解説 孫皓
-学三設定-
長湖部最後の部長。孫権の従妹孫和の妹に当たる。
幼い時分は孫策によく似た快活で聡明な少女であったが、中等部の三年生に上がる頃「二宮事変」に遭遇、孫和に降りかかった度重なる危難は孫皓の精神をも蝕むに十分すぎるほどで、孫和が列車事故に巻き込まれ脳死状態となったことが決定打となり心を閉ざしてしまった。それでも、幼少期からの側近であった万彧が心の支えとなってなんとか精神を回復し、ゆくゆくは長湖生徒会を支える存在として将来を嘱望されるようになる。
「二宮事件」に端を発する混乱が表面上は収まる頃、孫休が卒業するのに際し、その後継者について取り沙汰される段になって、あるときから孫皓に近づいてきた岑昏や何定らが中心となり、特別顧問として残留を予定していた濮陽興・張布に働きかけるとともに、孫綝を処断して内患の一掃に尽力した丁奉の後ろ盾を得たことで高等部一年生にして長湖生徒会長に就任する。これに関して万彧は岑昏らに対する漠然とした不信感から難色を示したものの、世論に押し流されるようにしてその実現を止めることが出来なかった。
当初はやや専横とも取れる濮陽興・張布の元で長湖生徒会の立て直しが行われたが、程なくして孫皓は突如として豹変し、「前政権下で生徒会長の権勢を脅かし一派生徒に対し圧政を敷いた」という難癖を付けて濮陽興・張布の両名を処断したのを皮切りに、気に入らない執行部員や一般生徒を理不尽な理由で解任、学外追放、時には私刑に処すなど暴政を敷いた。その上で自身の権勢をアピールしようとしたのか無茶な対外武力行動を繰り返すようになったことで、瞬く間に湖南の各校区から非難と怨嗟の声が上がり始めることとなる。この実行役には岑昏・何定・張俶といった家政部の者達が暗躍するようになり、孫皓自身は滅多に公の場に現す事が無くなっていった。
それでも陸凱・陸抗を筆頭とする陸一族の重鎮、丁奉や朱績といった名将達が在籍していた頃はまだギリギリのところで長湖生徒会崩壊を免れたが、一番の側近であった万彧を反逆の冤罪によって学外へ追放したことでついに一般生徒からの怨嗟と怒りが閾値に達し、交州校区で大々的な反乱が起こるとそれに対応することが出来ず、同期して攻め入ってきた司馬晋生徒会の南征により長湖生徒会は崩壊、孫皓は岑昏らにすべての罪科を押しつけて処断、降伏したことで長湖生徒会は消滅した。
こうして一般的に知られる事実だけを羅列する限り、学園史においても指折りの暴君・暗君として後世に悪名を残すこととなる孫皓であるが、その行動には不可解な点も多い。降伏を受け入れた益州校区総代・王濬は「とても学園内に名を轟かせる程の悪逆非道の君とは思えず、彼女が降伏に際して他の長湖生徒会員に向けた声明からは、何か悲壮な決意すら感じた」と司馬炎に上奏し、それを嘉した司馬炎は孫皓を賓客として待遇する事としたという。孫皓が投降する際に随行した薛瑩も、表面上は孫皓の「これまで行ってきた暴政の数々は全て私の罪に帰し、貴女達は新たな世界で存分に力を揮うように」という言葉を奉じ、司馬炎の下問に対して孫皓の暴虐を主張するも、後に吾彦が孫皓を非難せず、全てが天命であったと受け答えたことを知って酷く後悔したという話も伝わっている。こうしたことから「孫皓はただの暴君ではなく、何らかの意図があってあえて暴君の如き振る舞いをしていたのではないか」という説を唱えるものもいるという。この件に関しては陸凱ら一部のものが詳しい事情を知っていると噂されるが、彼女らは生涯この真相について口外しなかったために結局真相は不明である。残ったのは孫皓の「消えることのない汚名」のみである。
-史実・演義等-
孫皓 二四三~二八四(一説に二四二~二八三)
字は元宗。一名を彭祖、字を皓宗とされることもある。廃嫡太子孫和の長男で、孫権にとっては孫に当たる。
孫和が廃嫡され、孫亮の時代に死を賜った後は不遇であったものの、孫休の即位した頃烏程候に任じられた。孫休が即位から七年して世を去ると、烏程にいた頃孫皓と懇意にしていた左典軍の万彧は、当時政治の実権を握っていた丞相の濮陽興や左将軍の張布、大将軍の丁奉らの重臣に「烏程侯(孫皓)には才知と見識があり、長沙桓王(孫策)にも劣らない」と話し、孫皓を帝位に就けるように働きかけたことが功を奏し、孫休の後継者として帝位に就いた。孫皓はこの時二十三歳だったとも、後述の理由から二十二歳だったとも言われる。
帝位に就いた孫皓も初めは官倉を開いて飢民を救い、規定を定めて宮女を開放して妻のない者に添わせたり、御苑で飼われていた鳥獣も逃がすなど善政を布いたと「江表伝」に記されており、そのために当初人々は孫皓を名君と讃えた。ところが、程なくして孫皓は酒色に溺れる暴君と化し、国中の美女を片っ端から後宮へ入れ、そのために宮殿を造営するための重税と労役を民衆にかけ人々を落胆させた。濮陽興も張布も孫皓を帝位に就けたことを後悔したが、そのことを讒言する者があって、ふたりは孫皓が帝位に就いた年の内に誅殺されてしまった。
