解説 程昱
-学三設定-
曹操のブレーンのひとり…と勘違いされがちだが、実際は実働部隊を率いる生粋の主将で、普段は「蒼天通信」のマネージャーを務めている為にそういう勘違いをされるようになったらしい。非常に背が高く2メートル近い長身で、栗色のロングヘアが特徴的な美少女であるのだが常に表情は険しく、無愛想で向こうっ気が強かったために賈詡とは違う意味でさほど人望に恵まれなかったものの、その賈詡と並び称される程の鬼謀の持ち主と評される。その主将としての功績も、その知略と、何よりもいざというときの肝の据わり方と、的確な軍団指揮能力に裏打ちされたものである。
入学以来「めんどくさい」という理由で色んなスカウトを断ってきた彼女だが、兗州校区総代に就いた頃の曹操の元にフラリと現れ、「蒼天通信」のマネージャーとなった。蒼天生徒会長の一族であった劉岱のスカウトを蹴っ飛ばしておきながら、何の後ろ盾もない新興勢力の曹操軍団に身を投じた彼女の行動を嘲笑う者も居たがまったく取り合うことなく、曹操にその理由を問われた際に「時々自分が日輪を持ち上げる夢を見たけど、その(日輪)イメージに(曹操が)最も近かったから」と答え、気をよくした曹操が「じゃああんたはずっとあたしの味方でいてくれるってことだよね」と返したのは有名なエピソードである。この言葉から不思議ちゃんのようなイメージも持たれるが、実際の考え方は真逆な現実的思考。陳宮の離反と呂布一党の襲撃にあっても狼狽せず、荀彧らと協力し、勝手知ったる東阿棟など数棟を確保して曹操復帰の拠点を護った。
官渡公園決戦では、その前哨戦で寡兵で守った甄棟にて「空城の計」でやり過ごす剛胆さを見せる。その後は突出した袁紹隊を覆滅するべく曹操から指揮権を譲り受けて伝説の「十面埋伏の計」を実行、曹操陣営の勝利を決定づけた。蒼天通信内でも押しも押されぬ地位になりながら、その後も曹操の側近として多くの戦いに従軍するも、合肥攻防戦の頃に彼女は「充足を知るものは辱めを受けない」と、引退を決意。しばらくは東阿に戻り一般部員として過ごしていたが、卒業間際に再度生徒会に招かれ、後進に指導を行ってから正式に階級章を返還し、そのまま卒業した。
余談になるが、実はある学園祭の模擬店を担当したとき、どうしても食材が足りないという事態に陥った。このとき程昱はちょっと雲隠れをし、戻ってきたときにはきちんと調理された肉を店に並べていた。怪訝に思った皆が調べたところ「1-11の○○さんが学園祭以来行方不明。そういえば彼女の服と靴が残されていた」とか「校区で飼っていた犬が軒並み行方不明になっている」とか「撒き餌のミミズが大量に盗まれた」とかいうウソとも本当ともつかない黒い証言がイロイロと出たため、調査は慌ててうち切られ、結局真相は闇の中となった(実際は普通に部費を前借りして調達したらしいのだが)。
-史実・演義等-
程昱 一四一~二二〇
字は仲徳、東郡東阿県の人。
元々は「程立」という名前だったが、若い頃泰山の上で日輪を掲げるという夢をよく見ていたといい、その夢の話を聞いた荀彧が曹操にその話をすると、曹操は程昱に「君は最後までわしの家臣でいてくれるということだな」といい、「立」の上に「日」の字を加えて「昱」の名に改名させたという。八尺三寸(約191センチ)の長身に、あごから頬にかけて見事な髭を生やしていたという風貌の持ち主であり、その性格については「強情で、他人と衝突することが多かった」と評される。
黄巾党の武装蜂起があった頃、東阿県の役人の中に黄巾党に呼応するものが現れたため、県令がその暴威を恐れて逃亡してしまった。しかし黄巾党ががら空きの県城に入って守ろうとせず、その城外六百里あまりのところに駐屯したのを見た程昱は、逃げ出した官民を説得して城に戻り、守るべきだと豪族たちに主張した。豪族たちはその意見に賛同したものの、官民たちは賊を恐れて城に戻ろうとしなかったため、程昱は「賊が襲ってきた」というデマを流して官民たちを城に導き入れ、官民一体にして防備に当たったために賊は敗走し、東阿県はこのおかげで無事に済んだ。
