解説 馬超


-学三設定-

学園都市内で特に陸上選手としての有望株が集う涼州校区において、董卓と双璧を成す顔役である馬騰の妹。その従妹まで含めてランナー一家として知られる馬一門の中でも馬超の走力は桁外れており、手を抜いて走ってすら国体のジュニア記録タイムを幾度も更新するほどで、本気を出して走れば「スタートから3ハロンまでであれば、並みのスプリント馬より馬超の方がもしかしたら速い」とまで言われるほど。武術の経験は全くないが、鍛え抜かれた肉体と天性のスピードが加われば、その一撃は大型二輪の衝突にも等しい威力を生み出すため、誰も彼女に喧嘩を売ろうというものはいない。
プライドの高い天才肌で、兎に角「速さ」であれば誰にも負けないと豪語する。そしてルックスもいいことから西羌高校など周辺男子校に公認のファンクラブ(当人も一応認知してはいるが、操り人形の盟主にしようと目論んでいる韓遂が首謀者)が存在し、人気も高い。馬騰は韓遂と元々組んで中央に反抗を繰り返していたが、やがて韓遂の本当の目論見に気づいたとき、抑止力となるべく曹操に招かれる形で中央執行部に参加した。ところが韓遂は馬騰不在の隙をついて馬超を担ぎ上げ、その気になった馬超は反曹操のスローガンを掲げる盟主として涼州で大反乱を巻き起こした。最早調子に乗りまくった妹を止められないと悟った馬騰は罪人として階級章を返上したが何の解決にもならず、関中閥と蒼天会の戦いは泥沼の様相を呈するも、賈詡の偽メール作戦により関中閥は空中分解。馬超はそれでも涼州で暴れまわるが、楊阜達の逆襲によって益州の地へ追いやられた。
最初張魯を頼るも張魯一派の「末香臭いお題目」に辟易した馬超はそこすらも出奔。行くアテも目的も失った馬超は劉備と出会うこととなり、帰宅部連合に参加する。安住の地を得た馬超はそのデタラメな速度をもって漢中アスレチックの要衝を次々に陥落させ、やがて帰宅部の「五虎」の一角を占めるまでになった。
劉備が夷陵回廊戦に臨むころ、復讐心を滾らせる劉備の姿に何か思うところあったのか、中立を保ちその行く末を静観。有事に備えて西羌や南蛮などの周辺校に帰宅部連合への協力を呼び掛けて回ることを最後の仕事として、静かに引退した。


