解説 荀攸
-学三設定-
荀彧の姪…とはいえ彼女のほうが半月ほど年上。荀彧の祖母と荀攸の曽祖父が姉弟であったためであるが、もっともそういう意味では正確な意味での姪ではない。
いつも荀彧を「伯母さま~」と呼んでは、困り顔の荀彧に「お願いだからその呼び方やめて」とたしなめられている。どちらかといえばシャープな荀彧と違い、彼女はのほほ~んとしており、かなり大人びた美少女だが一人称が「攸は~」と自分の名前であるなど、やや子供っぽく感じる。しかしその知謀の冴えは荀彧を凌駕し、さらには肝の据わりっぷりもかなりのものであり、かつて清流会の同志を募って董卓打倒の計画を練っていたほど。しかしこの計画は事前に発覚し、他の同志達が董卓の報復を恐れて自首したり学外に逃亡したりする中、荀攸は監禁されながらも堂々とした態度を崩すことがなかったという。董卓がクーデターにより放逐されると、どこかで賈詡が董卓軍団を唆して居ることを知って益州校区に逃亡しようとしたが、漢中アスレチックで迷ったので仕方なく荊州学区に難を逃れていた。やがて曹操が荀彧を招くと、その荀彧の推薦で曹操の元に招かれ、早速ブレーンの一人として活躍しはじめる。下邳棟に呂布を封じ込め、その軍団が持つ圧倒的な機動制圧戦術を完全に殺しきるという策も彼女が提案したものである。以後も荀彧が後方から曹操を支援し続けたのに対し、荀攸は常に曹操と行動を共にし相談役として重きを成す一方、前線で主将を指導する役目も請け負っていたようだ。特に楽進に主将のイロハを実戦で叩き込んだのは有名。
得意能力は「コピー」。単なる物真似だけでなく、その人格や能力までかなり忠実に再現するため「荀攸一人で側近要らず」と評された。しかし賈詡とはかなり仲が悪く、絶対に賈詡の真似だけはしなかったが、実際のところ賈詡の能力は荀攸をわずかに上回っており、荀攸も苦々しくはあったが真似しようとしてもしきれないことを認めていたせいもあるらしい。
曹操の「魏の君」襲名問題に際しては、彼女は荀彧と異なり襲名を是としたため、そのことで荀彧を大いに悩ませることになってしまう。結局そのことが原因で荀彧が蒼天会を去ると、間もなく彼女も、そのあとを追うように引退した。
-史実・演義等-
荀攸 一五七~二一四
字は公達。年齢の上では荀彧より六つ年上だが、荀彧にとっては甥に当たる(荀彧の祖父と荀攸の曽祖父が兄弟という関係)。
霊帝の外戚であった何進が海内の名士二十余名を召しだした際、招集されて黄門侍郎となった。董卓の専横が始まると、彼は何顒らの名士と共謀して董卓誅殺を計画したが、事前で計画が露見して投獄されてしまったが、何顒らが自分たちの末路に絶望して次々と死を選ぶ中で、荀攸のみは泰然自若としていたという。まもなく董卓が呂布に殺されたために出獄し郷里の潁川へ戻ろうとしたが、推挙されて官職に就くものの自ら蜀郡太守となることを望んで許可を得、その地へ赴こうとしたが道が険阻で通行困難だったため、しばらくの間荊州に滞在した。曹操が許都に帝を奉戴し、その地に本拠を構えると、曹操は手紙をやって荀攸を召し出し、始め汝南太守、ついで中央に戻して尚書に任命した。曹操はかねてから荀攸の名声を聞いていたが、個人的に話をしたところさらにその人物を気に入ったらしく、彼を軍師として傍に置くことにした。
一九八年の南陽攻略、同年の呂布攻めにも従軍し、堅城で知られる徐州の下邳城を水攻めにすることを建策し、勝利に貢献した。二〇〇年、白馬津で袁紹配下の猛将文醜を討つに際しては、曹操の仕掛けた「撒き餌の策」(輜重隊を前面に押し出すことで敵を油断させ、相手が戦利品に夢中になっている隙にそれを包囲、殲滅するという作戦)を軍中で唯一理解したのだが、それをうっかり口に出して曹操にたしなめられるという一幕もあった。その後は袁紹軍の輜重隊を殲滅する策を打ち出して軍を勝利に導き、官渡の戦いの決定打となった烏巣襲撃も、彼の進言を受けたものである。
曹操と共に北伐を終え帰還すると、曹操は上奏して自分の配下を然るべき官爵を授けられるよう取りはかったが、荀攸もこのとき陵樹亭候に封ぜられ、二〇七年に大々的な論功行賞が行われた際には封地の加増をうけ、中軍師の職に就いた。曹操が魏公となると、尚書令に任じられた。
才知のみならず優れた人格の持ち主で、曹操をして「公達は表面は愚鈍そうで内実は英知を有し、表面は臆病そうで内実は勇気溢れ、表面はひ弱であって内実は剛毅である。善をひけらかさず、面倒ごとを他者に押し付けない。その英知に近づけてもその愚鈍さに近づけない。人の手本となるべき人物である」と絶賛している。その聡明さを現すエピソードとして、彼が十三歳のとき、元々彼の祖父の下で働いていた人物がその墓守をしたいと申し出た際の話がある。その人物の様子にただならぬものを感じたらしい荀攸は、叔父にそのことを話し、叔父がその人物を取り調べると、果たして殺人を犯していたことが解ったという。また、荀攸と親しい間柄だった鐘繇は「私が念に念を入れて行動計画を練っても、公達に相談すると、必ずそれ以上の考えを見つけ出してしまう」と称揚していた。
二一四年、合肥戦役随行中に五十八歳で世を去った。曹操は彼の死を悼み、後年荀攸の話をするたびに涙を流して悲しんだという。また、荀攸は十二の奇策を考案しており、それを鐘繇にのみ伝えていた。鐘繇はそれを著作にしようとしたが、荀攸死後の十六年あまりの年月をかけてもまとめ上げることができず、その著作は未完のまま鐘繇は世を去ってしまったため、結局その奇策の内容は世に出ずに終わったという。なお演義では荀彧共々曹操の魏公就任に反対し、同じように死を賜って最期を迎えるという、正史とはほぼ真逆という結末を辿っている。
-狐野郎が曰く-
年上の甥というと真っ先に空条丞太郎と東方丞助を思い浮かべる人は重度のジョジョファンであり、荀彧と荀攸を思い浮かべてしまう人は立派な三国志マニアといえる。両方だったら察せ(
「蒼天航路」では最初はコマの端っこにひっそりと存在している感の強い、それでいて言うことが的確な「痒いところに手の届く知恵袋」。官渡では郭嘉、程昱、荀彧といった同僚たちのモノマネという特技を見せ、これは学三荀攸の特技としても取り入れられているようだ。その後どんどん苦労人の面が出て来たり、賈詡のやることなすことに食って掛かったりとそんな面が強くなっている気はする。
学三荀攸のモデルはほとんど見た目通り、ギャルゲーに慣れ親しんだ人なら一発で「Kanon」の倉田佐祐理と解るだろう。そもそも一人称が自分の名前なあたりはまんまである。一体彼女の過去にどんな重い物があるのかはわからないが(佐祐理が自分の名前を一人称にするのは、厳格にし過ぎて弟を追い詰め、心労に陥らせ幼くして死なせてしまったことがトラウマになっているため)、でもこの人肝据わりまくってるのよね。単純にマイペース過ぎるだけなんだろうなあ。