解説 呂布
-学三設定-
学園史上に忽然と現れ忽然と消えた希代の女戦士。
身長180センチを超すずば抜けた長身に、長い髪はドレッドを当て無造作に結い上げている。一見すると女性ジャズシンガーに見えないこともないが、近くに寄ればその腕に盛り上がるものすごい筋肉に気づくだろう。パンチャーとしてヘビー級世界レベルの破壊力を持ち、無手も武器も無関係で様々な武術を総なめにしている「戦いの申し子」で、そのあまりにもの強さと迅さゆえに「鬼姫」と称された。基本的に無口で、迅いバイクで何も考えずにすっ飛ばすことと、自分と一秒でも長く戦える敵と渡り合うことと、可愛い動物を眺めることを何よりも楽しみとしていた。故に、後に曹操の元で「蒼天五覇」の筆頭として武名を上げる張遼のように、呂布の強さに共鳴した者たちが自らの意思で呂布につき従っていたものの、呂布にしてみれば彼女らを率いて学園の覇権を目指そうとか、そのような考えはそもそもなかったようである。
最初は呂布のずば抜けた戦闘技術に惚れ込んだ并州校区総代丁原の妹分として可愛がられたが、彼女が風紀委員長として董卓に反抗して学園を逐われたとき、あっさりとこれを裏切って董卓陣営に付く。董卓が乗っていたバイクが欲しかったからである。次に董卓に対するクーデター計画が持ち込まれたとき、あっさりと董卓を裏切り王允側につく。王允の飼っていた子犬が欲しかったからである。そして王允が涼州軍閥の弾圧を行ってその反撃を食らって処断されると、軍閥の領袖であった李傕・郭汜をブッ飛ばしてそのまま混乱のるつぼと化した司隷を立ち去った。飽きたからである。とにかくその行動は無軌道に過ぎ、善悪や損得ではなく瞬間瞬間の衝動で手足を動かすタイプで、それ故に、彼女の「裏切り」は誰にとっても突拍子もないタイミングで襲い掛かってくる。
その後は袁術や袁紹の勢力圏をフラフラ放浪し、一度は曹操の地盤を奪い取ったこともあったが、やがて敗れて劉備の元へ落ち着く。その劉備と関羽が留守の間に、暇を持て余していた呂布は陳宮の薦めにしたがって徐州校区中枢を乗っ取ってしまう。しかしさしもの彼女も劉備と曹操の二勢力に包囲され、とうとう部下の裏切りで生徒会に身柄を拘束される。曹操はなんとか呂布(と陳宮)を自分の元で活かそうと考えていたが、結局「呂布の存在は唯々学園に害をなすのみだ」という多くの(主に名士層からの)声を無視することが出来ず、やむなく「学外追放」という、学園都市においては項羽以来の厳罰を加えざるを得なかったという。
呂布本人は学園都市を追われてしまったものの、その爪痕というか数々の「伝説」は学園各所に残ることとなり、それは武勇に留まることはなかった。幼少から無免で大型二輪を乗り回しており、何に乗っても速いだろうが、特に董卓から譲り受けたモンスターバイク「赤兎」に乗ってからは、高麗山の峠に永遠に破られることのないコースレコードを毎晩出しつづけたほどだった。また、どうやら陳宮に対してだけは並々ならぬ思い入れがあるらしく、こちらは呂布と異なり学園には残っていたものの、呂布が度々ふらりと陳宮の元を訪ねる姿が目撃されている(学園中枢部は「然るべき対応」を取るべきと再三「指令」を送っていたが、曹操はその全てを黙殺して呂布の好きにさせていたらしい)。彼女に対する感情だけは、飽きることも途切れることもなかったようだ。
-史実・演義等-
呂布 ?~一九八
字は奉先、五原郡九原県の人。
その勇猛さを認められ并州に出仕し、并州刺史の丁原が騎都尉として河内に駐屯すると、呂布を主簿に任命して非常に可愛がったという。その丁原が霊帝崩御の際に洛陽に入ったときもそれに随行したが、何進が宦官に暗殺され董卓が都に入ると、董卓は呂布を唆して丁原を殺害させた。呂布が丁原の首を持って董卓の元へ来ると、董卓は呂布を騎都尉に任じて、父子の契りを結んで信頼を厚くし、常に呂布を護衛として伴った。
