解説 張紘


-学三設定-

徐州校区の才女として、同級生の張昭と揃って「二張」と並び称される同校区の有名人。出身は豫州校区で、同じ学校区出身の幼馴染みである陳琳と交友があり、あるときふと骨董品屋で柘榴の木の枕を見かけ、その木目が面白かったからと作った漢詩を陳琳がいたく感動し、学園都市中に広めて回ったというエピソードが残るほどの名文家・名筆家として大手文芸雑誌が取材にくるほど全国区で名を知られていた。張昭共々生徒会執行部から度々招聘を受けたが、彼女は張昭共々政争や黄巾党の暴威を避けるかのようにして活動拠点を揚州校区に移すこととなった。
揚州でも半ば隠者のようにして学園生活を送っていたが、周瑜経由でふたりのウワサを聞きつけた孫策が張昭を長湖部の運営スタッフに加えた頃に、その張昭の仲介で彼女も長湖部に参画する。知恵者としても有能だった張紘の能力を孫策も頼みとし、彼女の個人サイト「海内の真珠」(後に先述の陳琳とのエピソードがあって「柘榴の花」に改名した)から孫策も彼女を「長湖の(淡水)真珠」と称して周囲に喧伝させていた。レディース上がりの荒くれだらけである実働部隊を抱えながら、虞翻や魯粛、諸葛瑾、陸遜と言った名士層の支持を孫策が得られたのも、孫策がとりわけ張昭や彼女を丁重に扱ったことがひとつの要因であっただろう。
彼女自身も孫策を高く評価し、心酔していたという程ではないだろうがその人柄には惚れ込んでいたという。センスは多少他人とはズレれているものの、穏やかで理知的な性格の持ち主で、張昭のように決して頭ごなしに他人を押さえつけるような意見の出し方をしないものの、それでも相手が自分の意見を入れるか自分が納得するかまで頑強に粘るという点では共通している。当然ながら弁論も大得意で、孫策の要請に従い臨時の執行部員として蒼天生徒会に出向していた際、孫策の事故を知りショックを受けつつも、長湖部の為に孫権をその後継者として認めるよう有力者に働きかけるべく奔走した。曹操はこの機に長湖部及び湖南校区名士層を麾下に接収する気満々だったが、自身も張紘と交友を持ち始めた事もあって彼女に嫌われたくないことから断念したと言われる。間もなく臨時執行部員としての任期を終えて長湖部に帰還すると、孫権の傍で相談役として重きを成した。筆習字、ペン習字ともにプロ級の腕前であり、長湖部の公式文書もほとんどが彼女が手がけていたという。
孫権は大抵先輩部員であっても(字を知っていれば)字+さん付けで呼ぶのが普通だったが、張紘に対しては「子綱先輩」と先輩付けで呼ぶ、あるいは彼女が揚州東部総括という役職を務めていたことから「東部さん」と呼ぶなど特別扱いをしており、非常に敬意を持って接していたことが窺える。卒業を直近に控えた赤壁決戦の後、孫権以下多くの長湖部スタッフに惜しまれながら引退し、その際に「長湖部の本営を、より対外的な要衝として機能する建業棟に移すように」とアドバイスして学園を去った。彼女の最後の献策は即座に実施され、以後も建業棟は長湖部が学園生徒会組織として独立するまでその本拠地として、それ以後も重要拠点として運用されることとなった。


