解説 張温
-学三設定-
蘇州地区において陸家、朱家、顧家と並ぶ名門一家「呉郡四姓」のひとつに挙げられる蘇州張氏出身。
従姉の張允が孫権の相談役を務めていた関係で長湖部入りし、張允引退と入れ違いに幹部候補生を経て長湖部幹部となった。彼女が孫権に始めて引見されるに際し、孫権が張温の能力が誰と同程度なのか質問したところ、幼馴染でもある顧雍は「張温に匹敵する者などいない」と断言し、その上で直接面会すると改めて丁重な態度で彼女を迎えたという。
夷陵決戦の悶着が収まった頃、張温は帰宅部連合に対する修好回復の特使として抜擢され、彼女は孫権の厚遇に応えるため勇んでその任に赴き、諸葛亮を始めとした帰宅部連合の重鎮達にもその人物を高く評価された。ところが彼女は(眼鏡っ娘フェチとしても有名だった)諸葛亮からの過剰ともいえる歓待を受けたことを差し引いても、諸葛亮を筆頭とする連合首脳部の優れた能力と実績に心酔してしまい、帰還後も何かにつけてそのことばかり口にするようになったため、徐々に孫権に疎まれるようになった。挙句に彼女のクラスメートでもある縁から幹部会入りした曁艶、徐彪らが勝手な人物評価と、それに則した人事改変を計画していることが発覚し粛清されると、この二人を幹部会に推薦した張温もまた些細な失敗を論われて幹部会を追われてしまう。この件で張温が処断されたことはまさしく冤罪以外の何物でもなかったが、実際張温にその気はなかったものの、駱統を筆頭に多くの大幹部級の者が取り成しに動いたことで却って孫権は長湖生徒会の瓦解を過剰なまでに警戒し、張温赦免の嘆願の全てを封殺してしまった。
張温は己の不明により、申し開きは勿論汚名返上の機会すら望むべくもなくなったことを悟り、失意のうちに階級章を返上。その後一年以上その姿を見せなくなったこともあって、絶望のあまり長湖に身投げしたという噂すら立った。諸葛亮は最初そのことを信じられずにいたが、この一件から孫権の隠し持った排他的な残虐性を思い知らされ、尚且つ張温にはそれを避けうるほど己を律することが出来なかったのだと結論付けたという。
-史実・演義等-
張温 一九三~二三〇
字は恵恕、呉郡呉の人。「呉の四姓」と呼ばれる名門氏族のひとつである張家の出身で、孫権に仕えた名士・張允の子。常に節操正しい行動を取り、立派で優れた容貌の持ち主であったとされる。
孫権は張温の名声を聞き、側近たちに「張温の人物を、現在名の知られる人物とで比べると誰に匹敵するだろう」と尋ねると、大司農の劉基は「全琮と比肩しましょう」と答えたが、当時太常の位にあった顧雍は「それは違います。現在の士人の中で、張温に比肩できる人物などおりません」と反論したため、孫権は彼を召し寄せて引見した。召し出された張温の答弁は見事なものであり、群臣は身を乗り出し、孫権も態度を改め丁重に待遇するほどだった。張昭に至っては張温が退出する際に引き止めて、その手を取ると「この老いぼれめがあなたに希望を寄せている事、どうかよく覚えていてくだされ」と言ったという。
張温が三十二歳になった時、輔義中郎将の役職を与えられ、蜀呉同盟締結の使者として蜀に赴いた。出立に当たって孫権は「本当はあなたほどの人物を遠方への使者として送りたくはないのだが、諸葛孔明殿にわが国の誠意を理解して欲しいので、あえてあなたに行ってもらいたいのだ」と述べ、張温も「私は菲才で名声もなく、十分な働きができぬのではないかということを心配しています。しかし、諸葛孔明は計数というものの本質に通じておりますでしょうから、必ずや陛下のお心づかいを理解し、わが国を疑う事などないでしょう」と答えた。蜀皇帝劉禅に引見された張温は上奏文を奉って劉禅を讃え、親睦を深める旨を述べたが、このときの張温の言葉に蜀の人臣たちも彼の才能を高く評価した。張温は呉に戻ると、蜀の政治を賛美したという。
