解説 黄忠


-学三設定-

帰宅部連合の誇る五人の猛将「五虎」の最年長。
元々は荊州校区総代劉表に従っており、一世代前に活躍した「飛将」李広に匹敵する正確無比な射撃術と、柔道を中心とした多くの武道に通じた女傑として、劉表の従妹である劉磐の下で部隊長に就けられていた。特別成績が悪いということもなかったが、弓術と武道に明け暮れていたこと、また多くのプロチームからも招聘を受けるなどで、大きな大会への出場やそのトレーニング合宿などにより出席日数が稼げず、結果として高等部一年時点で三留することになってしまった。
そんなこんなでこれまで滞りがちだった学業を重視する名目で、黄忠が課外活動に本腰を入れる頃には劉表勢力も瓦解している状態で、便宜上長沙棟長韓玄の預かりになっていた彼女は、その地の接収に赴いてきていた関羽と対峙することとなる。棟を接収する条件戦の妨害・直接攻撃何でもアリのトライアスロン勝負で整備不良から彼女のMTBはブレーキが壊れ横転したが、フェアな勝負を望む関羽は長沙サイドが車両交換するまで勝負の停止を申し入れる。そのインターバル中に韓玄は「なぜ射撃で速攻勝負をつけない?」と黄忠を詰るが、関羽のフェアプレー精神を受けて正々堂々と勝負したかった黄忠は、妨害工作に出た味方を射撃するという行動に出た。これに激怒した韓玄は黄忠を裏切り者として捕縛しようとしたが、韓玄はキレた魏延にぶちのめされ、勝負は有耶無耶のまま長沙棟は劉備の指揮下に入った。黄忠は旧主に義理立てし引退を決意するが、劉備の説得を受けてこの年の冬まで帰宅部連合への協力を承諾した。
その後益州攻略戦、漢中アスレチック争奪戦の学園無双では主要な猛将として活躍。帰宅部連合の誇る五名の猛将「五虎」に数えられるまでになった彼女は、漢中アスレチック攻略戦において、弓道大会でもライバルとして幾度となく鎬を削り同じく三留仲間であった厳顔と組んで張郃を返り討ちにし、そして夏侯淵を上回る射撃術でそれを圧倒し撃破する大活躍をするも、劉備との約束通りこの戦いをもって課外活動に終止符を打ち、惜しまれながらも課外活動を引退した。
上げた功績が非常に大きいことから、劉備が漢中の君に就任した際に四大主将の地位を追贈されたが、あくまで協力者に過ぎない挙句引退した黄忠と同格にされたことに関羽が不満を漏らし、叙任を伝える使者を務めた費詩にたしなめられるという一幕もあった。
後の講談では、夷陵回廊戦の前哨戦で劉備のちょっとした一言にカチンときた黄忠が、潘璋の軍団に単騎突撃して敗走させるも自身も大怪我を折ってリタイアするという展開が何故か加えられているが、何故そのようなことが言われるようになったのかその経緯は完全に不明である。