その後も孫皓による暴政は続き、二六五年に遷都した武昌から翌年に建業に戻すと、さらに巨額の出費を投じて宮殿造営を行った。同期して、左丞相に任じた陸凱の必死の諌言も無視し、多くの墳墓を壊して豪華な御苑も作らせた。またその間にも、二六四年に奪取された交阯を取り戻すために出兵させ、二六八年には丁奉に命じて合肥を攻めさせるなど積極的な戦争行動も起こしており、また多くの重臣を処断して人材も失われていくこととなり、呉の国力は急速に衰退していくこととなる。
孫皓の国事を省みない行動により、呉の国内でも反乱が相次いだ。二六六年の施但の反乱は丁固らが鎮圧し、交阯も虞汜らの手によって二七一年に復帰し、二七二年の歩闡の反乱も陸抗によって鎮圧されたが、二七八年に起こった郭馬の反乱はとうとう鎮圧する事が出来なかった。この頃には呉の国家経営は完全に破綻しており、陸凱、丁固、孟宗といった有能な幕僚、丁奉、施績、虞汜、陸抗といった名将たちが世を去り、さらには賀邵、楼玄、留平といった士人たちは孫皓の不興を買って誅殺されていた事で、深刻どころではない人材不足に陥っていたのである。そして呉国内の混乱に乗じた晋の大攻勢が開始され、各地でろくな抵抗もないまま呉国は制圧された。孫皓は光禄君の薛瑩の言に従い、自らを縛り上げて晋将・王濬の前に降伏を願い出たが、王濬はその降伏を受諾し、晋帝司馬炎は孫皓を帰命候とした。
その暴政ぶりは枚挙に暇がない。孫皓が群臣を集めて宴会を開くと、決まって群臣たちを酔いつぶれるまで飲ませ、素面の黄門郎十人にその様子を見張らせ、失態があったものは報告され、その罪の大小に関わらず必ず何らかの罰を与えた。また、宮女たちで気に食わないものがいれば、殺して宮廷内に引かせた川に死体を流したともいう。与える刑罰も、顔の皮を剥ぐ、目を抉る等凄惨なものだったという。孫皓の寵臣・岑昏は狡賢く立ち回って孫皓に取り入り、土木工事を好んで、民衆を工事に駆り立てたため上下の人心はさらに離れていった。因みに岑昏は、呉の滅びる直前に群臣たちの手によって血祭りに上げられた。孫皓が何故ここまでの凶暴奇矯さを発揮したかの理由については憶測の域を出ないが、「父の孫和が冤罪に近い理由で不遇の最期を遂げ、そう追いやった孫権に対する恨みから国自体を破滅させようとした」という説、「最初は本当に国を立て直そうと意欲に燃えていたが、その聡明さ故に打つ手がないことに気づいてヤケを起こした」という説などが挙げられている。降伏に際し、薛瑩ら僅かな能臣達に「国の滅亡は私の責任であり、君達は新たな君主の元で存分に力を揮うように」と声明を出していたことからも、生まれついての暴君であったかどうか疑問視されることもあるが、裴松之などは「降伏した孫皓を即座に血祭りに上げず、侯として遇した事は大きな過ちである」と非難している。
孫皓は洛陽で、四十三年の生涯を閉じた。その年は正史孫皓伝では二八四年であるが、「呉録」では孫皓の死んだ年を二八三年としている。
-狐野郎が曰く-
歴史というのは常に勝者が作るものであり、その業績のみを鑑みて暴君が生まれついての暴君であったのかを判断することは難しい。孫皓は確かにその業績からすれば紛う事なき暴君であり、裴松之らが非難の声を上げるように、処刑するとまで言わずとも侯として遇するのはいささかどうか、ということには否定の余地はない。ただし、その行いによって並ぶべきものない暴君とされた孫皓も、果たして裴松之らが非難するだけの「絶対悪」でしかなかったのかと言われると疑問は残る。例えば吾彦は司馬炎の下問に対して「間違いなく英傑であり、国を滅んだことは天命によるものだ」と述べ、陸抗の子陸機は「弁亡論」の中で呉が滅びた理由について「然るべき人物が相次いで世を去ったため、さして大勢力でもなかった晋の大侵攻を食い止めることが出来なかった」と擁護している。実際孫皓当人も初めから暗愚にして悪逆非道の人間ではなく、むしろ帝位を嘱望されていた聡明な人物だったと伝に記述されているのだが、それが何故あのようなアルティメットクレイジー野郎になったかは上述したとおりで、あくまで想像の域を出ないのが実情である。ただ張布や濮陽興が誅殺された理由については、孫皓が専制政治を行った彼らを危険視し、処断することで真に政治を正そうと思っていたのではないかという解釈もあってよかろうと思うが、さて。
狐野郎の設定(という名目の妄想)では、そこを下敷きにしたのかしてないのかという感じで、彼女もまた「二宮事変」の被害者であったと言うことが根底にある。精神を病みながらも、魯班達の残した毒を学園から残さず一掃することを己の使命としてしまったことから、力及ばず諸共に滅ぶ道しか選べなかった悲劇の君、それが狐野郎解釈における学三孫皓という存在ということだ…というには、最早それがどういう結末を迎えるか、纏めることは出来ないかも知れない。
なおそのデザインに関して、実際は公式にも明るい茶髪のショートカットという孫皓像は存在している。いるのだがあえて今回は大きくデザインを変更させてもらっている。見る人が見れば一発で解るだろう、「ウマ娘プリティーダービー」の「お嬢」ことキングヘイローがそのモデルとなっているが、お嬢の育成ストーリーにおける泥臭さが、学三孫皓に与えた悲壮感と自分の中で綺麗にダブったのかも知れない。