解説 全琮
-学三設定-
いわゆる「長湖部第二次黄金世代」と呼ばれた俊英に挙げられるうちのひとり。
全一家は蘇州地区でも有名な顔役であり、全琮も姉の全柔のコネで長湖部へのユース参加を果たす。それから間もなくの頃、姉からチーム運営に必要な物資の買い付けを頼まれたとき、預かった金品をすべてチームメンバーへ配ってしまい、各々の裁量で必要なものを補うようにさせてしまった。当然姉にはひどく叱られたが、全琮は「本当に必要なものを個人で選んでもらったほうが結果的にいいと思ってそうしました」と反論し、このことから非凡さを早くから諸人に知られるようになった。
孫権の代になると本格的にその頭角を顕し、戦闘実務両面でマルチに才能を発揮。当初こそやや無鉄砲な面が目立ったが、大々的な軍団を任されるようになってからは冷静沈着な指揮手腕を身につけた。平時は温厚な性格で他人と衝突することはないといわれていたが、朱桓とは行き違いから一触即発の状況になってみたり、芍陂公園の決戦後には殿軍を務める顧譚達と論功行賞で揉めるなど、年月を経て重任を得れば得るほどその行動に粗が目立つようになった。
極めつけは後に「二宮事変」と呼ばれることになる後継者問題において、一門の妹分たち可愛さに目が眩んだ故か、顧譚達に対する不快感が先立った故か、はたまた他に理由があったのか「魯の君」孫覇派閥の領袖として暗躍。混乱を無用に拡大させることの愚を説く陸遜の忠言に耳を貸すどころか、彼女を明確な敵として幹部会から追いやり、放逐するまでになってしまった。全琮が何を思ってそのような行為に出たのかは不明であるが、当時学外から孫権の遠縁でアドバイザーとして関わっていた孫魯班と懇意だったとされ、その機嫌を取るためであったともいわれる。
全琮は結果的に政敵となる者全てを幹部会から一掃し、表面上は非難を受けることもなく卒業を機に悠々と引退。だがその報いというべきか、引退後間もなく妹達が作戦活動の失敗による処罰を恐れ、蒼天会にこぞって帰順したために全琮そのものの評価さえも失墜させてしまった。そのことについて、後世の識者には「それが下心のあるなしに関らず、自分のものでない品物(姉から預かっていた金品)を勝手な一存でばら撒いてしまった因果応報である」と酷評されることとなった。
-史実・演義等-
全琮 ?~二四九
字は子黄、呉郡銭唐の人。
父の全柔は後漢の霊帝の頃に考廉として尚書郎右丞という高官になったが、董卓の暴政を嫌って官位を捨て、故郷に戻ってきた。そして孫策が呉へとやってくると、全柔はその配下の兵とともに、郡のあらゆる勢力に先駆けてその指揮下に入った。全柔は始め丹陽都尉に、孫権が車騎将軍となると将軍府長吏、桂陽太守となった。
あるとき、全柔は全琮に命じて米数千石を呉郡に運ばせ、交易して必要な物資に変えさせようとした。ところが呉に到着した全琮は、その米を人々に分け与えて帰ってきてしまった。当然ながら全柔は激怒したが、全琮は平伏し「私が考えたところ、申し付けられたものは今必要というほどのものではありません。一方で呉の街の士大夫たちは今まさに苦難の生活のなかにあり、それゆえに米を分け与えその生活の足しとしてもらったのです」と申し開きをした。全柔はその受け答えに、息子の非凡さを再認識させられたという。全琮は中原の戦乱を避けてきた士人たちも、家財を傾けて積極的に援助したため、その名声は遠方にも鳴り響いたという。
後に全琮は奮威校尉となり、山越平定に功績があって偏将軍に昇進。二一九年、関羽が樊城攻略に出征すると、全琮は上奏して関羽の隙を突くよう進言したが、孫権は呂蒙と計って秘密裏に関羽攻撃を画策していたのだが、外部に漏れることを恐れ、このときの全琮の進言を握りつぶしてしまった。しかし関羽撃破がなると、その祝宴で全琮の進言の件を取り上げ、その功を労って全琮を陽華亭候に封じた。
二二二年、夷陵の隙を突いて魏の大軍勢が攻めてくると、全琮は呂範指揮下で水軍を率いて長江の中洲に進軍してきた魏軍を迎撃、この功で全琮は綏南将軍・銭唐侯に、次いで二二五年には仮節を与えられるとともに九江太守となった。二二八年には陸遜とともに曹休撃退に参戦し、同じ頃丹陽、呉、会稽の三郡で山越系不服従民の武力蜂起があったが、孫権はそのうちの辺鄙な地域を分けて東安郡とし、全琮を太守とした。赴任した全琮は賞罰を明らかにし、不服従民には降服して支配下に入るよう宣伝すると、数年のうちに不服従民の帰順者は一万にも及んだ。こうした治績が見て取れると、東安郡は廃止され、それぞれの地域は元の郡に戻された。全琮は召還されて牛渚に駐屯し、二二九年には衛将軍・左護軍・徐州牧に任じられた。そして二四六年には右軍司馬・左軍師の地位まで上り詰めた。