-史実・演義等-

張紘 一五三~二一二
字は子綱、広陵の人。
洛陽の大学で学んだ後帰郷し、茂才として推挙されたり、三公の府から招聘されたりもしたが、そのいずれにも応じず、戦乱を避けて江東へ移住した。孫策が挙兵するとその元に仕官し、張昭と共にその参謀となった。孫策は出征すると、張昭と張紘のいずれかを必ず従軍させ、いずれかに留守を守らせた。建安四(一九九)年、孫策の命により許都で天子に拝謁したのだが、そのまま許都に引き止められて侍御史に任ぜられた。曹操が孫策の死に乗じて江東を攻めようとした際、それを諌めて取りやめさせたため、曹操は彼の意見を取り上げて孫権を孫策の後継者となるよう取り計らったという。曹操はなんとか彼を自分になびかせようとしたが、張紘が孫家への恩義を忘れずにいたため、彼から孫一門を自分に帰順させようと考え、会稽東部都尉に任じて江東へ戻らせた。
江夏攻略の際、会稽の東部は特に憂慮すべき問題もなかったため、孫権は背後の守りを張紘に任せた。後に孫権は彼が後方を守った功労を認めて褒賞を与えようとしたが、張紘は自分にその資格はないと固辞し続けた。孫権は普段、臣下を字で呼びかけていたのだが、張昭に対しては「張公」、張紘に対してはその官職から「東部」と称し、臣下の中でも特別な扱いをしていた。それゆえ、褒章を固辞する張紘の気持ちを尊重し、無理強いはしなかったという。
後に長吏として、赤壁の戦いに呼応した合肥攻略に従軍した。孫権が先頭切って戦おうとすると、張紘は「たとえ敵将を斬り、軍旗を奪い、戦場に威を示したとしても、それは武将たちの役目であって総司令官の役目ではありません。どうかお心に覇王としての計略をお持ちになってください」と諌め、孫権もそれに従って自ら陣頭に立つのをやめた。また、その翌年に再度兵を出そうとしたときも、諌止して思いとどまらせている。他にも張紘は、孫権の日常生活の場に侍して、ちょっとした言葉や正面から述べぬ意見によって、常々孫権の行動を誡め正していたという。
二一二年、張紘は孫家勢力の本拠地を呉から秣陵に移すように進言し、孫権もそれを受けて本拠を秣陵に移した。張紘は孫権の家族を呉の地へ迎えに行く道中、俄かに病を発して帰らぬ人となった。危篤の際、息子の張靖に孫権への遺言状を託し、それを読んだ孫権はその死を惜しんで涙したという。享年は六十歳。
優秀な官吏としてのみならず、詩賦など十余篇の作品を残したことでも知られる文人でもあった。許都にいた時には孔融らとも親交を深め、同郷の文人である陳琳とは互いに文才を讃えあう関係であったという。


-狐野郎が曰く-

演義でも「江東の二張」と称され、同じ張姓ではあるが張昭とは特に血縁関係はない。そもそも張昭は徐州彭城国、彼は豫州広陵の出身なので出身国も比較的離れているわけであるし…当然だが呉郡の名士である張温とも血縁関係は特にない。そもそも張姓はわりと何処にでもあるし 余談だが孫策は「三顧の礼」で張昭を招聘し、その張昭が孫策に付いたことを受けて張紘も招聘に応じたという展開になっているが、何気に正史の記述ではどうも張紘のほうから孫策の元に出向いた、という感じらしい。きっとウマが合ったのかも知れないが…あれ、なんか諸葛亮に関わる記述でも似たような展開を見たような。
実際わりと長いこと漢朝の朝廷に出仕していたこともあったせいか、演義ではずっと曹操の元に引き止められたことになっていて、秣陵建業(現在の南京)に本拠を移すという献策も、手紙としてもたらされたその遺言によってなされたわけだが…曹操やその取り巻き(例えば程昱なんて演義でも徐庶の母親の偽手紙こさえてたりするし)がなんか自分たちに都合の良いように内容改ざんしたとは疑わなかったんだろうか。実際は孫権が孫策の後継者として承認されて間もなく帰還していて、それから十年以上は後方の守備を任されたり重用されているのであるが。なお孫権が合肥を攻めた際(赤壁の直後ぐらいの話)、孫権が先陣切って突っ込んでいこうとしたときにもやんわりと制止しているエピソードが残っている。
文人としても多くの作品を残したとされているが、残念ながらどうも散逸したと見えて裴松之も取り上げてはいない。それに関わるエピソードとして、柘榴枕の木目を詠んだ賦の話が残っている程度である。「学三」張紘もその関係から文学少女というか、むしろ「少女女流作家」といった扱いになっているようだ。あとなんか常日頃から着物を着ているという設定があるらしいので、こちらでも着物を着たカットにしているのだが、まさか学校でも着物を着て通っているのだろうか。ついでにこのデザインも玉絵ではないが公式のキャラ設定に寄稿されていたものである。