解説 関靖


-学三設定-

公孫瓉の取り巻きの一人。
劉備とは別の妹分的な存在で、あるとき烏丸のチーマーに絡まれていたのを偶々公孫瓉に助けられ、世話になったからと無理やりくっついてきたのが何時の間にか「白馬義従」のマスコットみたいなポジションに収まっていた。
多少悪知恵が働く程度で「軍師」というにはあまりにも能力不足だがカンが妙に鋭いらしく、やることは適当だがフィーリング的な何かが合ったのか公孫瓉はこの「舌っ足らずで何処か間の抜けた参謀」をよく可愛がった。しかしその最後の戦いで、公孫瓉は自ら「白馬義従」を率いて北平棟と連携し袁紹軍に対抗するプランを取ろうとしたのを「タイショー(公孫瓉)はアジトでどっかりと構えてなきゃダメ!」と反論して取りやめさせ、結果的に籠城戦で逃げ道を失うことになってしまったことを後悔し「あたいのせいでタイショーはうまく戦えなかった。あたいはその責任を取らなきゃいけないんだ」と単身寄せ手の大軍勢に突撃を敢行。その後の行方ははっきりしていないが、成り行き上その戦いでリタイアしたことは間違いないとされる一方、その後ある剣士の傍らで最後まで共に戦った「副将」の背格好や口調が関靖と似ていることから同一人物ではないかと言われることも。


-史実・演義等-

関靖 ?~一九九
字は士起、太原郡の人。
公孫瓉の長吏として仕えたその側近の一人。「英雄記」の記述では厳罰主義で政治を行う官吏であり、公孫瓉に媚びへつらうばかりで長期的な計策を有してなかったとされるが、公孫瓉にいたく気に入られ、絶大な信任を得ていたという。
公孫瓉が劉虞を滅ぼし幽州に勢力基盤を築くも、華北の制覇を狙う袁紹の猛攻には耐えきれず、公孫瓉は本拠地である易京に築いた大城砦(演義では「易京楼」とあるが、正史にその名は見出せない)の中に篭城し、袁紹軍の疲労と、同盟関係にあった張燕率いる黒山軍の参戦を待つこととなった。公孫瓉は息子を使者に立てて張燕の救援を求めるとともに、自ら騎兵を率いて黒山軍と合流し、袁紹の背後を衝こうと考えたが、この時関靖は「現在の我が軍は総崩れに近い状態です。この時に軍の支えとなっているあなたが此処を離れれば、忽ち易京は危難に曝され、あなたは本拠を失うことになるやも知れません」と諌め、あくまで篭城するべきと主張した。公孫瓉はその言葉を容れたものの、最終的には黒山軍へ送った密使が袁紹軍の虜となり、そのことがきっかけで易京の大城砦もろとも滅びの道を歩むこととなった。
「漢晋春秋」によれば関靖は「君子は、他人を危難に陥れてしまったならば、必ずその人と命運を共にすると聞く。ならば、何故私だけ生き延びられようか」と述べ、単騎袁紹軍に突入して壮烈な戦死を遂げたという。


-狐野郎が曰く-

個人的にではあるが、人間の評価というものはその最期で大きく左右されるのではないかと思う。虎は死して皮を残し、人は死して名を残すという言葉もあるが、その「名」が悪名であるか否かの分水嶺がその死に際にあるとすれば、関靖はまさしくその死に際を誤らなかった人物と言えよう。確かに実際は公孫瓉みたいなトンチキ野郎の腰巾着ではあったのだろうが、自分の献策が大ハズレになって主君を滅びに導いたことを恥じ、玉砕して果てることを選んだということは立派な行いである。どこぞの郭図なら、間違いなく易京陥落と共にトンズラこいているんじゃないだろうか。
ドマイナーといえばドマイナーな存在ではあるが、それ故なのか二〇〇六年の「旭日祭」企画では何故か東州兵(楊懐だの高沛だの冷包だのといったあの連中だな)と共にクローズアップされていたりする。元々公孫瓉というか白馬義従メインで作品書いてる人もいたと思うので、恐らくその関連であると思うのだが、単純に祭りに乗り遅れた狐野郎は「じゃあデザインないし描くわ」みたいなノリで関靖を取り上げて何も反応がなく終わったというオチがついた。
当初デザインの元ネタらしい元ネタは存在せず、結果陳矯亜種みたいな代物に描きあがっていたのだが、今回は大幅に改変を加えてこういう風体になった。見る人によっては一発で分かるかもしれないしそうには見えないかもしれないが、モチーフはチルノである。チルノに軍師なんてできるかと言われたら大いに否であるが()、これ実は審配と因縁を持たせたかったというのもあるのよね。サイト整理が終わったらそっちの方も少し話を書いていきたいと思うのだが、さて。