呂布が人並み外れた武芸の持ち主であったことは正史にも記述があり、特に馬術と弓術に優れ、呂布は前漢時代の名将李広に擬えられて「飛将軍」と綽名された。董卓の元で順調に出世し、やがて中郎将となり都亭侯に封じられるまでになったが、董卓もまた丁原に負けず劣らずの粗暴かつ短気な性格であったことから、些細なことで腹を立てて呂布を手持ちの戟で殴り付けたことがあり、それを機に呂布も董卓に対して不信感を抱くようになった。
これに目を付けた王允は、呂布が同じく并州出身であるということで丁重に扱い、呂布を唆して董卓暗殺を行わせようと持ちかけた。呂布は当初こそ「自分と董大師(董卓)は親子のような関係にあり、そのようなことはできません」と難色を示したが、王允は董卓が呂布を手戟で殺しかけたことを引き合いに出して呂布をその気にさせると、計画に賛同を示した呂布は自ら刀を取って参内する董卓を惨殺した。呂布はこの功績により位は奮武将軍に上るとともに節を与えられ、その爵位も温候に格上げされ、王允と共に政治の中枢に関わることとなった。しかしながら呂布の栄華も長くは続かず、董卓に随行してきた涼州軍閥の反逆を恐れて徹底的に迫害したことでその怒りを買い、李傕らの反乱を招いて長安を追われてしまう。なおこの時、「英雄記」の記述では呂布と郭汜が一騎討ちを行って、呂布は郭汜を一蹴していることについて触れられている。
呂布は初め、江南に勢力を持つ袁術を頼ろうとしたが、呂布の暴を嫌った袁術に拒絶されたため、その異母兄で冀州を治める袁紹の元に身を寄せた。そこでは黒山賊の討伐に当たって目覚しい働きを見せ、当時騎乗していた赤兎馬と併せて「馬中の赤兎、人中の呂布」と讃えられた。しかし、呂布はこの功績を鼻にかけて好き勝手に狼藉を行うようになったため、袁紹は呂布を疎んじるようになり、それを察知した呂布は冀州を離れることにした。呂布の意趣返しを恐れた袁紹は追撃の軍を出したが、その将兵が呂布の桁外れな武勇を恐れて手を出せなかったため、呂布一党は河内の張楊を頼ってそこへ合流した。
張楊の元へ行く少し前、兗州の名士である張邈に挨拶してひそかに盟約を結んでいた。曹操が徐州攻撃に乗り出すと、いずれ自分が曹操に滅ぼされるのではないかと疑心暗鬼に陥った張邈は陳宮らに唆されるまま、呂布を味方に引き入れて兗州を乗っ取りにかかる。親友とも恃む張邈の心変わりに驚き急遽帰還した曹操は、荀彧や程昱らが堅守した三県を足掛かりに呂布に対抗、旱魃や蝗害の影響もあって不利な戦を強いられる曹操だったが粘り強く対抗し、二年後には呂布を打ち破って兗州を奪還してしまった。呂布は協力者であった張邈・張超兄弟を失い、逃亡して徐州刺史となっていた劉備を頼った。
劉備が袁術討伐に出向いた時、あてがわれていた小沛から下邳城を落として徐州を奪い取ってしまう。呂布が劉備を攻めた切欠については「英雄記」によると袁術に唆されたためだとされる。呂布はその時の袁術からの見返りを期待していたが、袁術がそれをすっぽかしたことで劉備を迎え入れた。そして仕返しとばかりに袁術の軍が劉備の居る小沛に攻め寄せてくると、呂布は両者の間に立って和議を締結させた。その際呂布は、袁術軍の総大将であった紀霊に対し、呂布自身が宴席から陣門にかけてある戟を射って、それに矢が当たれば和議を結ぶように諭したが、呂布は見事にそれをやってのけたため、紀霊は渋々軍を引き上げたという。