全琮は慎み深く素直な性格で、武将としても大きな勇気と決断力を併せ持ち、敵に当たり難事に取り組むと、奮い立って一身を省みることはなかった。一方で軍の総指揮を取るときには、威儀を大切にして慎重に行動し、軍を動かすにあたって万全な作戦を立て、小利を追うようなことはしなかった。そして相手に意見するときも、相手の気持ちを汲みながら、きつい言葉を使うようなことはしなかったという。孫権が太子孫登を出征させようとしたとき、群臣の中でそれを諌めたのは全琮ただひとりで、孫権もその諫言に従って孫登を呼び返した。論者は皆、全琮を「国家の重臣としての節義がある」と評価した。
一族子弟が重職に上っても、自身は驕り高ぶるようなことはしなかったという全琮だったが、彼の妻である公主魯班が「二宮の変」の中心的謀主であったこと、彼もそれに従って魯王孫覇を支持したことの二点から、裴松之は孫和伝の中で呂岱とともに「このような連中は論ずるにも足りない」と一蹴している。さらには朱桓と作戦行動上の行き違いがあった責任を胡済に丸投げして言い逃れをしてみたり、芍陂の戦いで殿軍の顧譚達が自分の息子達よりも戦功が上とされたことを根に持って、再三にわたり上表して糾弾するなど大人気ない行動も多々見られる。若い頃に勝手に父から預かった財物を士人に配ってしまったことも「家にあって家長たる父親の財産を己の一存で勝手に使うことは忠孝の道に反しており、後に一族が後継者問題を加速させたり、主君を裏切るなどの行為をしたことはその報いである」と酷評されることもある。
二四九年死去。その爵位は長男で名声も高かった全緒ではなく弟の全懌が継いだ。全緒は孫亮即位後に鎮北将軍まで昇進し、東関の戦いでも戦功があったが間もなく四十四歳で死去。全懌は諸葛譚救援の軍を指揮したが、魏軍の攻勢が激しくなると一族ともども魏に降服し、それらは列候や郡太守となった。
-狐野郎が曰く-
狐野郎は孫呉に対して色眼鏡で評価することを憚らぬ生物であると自負しているが、年を経るごとにコノヤロウに対する評価だけは下落の一途をたどっているといっていい。確かに全琮自身は魯班と結託して後継者問題を泥沼化してることしか問題行動を起こしてな…いや、どう考えてもそれが最もクリティカルなところだな。挙句の果てにその死後、今度は生き残った息子たちが任務失敗で処分されるのを恐れ一族挙げて敵方に寝返る始末。そもそも陳寿はなぜコイツの伝を賀斉や鐘離牧などと同列に置いたんだ?どう考えても諸葛恪や孫峻の同類だろこんなの。裴松之は孫和伝で「論ずるに足らない」だけで済ませているが、もっとカクセンセーにしたように徹底的にこき下ろしてもいいと思うんだが。現状狐野郎個人的に孫呉でも数少ない、明確に「嫌い」な人物の一人といってもいいだろう。
全琮といえば父親の財産勝手に分配しちゃった事件もあるんだが、これは同じように非難している人と同様、儒教的概念としては勿論、人間的にいかがなものかと思う。近年でもソシャゲに親のクレカ使って課金しまくる大馬鹿者の話をよく聞くが、はっきりいって同レベルだと思うんだよねこれ。人助けで使ってるからいい事だからとかそういうのではない、どう考えたってそれお前の金じゃねえだろうってとこだ。そういうことを臆面もなくしてしまえる時点で、確かにある意味じゃ非凡かも知れないが…数少ないフォローを入れるなら、孫登はその遺書の中で彼も含め「忠良な臣であり、その意見に耳を傾け政治を正してください」と訴えていることだが、そうだとしたら間もなくとんだ老醜をさらしたことになってなおの事タチが悪い気がするのだけど。
以上のように狐野郎も蛇蝎のごとく嫌っている全琮であるが、学三全琮ってこれといった特徴もないし何が大本になってるんだろうな。ここについてはあまり語ることもないし、キャラ的には大筋で「長湖部内最大のヴィラン」として捉えている。孫登が表舞台を去ったことが彼女を狂わせたのか、それともそれよりはるか昔から狂猛な本性を隠していたのか…瞳にハイライトを入れていないのもわざとなのでその辺りから類推していただきたい。現在最も近いイメージを挙げるなら「ONE
PIECE」の黒炭カン十郎だろうか。