中でである)。指摘されていた人も居られたが人物像に関しては「Kanon」の水瀬名雪、しかも口調は寝ぼけているときの名雪のものがベースになっているようである。ちなみにだが狐野郎がここでデザインを構って地底の馬鹿鴉を混入したため、もし今後SSでも書いて登場させたら茹で卵をほおばって「うにゅ?」とか言い出すかも知れない。備えよう(