解説 賈詡
-学三設定-
涼州校区でも名の通った才媛で、特にIT関係の知識と技術は学生離れしたレベルにあるとすら言われる。その真骨頂はインターネット掲示板やSNS上における炎上の扇動にあり、初等部に居た頃から数々の炎上案件を引き起こしていたとウワサされるほど。ネットスキルはまさしく異常の数倍と言うべき技量の持ち主であり、某国国防省のイントラネットに侵入してあわや国際問題というレベルの大騒動を起こしたこともあったらしい。
当初彼女は牛輔四天王の一角で、董卓軍団内においてインターネットで世論を動かす事を主任務とした張済麾下のマイコン部に所属。董卓失脚直後には張済を通じて李傕・郭汜を焚きつけ、裏から学園を牛耳ろうと画策するも先述の二人がアホすぎ、劉氏蒼天会を蔑ろにして権力闘争に走る有様に呆れ、張済がとばっちりで処断されるとその従姉妹である張繍を首領としてマイコン部の面々共々生徒会中枢部から離脱。そのまま荊州学区を支配する劉表の元に身を寄せることとなった。
やがて董卓勢力が曹操によって駆逐され、蒼天生徒会長を抱き込んで勢力を拡大し始めた曹操が、一大ハッカー集団とも言えるマイコン部の協力を得る(という名目でその戦力を抱き込む)事を画策した段に、賈詡は面白半分で「蒼天通信」の管轄サーバーをクラッキングしにかかる。ところがそこで自分に匹敵するハッキング技術で何者かが同時かつ高速で対処しはじめたことを知って驚愕、翌日血の涙を流しながら()武力行使に出てきた曹操との直接対決においても、油断した曹操を罠に嵌め、今一歩のところまで追い詰めそのボディーガードであった典韋をリタイアさせるものの、肝心の曹操を取り逃がしてしまう。その頃には自分の仕掛けたクラッキング攻勢を対処したのが曹操本人だったこと(と自分のクラッキングで曹操が大事に「育成」していたAI「子脩ちゃん」のデータをふっ飛ばしてしまっていた事)を知ることとなり、彼女は感服するとともに徐々に曹操に惹かれ始めるようになった。そして時流を見極め、張繍を説得した賈詡は官渡公園決戦の前日に曹操の元訪れ完全無条件降伏を願い出ると、曹操はクラッキング事件で自分が大切に育てていた「子脩ちゃん」を消滅させる羽目になったことや、典韋をリタイアさせられた件の恨み辛みを全て木星圏まで吹っ飛ばす勢いで賈詡の帰順を喜んだ。直後官渡決戦では運動神経が切れている身でありながら「曹操の戦いぶりを間近で見たい」という希求からママチャリの全力疾走で随行、戦場での曹操を目の当たりにした賈詡は更に曹操に入れ込んでいき、郭嘉死後はその筆頭参謀と目されるほど信頼されることとなる。
曹操帰順以後も、数々の炎上案件を引き起こしたその煽り能力と、デマ拡散スキルを存分に駆使して陰湿な策を弄び暗躍した。その圧巻とも言えるのが、関中陸上部連合を一通の偽メールで一夜のうちに崩壊に追い込んだことであろう。陰キャのネット廃人と陰口を叩かれることも多いが、ネットを介して様々な人間関係を目の当たりにしたためか観察眼も確かで、同時に高い戦術構築能力をフルに活かして関中勢力掃討戦でも指揮官として活躍した。この戦いこそ賈詡一代の見せ場と言っても過言ではなく、その後雍・涼二校区の勢力基盤の土台を築く趙儼、杜畿、賈逵らは賈詡の推薦でこの地の安寧に尽くすことになりその期待以上の業績を残している。曹操引退以後も卒業式の当日まで曹丕をサポートし、引退したが、その性格もあって懇意な者はほとんどおらず、卒業後の足取りは誰も知らないということだが、何処から集まってきたのか彼女の親戚の者は東晋生徒会でも重鎮として隠然たる勢力を築いたという。
切れ長の目が美しいなかなかの美人だが、常に冷笑を浮かべ、人をよせつけない雰囲気を持っている。荀彧ら曹操の古参の参謀たちとも仲が悪かったというよりも、先にも述べたように友らしい友が居なかったことから他者と馴れ合うことそのものを拒絶していた風がある。しかしどういうわけか、曹操と張繍に対してだけは妙な愛着を持っていたようで、曹丕に対して「曹操が後継者として認めた」事からサポートはしたが、「帰順直後に張繍に陰湿ないじめを仕掛けて学園から追い払った」件をいつまでも憎悪し内心では蛇蝎の如く忌み嫌っていたという。
-史実・演義等-
賈詡 一四七~二二三
字は文和、武威郡姑臧県の人。若年の頃は認めるものはなかったが、ただ漢陽の閻忠という人のみ「張良や陳平に匹敵する」と評したという。
孝廉に推挙されて役人になったが、病にかかって官を辞し、故郷の涼州へ戻ろうとした。そのとき、異民族の不服従民に出会い、付き添いのものと共に囚われてしまっが、賈詡はその不服従民たちに「わしは段公(当時、涼州周辺で威名をとどろかせていた段ケイのこと)の外孫だ。わしを殺すというのなら、他のものとは別のところへ埋葬すると良い。家の者が必ず十分に礼をするだろう」といった。不服従民たちはこの言葉に驚き、賈詡を丁重にもてなし、送り出したという。なお、賈詡は段ケイとはまったく縁もゆかりもなく、残された従者たちは全員殺されてしまったという。