袁術はなんとしても呂布と手を結ぼうとしたが、呂布は陳珪・陳登父子の意見を容れて曹操に味方し、呂布のとった態度に激怒した袁術が送り込んできた大軍も撃退してしまった。呂布は正式な徐州刺史になりたいことから曹操に味方していたのだが、陳登は呂布が勝手に徐州に居座ったことを快く思っておらず、呂布の要求を聞き入れないどころか、密かに呂布討伐の手立てを整えていた。こうした状況から呂布は再び曹操に背き、小沛の劉備を攻撃したため、曹操は呂布討伐を決行する。呂布は袁術に救援を求めたものの、袁術は救援の軍を出そうとはしなかった。呂布は勇猛である反面、無計画で猜疑心が強く、配下の将軍を信頼していたものの、その将軍たちの呂布に対する気持ちが食い違っていたために結局候成らの離反を招き、捕殺されてしまった。一九八年のことである。
呂布伝によれば捕縛された呂布は曹操に対し「あなたが歩兵を、私が騎兵を率いれば天下を平定するにわけはない」と取りすがり、曹操は躊躇ったものの、劉備が「丁原と董卓がどうなったかお忘れか」と諌めた。呂布は劉備を指して「その男こそ一番信用ならないのだぞ」と絶叫したが、曹操は聞き入れることなく呂布を縊り殺させたという。
-狐野郎が曰く-
呂布と言われて真っ先に思いつくのが「三国志最強最悪の変節漢」というイメージだろうか。一個の武人としても最強であると同時に、気づいたらケツまくって次の主に仕えているくらいには信用ならないというそんな人物像を思い浮かべる人も多いだろう。セットで語られるうち赤兎に関しては別に董卓からもらったわけではない(らしい)もののその名は正史にも見え、一方で演義で語られる方天戟は三国志の時代に存在する武器ではなく、青竜偃月刀ともども演義の成立した明代の武器である。その武力一つを恃みに方々を渡り歩き、歩んだ道程は血生臭い謀略と裏切りの中にあったとはいえ、一方で京劇の主役にも抜擢され、演義で王允の姪として登場するオリジナルヒロイン・貂蝉との悲恋を描いた物語も多い。ただの強力無双の変節漢とは言い切れない何かをもっており、なんだかんだで一言では語れない人物であるといえよう。
その出身地は現在でいえば内モンゴル自治区にあたり、それ故か元々は匈奴の血を引いていたのではないかという説もある。匈奴、すなわち呂布の前には冒頓というカリスマを生み出し、そのはるか後にチンギス・ハーンという怪物を生み出したモンゴル族の中で呂布は中途半端に漢化し、それ故に「強さ」を第一義としてその暴威を揮いながら、結局は中華の枠組みの中に当てはまることができずに死んでいった、そんな哀れな「異邦人の戦士」…そう解釈すれば、呂布があれほどまでにあっさりとそれまでの主を裏切ってきたことも分からなくもない。というか、呂布にしてみれば「弱い奴を見捨てて強い奴についていく」という匈奴的な思考でそうしたのにすぎず、「裏切り」という感覚そのものがなかったのかもしれない。「蒼天航路」で描かれる「純粋戦士」呂布の姿を見ているとより一層そう思うし、存外実像はああいう男だったのかもしれない。だが、あるいは曹操であれば、この破壊的な台風のような男を使いこなすことができたのではないか…いやどうだろうなあ。陳寿なんて「こんな奴が一身を誤り滅びなかった前例はない」って一蹴してるような奴だしなあ。
学三呂布は基本的には「蒼天航路」に寄っており、デザインもそれに準拠している。流石にあんなどもってはないだろうが、例えば「ウマ娘シンデレラグレイ」のオグリキャップみたいな、己の強さを何よりも信じるストイックさと純粋さ、そして普段は天然マイペースというそんな人物像が一番しっくりくるのかもしれない。なんか可愛いもの好きだって設定もあるみたいだし。そうするとベルノライトが陳宮になるのか?案外当たらずとも遠からずなのかもしれないなあ。