-史実・演義等-

馬超 一七四~二二二
字は孟起、涼州扶風郡茂陵県の人。
父の馬騰は前漢の伏波将軍馬援の子孫で、一説には趙末期の名将趙奢の末裔ともいわれる。馬騰は韓遂と組んで、当時の朝廷が士人や民をかえりみないことに憤激して度々反乱を起こしたが、当初は義兄弟の契りを結んでいた韓遂と経緯不明のまま仲違いし、長いこと相争うこととなった。一九五年頃に司隷校尉の鐘繇が関中の抑えとして赴任し彼らを仲裁すると、馬騰は馬超を鐘繇の元へ送り、鐘繇と共に平陽県を荒らし回っていた高幹・郭援の軍を討伐させた。馬騰はその後再び韓遂との関係が拗れたため都へ行くことを希望し、二〇八年に衛尉に任じられ朝政に携わることとなった。馬騰が洛陽に招聘されると、当時三十三歳だった長男の馬超がその軍団を統率した。
馬超はそれから間もなく韓遂と組み、さらには関中軍閥を味方につけて大々的な反乱を起こした。二一一年の事で、後に「渭水の戦い」と呼ばれるこの戦いで曹操は、最初潼関で馬超を迎え撃つものの、馬超率いる関中連合軍の猛攻の前に曹操自身があと一歩のところで討ち取られるところという程の劣勢を強いられた。曹操はことのほか彼を恐れ「こいつが滅ぼされない限りはわしの埋葬される土地すらない」とまで言った程で、翌年、父の馬騰を始めとして、都にいた馬超の一族郎党は馬超が反乱の盟主となっていた罪によりことごとく処刑された。
この戦いは結局賈詡が仕掛けた「偽手紙」の計略で関中軍閥連合の諸将は猜疑しあうようになり、連携が取れなくなったことで瓦解し総崩れとなった。ただし「山陽公載記」には、最初曹操軍が黄河の西岸に渡河する算段を立てているという情報を得た馬超は「渭水の北でこれを防ぐべきだ。そうすれば二十日を待たずして敵の兵糧は尽きる」と提案するも、韓遂は「やりたいようにさせておけ」と聞く耳を持たなかったといい、そもそも両者の方針がかみ合ってなかったことを伺わせる。また、最初曹操は馬超・韓遂と単騎で会談を持ちかけた際、馬超は不意を突いて曹操を捕縛しようと目論んでいたが、許褚が曹操の傍にあって常に目を光らせていたため手出しができず、ただ「公(曹操)には虎侯というものが居るそうだが、どなたを指しているのかね」と問いかけたのみだった。曹操もその意図を察したのか、傍らの許褚を指し示したという話が許褚伝にある。
敗れた馬超は逃走し、周辺の騎馬民族などを味方につけて再度軍を起こして、冀城を陥落させると涼州刺史韋康を殺害し、その配下の楊阜らを自分の傘下に置いた。ところが楊阜はこれを良しとせず、姜叙・梁寛・趙衢らと共謀して馬超を冀城から締め出し、馬超は漢中の張魯を頼って逃走した。しかし馬超と張魯は反りが合わず、劉備が成都城を包囲するとその元に赴いて劉備に臣従を誓った。馬超参戦に恐れおののいた益州太守劉璋は、まもなく城門を開いて劉備に降伏。劉備は益州を平定すると馬超を都亭候に封じ、平西将軍に任じた。
劉備が漢中王となると、馬超は左将軍とし、仮節を与えた。二二一年、馬超は驃騎将軍に任じられたが、翌年四十七歳で世を去った。死に臨んで馬超は「私の一族二百名余りは、すべて曹孟徳の手により誅殺されてしまいました。今や、その生き残りは従兄弟の馬岱一人を残すのみです。彼の行く末を、どうかよろしくお願いいたします」と上表したという。ちなみに妾である董氏とその子馬秋は入蜀の際張魯の元に残されていたが、馬秋は張魯に殺され、董氏は張魯配下である閻圃に与えられてしまっているが、入蜀後に馬承という子を得ている他、娘もいて劉備の子劉理の妻になっている。。
余談だが「山陽公載記」にはこのような話もある。蜀を平定して間もない頃、劉備は馬超をとても手厚く待遇し、気を許した馬超は劉備を字で呼ぶようになった。しかし劉備挙兵から苦楽を共にしてきた関羽と張飛にとっては面白くない話であるのも当然で、ふたりは隙あらば馬超を斬り殺そうとし、ある会議の際に獲物をもって劉備の傍らに屹立している二人の姿を見た馬超は驚いて、己の行動に誤りがあったことを悟り、以後は劉備に対して誠心誠意仕える様になったという。この件に関して裴松之は、当時荊州の守りにあった関羽が劉備の傍にいるということ自体おかしいと述べたうえで「この話に限らず楽資(「山陽公載記」の著者)の記述は穢雑で虚偽誤謬に満ちている」と批判している。また関羽は馬超が帰順してきたことを知って諸葛亮に「馬超の人物は誰に比肩するか」と手紙で問い合わせてきたが、関羽が士人に対して横柄でなおかつ負けず嫌いであることを知っていた諸葛亮は「張飛には対抗できましょうが、ひげ殿(関羽)の傑出ぶりには及びますまい」と返書し、喜んだ関羽がその返書を他の者に見せびらかしたというエピソードが関羽伝にある。


-狐野郎が曰く-

演義ではその荒々しくも凛々しい若武者振りから「錦馬超」という呼び名で登場した西涼の暴れん坊。演義と正史で反乱の軍を上げた経緯が大きく異なり、演義では「曹操誅殺計画が明るみに出たことで処刑された、父や弟たちの仇討ち」という非常にわかりやすい理由付けがされているのだが、正史によれば馬超が挙兵したとき、馬騰は生きているどころか普通に出仕していて落ち度らしい落ち度があったわけでもない。無論、曹操を誅殺しようという謀議があったことは事実であるものの、それに馬騰が加担していた経緯もない。じゃあこの暴れん坊、なんで反乱なんぞ起こしたんだ…?馬騰も韓遂じじいと組んで悪さばかりしていたが、別に馬超は親子喧嘩していたわけでもなさそうだし、じじいに唆されたからといってあっさりと家族を切り捨てに行くかもよくわからん。少なくとも鬱陶しいくらい「正義」を連呼する「三国無双」のキャラクター像は史実の姿からはもっとも遠い気がする事は確かだ。さらに演義では史実より四年も長生きしているが、実際は夷陵の戦いの直前ぐらいにひっそりと亡くなっている。実際演義でも正史でも、漢中平定後は特に何もしていないしな。
他媒体の馬超というと他には「三国志大戦」のSR馬超のイラストを手がけてるのが「影技(シャドウスキル)」や「聖闘士星矢 episode G」の作者岡田芽武=センセイで、同じく岡田センセ画のUC姜維共々「白銀聖闘士」呼ばわりされているとか、いないとか。前者は本当にそのまま(岡田版)聖闘士星矢に聖闘士としてしれっと登場しててもまるで違和感がない。というか実際こういうキャラ、岡田作品に結構いる気すらするし。
さて学三版だが、これでもエリートというかお嬢様気質の持ち主らしく、コンディションとテンションで能力が乱高下するタイプであるらしい。実は涼州校区の連中、なんとあの董卓すら含めて一流のアスリート集団とかいう裏設定があるらしく、最強のスプリントランナーが馬超なのだそうだ。プライドの高いスプリンター…見た目はちょっと似てるけど、どっかのバクシンオーとは方向性が違うとは思う。いや思いたい。というかこいつだけ明確に戦闘能力がどうとかっていう設定がされてないんだが、その辺はどうなんだろう。