その後董卓に従って中央に戻り、その配下にあって出世した。董卓が王允と呂布によって殺されると、賈詡は恐れおののく李傕、郭汜、張済らに「どうせ逃げてもいずれは捕われ、反逆者として死ぬことになるだろう。そうなるより、このまま兵をまとめて都へ進み、董公(董卓)の復讐をすべきだ」と説き、李傕らは王允を殺し、呂布を敗走させて政権を握った。やがて李傕たちは私利私欲から権力闘争を繰り返したため、賈詡は皇帝(献帝)やその侍臣たちを長安から脱出させた。その後賈詡は旧知で顔見知りだった段煨の元に身を寄せたが、段煨は自分の臣下が賈詡に注目することを快く思わなかったため、賈詡は段煨の元を辞去して南陽にいた張済の甥・張繍の元に身を寄せた。
張繍は賈詡の進言に従い、劉表と手を結んで曹操に対抗し、一度はその策謀で曹操を窮地に追い込んだ。演義ではこのとき曹操が執拗に一点の門のみから攻勢を掛けていることから曹操の「偽撃転殺の計」を見抜き、曹操が狙う真の場所をわざと手薄にして誘い込んで殲滅する「虚誘掩殺の計」を張繍に進言し、曹操を捕殺する直前にまで追い込んでいる。さらには曹操の息子曹昂、甥の曹安民、愛臣の典韋らを戦死させているのだが、何を思ったか、官渡の戦いの際賈詡は張繍に曹操に帰順するよう進言した。曹操は彼らの帰順を非常に喜び、賈詡に対して「わしに天下人民の信頼を得させてくれるのは君だ」と言ったという。曹操の懐刀となった賈詡最大の見せ場といえるのは、渭水の戦い(二一三)だろう。曹操はこのときの戦略を賈詡に一任し、馬超と韓遂、関中軍閥の連携を離間の計で引き裂くことで勝利を決定付けた。
頼みとする荀彧、荀攸ら優れた参謀が世を去っていくと、曹操は賈詡への信頼を厚くし、後継者問題について相談を持ちかけるようになった。あるとき賈詡が無言でいるのを訝った曹操に、賈詡は「丁度、袁紹や劉表の子供たちのことを考えたものですから」と答えた。曹操は大笑いし、ほどなくして曹丕を太子とすることを公表したという。
曹操の死後は太尉に昇進して曹丕の補佐に当たったが、賈詡は高官に登っても私生活は慎ましく過し、子供にも貴族との婚姻関係は作らせないようにしたという。賈詡は二二三年に七十七歳で世を去ったが、その子孫は魏から晋に移っても高官を歴任し、その一族は名門として繁栄したとされる、正史の伝は荀彧、荀攸と同列に置かれているが、裴松之は董卓軍残党による天下の混乱を招いた賈詡を荀彧らと同列伝にするのは間違っていると陳寿を非難し、「二荀が夜行の珠とすれば、賈詡はおがらのようなものだ」と人物像を酷評する一方でその知謀を認めてはおり、賈詡と同じ列伝とすべきは郭嘉や程昱、劉曄などであろうと述べている。
-狐野郎が曰く-
「蒼天航路」の描写から「暗黒軍師」と呼ばれてみたり、歴戦版などでは「カクセンセー」と呼ばれ三国時代最強軍師にもノミネートされる事の多い賈詡。暗黒軍師というのは「蒼天航路」でも本人がそれを自負して振る舞っていたきらいもあるが、実際にやることなすことそういうブラックなイメージがつきまとう傾向がある気もする。鬼謀の軍師というイメージ的にも曹操に対しては誠実に仕えた点も黒田官兵衛孝高に通じるものもあるが、官兵衛とは異なり戦術的な奇策より、他者の心理をかき乱すほうの鬼謀に優れていたイメージがより強く、なるほど「暗黒軍師」とは良く言ったものである。「蒼天航路」においても「純粋軍師」郭嘉と対比する存在としてこのフレーズが良くハマる。そして何故か賈詡というとからすを連れてるイメージが強いが、それも「蒼天航路」で郭嘉を「純粋軍師」と比喩した上で「軍師一筋のわしでも勝てる気はしない」と独白した、あのシーンのイメージからなのだろうな。その後漢中攻略でも蒋済に「(劉備と対する前に)覚えてきた先入観は全て捨てろ。それが曹操麾下の優れた軍師が通ってきた道だ」と訓示するなど、表面上ではいがみ合っていながらも荀彧の事を認めたような発言をしていたり、あとは様々な戦の場で曹操のそばにあって曹操に振り回されながらも泣き笑いしたような顔で嬉々として馬を走らせるとかそんなコミカルな一面を出していたり。「蒼天航路」でもなんだかんだ探せばそこいら中に賈詡の姿を見いだすことができ、曹操の夢の中でも最後に出てきた軍師が司馬懿や劉曄ではなく彼だったのも、あの作品で「最後まで戦場に居続けた軍師」としての賈詡の姿を印象づけていると思う。
学三版賈詡はドラマ「ショムニ」で主演したときの江角マキコがモチーフであることが明言されており、イメージとしては「シャープで線の細い美人」なのだそうだが、曹操に帰順した後には曹操から誕生日プレゼントとしてUSBフォンデュを押しつけられて困惑するやら嬉しいやらで戸惑う賈詡のSSを書いておられた人もいた。普段の学園生活でも惇姉同様曹操のオモチャになってたのかも知れないが当人も案外まんざらではなかっただろう。