解説 潘璋
-学三設定-
元々は青州学区にいた問題児で、一旗上げるべく孫権が陽羨の棟長となった頃に押しかけるようにして長湖部に参画する。
言うことやること諸事ハデで、金遣いも荒かった。いつも他人に金を借りているが期日に返した例しがなく、口癖は「出生払いで返すから」。しかもケチで好き嫌いが激しく、自分の立場を盾にして部下や一般部員を脅してカツアゲしたりパシリに使ったり好き放題していたこともあって人望は極めて希薄なものだったが、本人はそんなもの何処吹く風で日々を気ままに過ごしている。
とはいえ口先ばかりの娘ではなく、フリマや学園オークションで莫大な利益をたたき出し、自分の借金の返済に充てるという商才は素晴らしいものがあった。本人は校則や規則なんてモノを屁とも思っていなかったようだが、自分の取り仕切る場には厳格にルールを定め、それを破った者に対しては容赦なく徹底的な制裁を加えることも日常茶飯事であったため、彼女がどこそこの棟長に任じられると、当地の規律は厳格に取り締まられた状態になり、あえて規則を犯そうという命知らずも鳴りを潜めたという。当然彼女が取り仕切るフリマなどでは一円でもちょろまかそうとすれば、売上は勿論オケラになるまで手持ちを搾り取られることもしばしばで、こうした面が大いに非難されるも、孫権がその才覚を気に入っていたためあまり問題にされなかった。
当然指揮能力、戦闘能力も長湖部員の中ではトップクラス。何しろ(潘璋自身が定めた「俺ルール」も多分に含む)規則を破ったら後々シャレで済まない事態になるので、逃亡する一般部員も多ければ同じように彼女の元で一旗上げようという不良や落ちこぼれの類も多く集まり、率いる軍団の人数は常に少ない挙句入れ替わりも激しかったが、実数の数倍に匹敵する戦闘能力を発揮したという。
人を育てるのは得意ではなかったようだが、甘寧から託された丁奉の才能を最終的に開花させるきっかけを作った。夷陵回廊戦の前哨戦で、関羽の最後に関わったために生贄として劉備の怒りを鎮めるために連合の陣に送り込まれてリタイアさせられたというウワサもあったが、全くそんなこともなく、後に彼女が拠点とすることになった固陵棟では幾度も攻め寄せてくる蒼天会軍を返り討ちにしている。
-史実・演義等-
潘璋 ?~二三四
字は文珪、東郡発干県の人。
孫権が陽羨県長であったころ、潘璋は孫権の元に出向きその配下となった。気ままな性格で酒好きだったが、家が貧乏だったため、常に店のつけにして酒を飲み、店の者が取り立てに来ても「将来、金持ちになったら返してやる」の一点張りだったという。孫権はこうした潘璋の性格に何か見所を感じたらしく、兵士の募集に当たらせて将とした。やがて山越系の不服従民の平定に功があり、別部司馬となった。
その後彼は蘇州(呉郡)の中央市場の取り締まりに当たるのだが、彼が取り締まるようになってからは市場の傷害事件、強盗などはすっかり鳴りを潜めてしまった。これで評価されると、今度は豫章郡西安県の長に昇進、転任したが、当時荊州を支配していた劉表勢力の介入が激しかった西安県も、彼が県長になったとたん侵攻がぴたりと止んでしまった。さらに隣県の建昌県に赴任すると、当地の野盗も一月足らずで平定してしまった。
こうしてみると一見、優れた手腕を持つ政治家あるいは武官といった趣のある潘璋だが、生来粗暴な性格の持ち主で、相当過酷な罰則を用いていたのか彼の出す禁令はよく守られていたという。その兵士たちはみな戦場では勇猛に働き、潘璋の軍勢も実数数千人という規模であったが、戦争となると常に万の軍勢に匹敵する働き振りを示した。また、戦争がひと段落着くと、彼はすぐに軍直営の市場を作り、不足物品を補わせたという。