初平年間(一九〇~一九三)、当時の兗州刺史劉岱に招聘されたが応じず、のちに曹操が兗州入りすると、その招聘に応じて曹操の配下となった。劉岱は漢室の一門であり、当時の曹操は新興勢力の棟梁に過ぎなかったから、当然郷里の人は程昱之行動を嘲笑ったりしたが、程昱は笑って取り合わず、曹操も彼と歓談して気に入り、徐州征伐の時には荀彧とともに甄の地に留守役をさせた。呂布が兗州で蜂起した際、程昱や荀彧達の尽力により東阿、范、甄の三県は失われずに済み、曹操の帰還まで耐え抜くことに成功した。曹操は帝を奉戴したあと、程昱を尚書に任命した。
官渡の戦いのとき、程昱は甄にあって七百余りの小勢で城を守っていたが、折悪しく袁紹軍十万の侵攻ルートに当たることを危惧した曹操が増援を送ろうとしたところ、程昱は「もし私の兵を増やそうとすれば、通過の際(袁紹は)攻撃せずにおれないでしょう。攻撃を受ければ意気盛んな敵のほうが勝ち、結局その増援ぶん兵士を無駄に損なうことになります」と断り、その言葉どおり増援を送らなかったことで甄城は袁紹軍の蹂躙を免れた。曹操は程昱の胆力を春秋時代の勇士に擬え褒め称えるとともに、北伐から帰還すると、程昱を奮武将軍・安国亭候に封じた。南征が失敗に終わって引き上げてしばらくの後、曹操は盛大な酒宴を開き、その席で程昱の昔の功績を取り上げ彼を労ったが、程昱は「充足を知るものは恥辱を受けぬという。引退すべきだろう」と、自ら望んで兵を返上し、隠居した。
曹丕が帝位に就くと、再度衛尉として召し出され、爵位も安郷候に格上げされたのだが、次いで宰相としようとした矢先、程昱は八十歳で世を去ってしまった。曹丕は彼の死に涙し、車騎将軍の位を追贈した。爵位は子の程武が継ぎ、また、程昱の孫に当たる程暁も文人として名が知られた。
「世語」に因れば、程昱はかつて曹操軍中の食料が欠乏したとき、郷里の東阿県を略奪して三日分の食料を得たのだが、不足分の埋め合わせとしてその際殺害した人間の干し肉を混ぜ込んだと言う話がある。「世語」にはこの話から、程昱は朝廷内の信望を失ったために宰相になれなかったと記されているが、これについて裴松之は根も葉もないデタラメだと一蹴している。更に演義においては、官渡の戦いのクライマックスで後退する袁紹を「十面埋伏の計」で完膚なきまでに叩きのめして軍を壊滅させる活躍をしたが、これは演義の創作であり、逆に甄城の件については全く触れられていない。また演義等のイメージから「謀臣」と扱われることが多いが、その戦歴から考えれば生粋の知将であるといえる。
-狐野郎が曰く-
地味に演義と正史のギャップがでかい人物である。演義での唯一に近い見せ場である十面埋伏の件は勿論フィクションだが、正直この辺の描写は完全にオーバーキルも良いところである。実際既に烏巣は壊滅してるわ、張郃は郭図のスットコドッコイのせいで曹操に土壇場で寝返った直後だわでしっちゃかめっちゃかだし。実際どこぞのハンニバルみたいに完全に壊滅させて袁紹の息の根を止めるつもりだった…にしては、十軍団を惜しげも無く伏兵させるかねえっていう話で。しかも参加した将軍も無駄に豪華というか魏のオールスターだし。実際甄城の「空城の計」は北伐の諸葛亮が全く同じ事してるからオミットされたのか諸葛亮にパクられたのか。
あと何気に正確な没年がはっきりしておらず、曹丕が帝位に就いた直後宰相にしようとした途端に亡くなった、とのみ記されている。これは程昱伝の記述だが、文帝紀でもそれをうかがわせる記述はないものの、二二五年にかつての功臣を称揚し手祀った際に程昱の名前もあったので、間違いなくその頃には亡くなっているだろうが、一般的には二二〇年没説がほぼ定説になっているためここでも彼の没年は二二〇年として扱っている。とはいえ、そこから逆算すると官渡の戦いの頃には既に還暦を迎えた老将なのである。「蒼天航路」でもやたら背のでかいじいさんだったが、どこぞの荀彧と違って正史の語る容貌に忠実に再現されていると言えよう。てかこの人何気に2メートル近い長身だったのね。。
学三程昱も、長身の美女タイプ。性格もクールでとっつきにくいところがあるようで、過去ログなどでは賈詡に対抗心を燃やしているようなことも窺い知れる。この場合は近親憎悪なのかも知れないが。「世語」引用のエピソードもしっかり取り入れられているようで、やはりブラック過ぎるのかSSにする人もいなかったようである。まあプロフィールの記述だけでオチている気がするけど。