解説 程秉
-学三設定-
学園都市で個人的に詩経を教えていた学園中央大図書館の司書・鄭玄が、定年間際に『詩経』の手ほどきをしたといわれる豫州校区の才媛。
高等部に進級して間もなく、比較的治安が安定している交州校区に籍を移し、顔役である士燮の元で交祉棟専属の執行部員として厚遇された。その頃、経書に通じた劉煕という少女と論じ合ったことで、やがて全ての経書に通暁するようになったという。
長湖部が交州へ進出してくるようになると、士燮の紹介を受けた孫権に招かれて長湖部の幹部会に加わった。そのころには卒業を間際に控えていた程秉は、関羽リタイアの意趣返しに侵攻を開始した劉備との和平交渉に赴いたり、孫登に詩経の手解きをするなどの業績を残している。
後に経書にわかりやすい解釈をつけた書籍を刊行し、それがベストセラーになるなど文芸家として大成していることでも知られる。その最初の著書の中では生前の孫登との問答も回顧録として記述され、その内容は学園を去ったのちに心を病んでしまった孫権を立ち直らせる切欠になったという。
-史実・演義等-
程秉 生没年未詳
字は徳枢、汝南郡南頓の人。
後漢の大学者鄭玄の門下生であるが、正史程秉伝によれば、後漢末の大学者鄭玄が生きているうちに教えを授かる事が出来たとあり、恐らくは鄭玄晩年の門下生であったと思われる(鄭玄は二〇〇年に七十四歳で没している)。
世の中の混乱が酷くなると、程秉は交州に移住し、その地に居た劉煕と言う人物と議論を交わし、結果として広く五経に通じるようになった。士燮は彼を長吏に任じ、孫権がその評判を聞くと、手厚い礼をもって招聘し、太子大傅とした。
「二二五年、太子孫登が周瑜の娘を娶る事になった際、程秉は太常に任じられ、呉(蘇州)へ太子妃の出迎えを命じられた。帰還した程秉は孫登に「婚姻は人倫の基であり、王者の教化の基です。だから『詩経』でも夫婦仲の良い鳥を褒める詩が巻頭に来ているのです。ですから奥様との関係も、その詩のことを心に留められます様に」と説くと、孫登は笑って「その美しきおこないに順がって、その悪しきをただしとどめることこそ、私があなたに期待していることなのだ」と、『孝経』の文句を引いて返したという。
程秉は在官のまま病死したが、様々な著書を残しており、その著述は三万余字に及ぶものであると伝わっている。演義では赤壁の戦い前に諸葛亮との論陣に参加したり、夷陵の戦いの際に張飛の首を劉備に届ける使者として登場する。
-狐野郎が曰く-
魏書と違って呉書や蜀書にはなんでかえらく事績の少ない人物がいるのだが、程秉もその一人だ。正史でもその伝以外に程秉の名を見出せず、高名な学者ではあったろうがそれ故か文筆活動に躍起になりすぎて表舞台には出てきてないのだろう。幕僚というよりお抱え学者、プラス太子孫登の教育係か。いつごろ亡くなったかわかっていないが、孫登が皇太子になった(孫権が帝位に就いた)頃に教育係の座は陸遜がついているのでその前後ぐらいと推測できる。鄭玄最晩年の門下生であったと仮定すれば、若くても六十歳は超えていただろう。
演義での名(迷?)場面孫呉の大論陣では一番最後に発言したのが程秉で、「文は天下を治めるのに不要なのか?」と問うも、学文には小人の弄文と君子の文業があるとした上で「あなた方の答弁を聞いていると、この国の学識の低さが窺えるようだが、このことについて不満はないのか」との返答を食らって全員沈黙。というか大学者程秉に対してそれをぶつけるとか、羅貫中は完全に解った上でやってるよな。そもそも時系列的には程秉が孫権の幕僚になったの、もっと後の事っぽいがその辺はええんじゃろか。
狐野郎も単純に「孫呉強化計画」などとザレ言をほざいて、テキトーに追加したみたいな感じのする人物でありそれ以上触れるところがないのが悲しい。デザインも完全に即興で、なんで魚のヘアピンなのかもよくわからぬ。当初はロングというかおさげだったんだけどセミロング化してるしな。これでアホ毛乗せたら(「バンめし」の)栗花落夜風になりそうだが。