間もなく張温は、豫章郡で兵の動員を命じられたが、その仕事は余りはかどらなかった。さらに当時呉の幕府には曁艶、徐彪という人物が居て、勝手に呉の幕僚たちの人物批評からなる苛烈な人事を行い、さらに大規模な人事改変によって品行方正でない人物を全て罷免してしまおうと計画した。その対象には事もあろうに当時孫呉の大番頭的な立場になった北海の孫邵がいたこともあり、そのことで調査が行われた結果、そもそも曁艶自身が過去に罪を得て投獄された経験があって、そのことについての余罪が明らかになりで失脚したのだが、悪いことに彼は同郷の張温と懇意な関係にあり、張温も巻き添えを食う形で些細な失敗を取り上げられて左遷させられてしまった。駱統は張温が若年であるがゆえこのような過ちを犯したこと、曁艶らの件は根拠のない濡れ衣に過ぎない事などを述べ、張温を取り成したが、孫権はそもそも張温が蜀の政治体制を賛美したことを苦々しく思っており、機会を見計らって張温を処罰しようと目論んでいたため聞き入れなかったという。張温の弟達も同様に官位を追われ、張温はそれから六年後に汚名返上の機会もないまま病死した。
かつて余姚の虞俊は張温を評して「才能はあるが実が伴わず、やがて人の恨みを買って一族もろとも滅亡の道を辿るだろう」と危惧していたが、諸葛亮は虞俊の言葉は元より、張温が放逐された事を知っても信じられず、考えた末「かの人は清濁の区別をはっきりつけすぎたのだろう」と結論した。裴松之も「彼は名声を集めすぎ、そのために身を滅ぼす結果となった。駱統のとりなしも、結局は孫権の怒りの火に油を注いでしまったようなものだ」と述べている。
-狐野郎が曰く-
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という諺がある。何事も行き過ぎては却って害にしかならないことの例えであるが、張温の末路はまさしくそれ以外の何物でもない。まして相手はあの孫権、虞翻や陸績の例からして無事で済むわけではないだろうに、まして、つい先年に自分達を滅ぼしかけた相手を大々的に賛美して回るとか正気の沙汰ではない。起こるべくして起こった因果応報といっても良く、赦免嘆願したのが駱統でなければ道連れに左遷されていてもおかしくはあるまい。いや、記録にないだけで張温の赦免を訴え出て孫権の勘気をこうむった二次被害者ももっといるのではなかろうか。主君の器を見抜けず、自分の行動を律することが出来なかったことこそ、張温最大のしくじりであったといえる。
三国志演義でも登場しており、こちらでは何故か鼻持ちならないじいさんとして描写されている。散々威張り散らして横柄な振る舞いをした挙句、蜀の若い学者である秦宓にぐうの音も出ないほどやり込められてしまうという損な役回りでの登場である。正史ではこのとき三十路入ったばかりで十分に若いのだけど、なんでじいさんにされてしまったか謎である。まさかとは思うけど後漢末の司空を務めた張温と混同されているのだろうか…それにしたって、孫堅の上官だった人物がどうしてその息子の部下にされてんだって話だが。そこに関連して、実は張温の没年ってはっきり明記されておらず、罷免されかかった孫邵が嫌疑を不問にされてこれまでどおりの扱いを受けているものの、二二五年に在官のまま亡くなっていることから、張温は蜀に行った翌年に失脚しているという解釈なのかも知れぬ。故にここでもその見解に倣う事とする。
さて狐野郎は参画当初、「長湖部員補完計画」という胡乱極まりない目論見で未記載の呉書収録人物を増やしまくろうとしていたのだが、張温もそんな一人である。そしてモデルに選んだのはホポップン13初出キャラのはなちゃん。今思い返しても我ながらなぜそんなチョイスにしたのかよくわからぬ。単に好きなキャラであるという理由なら、もっと他にSSに登場させられそうなキャラでやるところではないのかねそこは…。