合肥の戦いでは、張遼の奇襲に際し、後方にいた潘璋は本陣の守りが薄くなっていたことに気づいて駆けつけ、恐怖に駆られて逃げようとする友軍の宋謙軍、徐盛軍の兵士を斬り殺した。両軍の兵士はこれに驚き、取って返して戦ったという。孫権は彼の勇猛さを評価し、偏将軍として半州に駐屯させた。甘寧死後、その兵士の指揮を任された。
関羽討伐の際は、その配下であった司馬の馬忠が関羽・関平親子を捕らえ、その功績で振威将軍・栗陵候となり、新たに宜都郡から分立された固陵郡の太守となった。劉備が大遠征を開始すると、潘璋の知行地もその侵攻ルートに当たるため、陸遜の指揮下に入ってその軍勢を撃退するのに功績を挙げた。後に夏候尚率いる魏軍が南郡に攻め寄せると、魏軍は続々と長江の中洲に陣営を築き始めた。軍を率いて救援に駆けつけてきた諸葛瑾らはその対策に頭を悩ませたが、潘璋は上流五十里の地点から、火をつけた葦の束を流して、魏軍の作った浮橋を破壊しようと企てた。これを察知した夏候尚は、さっさと兵を引き上げてしまったという。
孫権が帝位に就くと、潘璋は右将軍となった。潘璋は贅沢も好んだといい、晩年にはそれが高じて服飾品にも身分不相応なものが多くなり、兵士や役人のなかに裕福な者がいると、潘璋はそういった者たちを殺して、その財産を奪い取るという無法をはたらいたという。監査の役人はそのことを何度も上奏したが、孫権は彼の手柄の大きいことから不問にしたという。
二三四年に死去。彼の子潘平は不品行が祟って会稽に流刑されたが、潘璋の妻には手厚い保護が加えられたという。演義では関羽を捕らえる功績を上げ、報償として赤兎馬を下賜されるが、そのことが祟って夷陵の戦いでは関興に追い回される羽目になり、なおかつ逃げる潘璋も追う関興も友軍から離れ民家に一夜の宿を求めたところでばったり出くわし、一騎討ちの末にその場で首級を挙げられるという最期を遂げている。
-狐野郎が曰く-
正史で関羽の最期に関わったことで、めでたく(?)演義の理不尽展開の犠牲者になった一人といえる。演義ではそれ以上のことが語られない、その実像はぶっちゃけかなりのロクデナシで、酒好き派手好きで金が絡むと平然と他人を殺して回るという、現代でなくても十分に速攻で処罰されていなければならない極悪人である(そこまで言うか)。実際やってることは董卓じみているんだが、あくまで孫権の部下であり、何より軍事的才幹も優れ商売人としても有能だったので、こんな奴でも天寿を全うできたんだなという好例である。これ本当に良い意味でも悪い意味でもなんだよね。自分が一般兵の立場だったら絶対上官にいて欲しくないタイプの筆頭格である。「蒼天航路」では出番は少ないものの、キレる張昭に対し涙を流しながら呂蒙と共に戦うことを告げたり、朱然に「悪たれの法則」なる独自の価値観を語って聞かせるなど見せ場は何気に多い人物でもある。
学三環境ではそれでもキャラ的には大分マイルドにはなっている(はず)というか、むしろ甘寧その他の行動がヤバすぎて裏で潘璋がなんかやってたとしても「問題として取り上げられなかった」というより「潘璋のやってる程度のことでいちいち目くじら立ててられなかった」みたいなことにはなってなかったんじゃないか、くらいの解釈で捉えている。実際、リタイアしても連中別に死んでるわけじゃないし、甘寧とかが一般生徒の立場であれこれ悪さしててそっちの方が厄介だから「文珪さんがまた誰それをいぢめてる?んな事知るか!!><」みたいなのは本当に想像しやすい。ただ、正史では彼の子が速攻で放逐されているので、親父と同じことをしようとしても子にはその才能が無かったから、当然の帰結といえば当然の帰結と言えそうだ。この乱世なんだし、やはり実力が何よりも一番なのだということを、潘璋の伝は教えてくれている気がしてならない。