解説 陸瑁
-学三設定-
長湖生徒会公式記録に寄れば、長湖生徒会の重鎮陸遜の年子の妹とされる。長く学園都市を離れていたが、たまたま学園都市に帰還して学籍を得た縁で、半年ほどの短い期間を目処に幹部会の「賓客」として運営に参与したと記録にある。
ところがその人物像や前歴はほとんど明らかになっておらず、妹に当たるはずの陸抗もこの姉については余り詳しいことを知らないどころか、のちに「そんな人いたっけ?」と首をかしげ(て陸凱にたしなめられ)る有様であり、その正体は完全に謎である。確かなことは非常に優れた組織運営手腕の持ち主であり、部の運営に参画したわずかな期間で、当時山積していた様々な外交問題や内政問題の問題点を正し、当時の幹部会でも欠かせないアドバイザーとして三面六臂の活躍ぶりを示していることである。人物を見る目も確かで、才能がありながらもその時期を得ずにいた少女達が世に出るように取り計らったり、また逆に、大した才能がないのに大人物であるかのように振舞う者の正体を見破り失脚させるなどの逸話も多い。
結局彼女は「二宮事変」の直前ごろ、階級章を返上し幹部会から惜しまれつつ学園都市を去っていった。その正体について調査を試みた学園史家も少なからずいたが、結局確証の得られるところまでこぎつけたものはいない。しかし、かつて孫権の勘気を買って放逐された、ある名族の娘と顔立ちと立ち振舞いが瓜二つであるという指摘もあり、その点を含めて学園史の謎の一つとなっている。
-史実・演義等-
陸瑁 ?~二三九
字は子璋、呉郡呉の人。陸遜の弟である。
若いころから学問を好み、また義に篤く、才能も志もあったが後ろ盾もなく、貧しい境遇にいた人物が彼の元に多く身を寄せていたが、陸瑁も快く彼らを受け入れて物を分け合い、苦楽をともにしたという。直接の面識がなかった呉郡の徐原、あるいは陸瑁の従兄弟に当たる陸績が亡くなると、陸瑁は彼らの子供たちを引き取って養育して一人立ち出来るまで面倒を見た他、後年呉の丞相となる濮陽興の父濮陽逸もその援助を受けていたとされる。一方で陸瑁自身は長く州郡の推挙に応じずにいたが、嘉禾元(二三二)年、朝廷から直々に馬車で迎えられると、陸瑁は議郎・選曹尚書の官職について孫権の側近となった。
それより少し前の事、彼は同郷の曁艶が大々的な人物批評を行い、それを元にして勝手に群臣の格付けを行っていることを知ると、それを諌める手紙を送っている。曁艶はこの意見を聞き入れなかったため失脚している。また呉郡の聞人敏という人物が都で話題の的になり、しっかりとした素養のある人物以上の評価をされていたことすらあったが、陸瑁はそれをたいした人物ではないと考えていた。果たして、陸瑁が考えた通り、聞人敏はやがて馬脚を現したという。これらのことから、相当な人物鑑定眼を持っていた人物である事が伺える。
出仕して間もなく、遼東の公孫淵が背信したことに激怒した孫権が遼東遠征に乗り出そうとすると、陸瑁は上訴して諌め、取りやめさせようとした。孫権は一度はその上訴を退けたものの、重ねて上訴された表文を見ると、その言葉と道理がもっともであることを認め、遠征計画を取りやめたという。
赤烏二(二三九)年死去。彼の次男陸喜、孫に当たる陸曄、陸玩などは皆、晋の時代に高官に昇進し、名声を得たという。
-狐野郎が曰く-
陸遜自身が派手な活躍をしていた以上に、そもそも陸遜に弟がいたということを知らない方も多かろう。そもそも狐野郎も正史を読むまで知らなかったぐらいである。しかも伝は兄と別にありながら、兄の伝にはほぼその存在について触れられていない。兄弟の字もその順目に従って伯(庶子であれば孟)、仲、叔、季と付くところ、陸遜兄弟の場合兄だけはそれに当てはまって弟はそれを無視しているのもわからないところだ。他にそんな兄弟いないしな(曹操の息子達や諸葛兄弟はもうその法則に最初から当てはまっていないが)。もしかすると、本当は従兄弟とかで直接血のつながりはなかったのやも知れぬと一瞬思えば、系譜ではちゃんと兄弟なんだよな。どういうことなのやら。
そして何より、この弟何したのかマジではっきりしていることは少ない。どうして虞翻とかと同類として纏められているのかすらわからぬレベルで、語るべきことすらも少ない。立伝までされておいて謎過ぎるというのもアレだが、狐野郎のキャラ設定でもその辺をダイレクトに反映している感は否めぬ。この件についてはSSで種明かしできればと思うのだが…ここではとある人物と、似たような外見である事にもそれなりに意味はある、とだけ述べるに留めよう。