-史実・演義等-

黄忠 ?~二二〇
字は漢升、南陽郡の人。
荊州牧劉表は黄忠を中郎将に任じ、甥で武勇に優れた劉磐の配下において長沙を守らせた。劉表死後、荊州は曹操の領有となったが、その際に黄忠も官職につけられ、長沙太守韓玄の統制下に置いた。劉備が荊南四郡を手中に収めると、黄忠は劉備に臣従し、蜀攻略にも従軍した。黄忠は常に先陣を駆け、その勇猛さは三軍の筆頭といわれた。
二一九年の漢中攻略に出陣した際、定軍山に立て篭もる夏侯淵を斬って捨てる大功を立てた。夏侯淵の軍は精悍で勇猛であったが、黄忠は一歩も引くことなく全軍を励まし、軍鼓は天を震わせ、ときの声は谷をも揺り動かさんほどの士気の高さを見せつけたという。
劉備は漢中王の座に就くと、黄忠を後将軍に任命した。関羽伝によれば、この時前将軍となった関羽にそのことを伝えた費詩へ、関羽が「(この時左将軍に任じられた)馬超はまだ名門の出身だからいいとしても、あのような老いぼれも私と同格とは何事か」と不満を述べて費詩に窘められた話がある(演義ではこの時馬超も「新参者」と不平の的になっている)。諸葛亮もこの人事に「黄忠の名声は関羽や馬超に比べてはるかに低く、古参の諸将(主に関羽を指していたと思われる)から不満が出るのではありませんか」と諌めたが、劉備は「(関羽には)私から説明しよう」と答え、加えて黄忠に関内候の爵位を与えた。このことは、劉備が新参の武将であっても、功績を立てればそれに見合った位を与えるというアピールの意味があった、と指摘する人も居る。
黄忠はその翌年世を去り、のちに剛候の諡号を受けた。その息子黄叙は早世しており、他に血縁の者もなく、彼の血筋はそこで絶えてしまった。
黄忠は現代においても、特に中国で「老いてますますさかんな人」という例えにされるように「老将」のイメージで語られることが多い。民話ではさらに「弓の達者な老将軍」として語り継がれており、そうした「老将」黄忠のイメージはそのまま演義に取り込まれている。故に正史より演義の黄忠の方がより多くのエピソードがある為、併せて解説する。
劉備の荊州四郡奪取の最終局面、長沙太守韓玄最強の老将として登場、御年六十にして関羽と互角に一騎打ちを演じて関羽を驚かせている。この時黄忠の乗っていた馬が前脚を折って落馬したが、関羽は「馬を換えられよ」と青竜刀を収め、韓玄に関羽を射殺すように叱責されるも、黄忠は関羽の頭巾のもんどり部分を正確に射抜いて借りを返すという行動に出た。韓玄は黄忠の行動に「謀反の合図に違いない」と激怒して拘禁し、そのことに怒った魏延に殺されたが、黄忠は門を閉ざして引きこもってしまう。関羽から黄忠の事を聞いた劉備は、黄忠の元を訪ねて自ら説得に当たり、配下に引き入れている。
その後、蜀攻略の主要な将として活躍したことは正史と変わりないが、漢中攻略戦では同じく弓の巧みな蜀の老将軍厳顔と組んで、張飛との戦いで敗れ引くに引けなくなった張郃と対峙する。張郃だけでなく味方の呉蘭らからも「年寄り」と眉を顰められていることに不満を抱いた老将軍コンビは、張郃に対してわざと敗北を繰り返して自陣深くまで誘い込むと、その警戒が緩んだ局面を見極めて散々に打ち破り、味方の諸将からも舌を巻かれるほどの苛烈な追撃戦を仕掛けて多くの軍需品を鹵獲するという大戦果を挙げる。そして定軍山では法正と組んで、夏侯淵の陣よりも高地に陣取ってその苛立ちを誘い、焦れて討って出てきた夏侯淵の軍を包囲殲滅するとともに黄忠は夏侯淵を出会い頭に切って捨てた。
そして劉備が関羽・張飛の仇を討つため呉へ出兵したときにも随行。猛将甘寧を戦死させるなど大戦果を挙げての祝宴の際劉備はうっかり「我が方の名将たちは皆老いてしまい、戦場に立てる者が少なくなってしまった」と漏らしてしまい、それを聞きつけた黄忠は周囲の制止を振り切って潘璋軍に単騎で切り込む。思いがけぬ奇襲に潘璋軍は大損害を被るも、黄忠も全身に深手を負い、自分の不注意な言葉で黄忠に無茶をさせてしまったと嘆く劉備に看取られて七十五年の生涯を閉じた。


-狐野郎が曰く-

三国志及びそれを題材にした作品の中で「最強のジジイ」と言われることもある黄忠だが、正史においてわかっていることは非常に少ない。演義で語られているようなヤバイ級な弓術のワザマエに関しては勿論の事、ある意味アイデンティティともいえる「老将」であったかどうかすらも不明なのである。ただ後者に関しては関羽が「老兵」呼ばわりしている(それを言った時点でこのヒゲ野郎も「ジジイ」と呼んで差支えない年齢だったはずだが…)ことは蜀書費詩伝に記述があり、それなりの年齢であったとは言えなくもない。ついでに言えば黄忠が弓のタツジン級であることは民間伝承によるものらしく、こちらは蜀書黄忠伝で「(黄忠が)夏侯淵を斬った」と明記されている事からきているのではないだろうか。何しろ夏侯淵といえば、神速とも言える行軍速度と共に、こちらは正史でヤバイ級の弓術のワザマエを有していたことが記されているわけで、じゃあ黄忠の方が弓のワザマエも上だろう、というのがそのうち「黄忠は弓術のタツジン級」という話に醸成されていったものであることは想像に難くない。
兎に角演義の黄忠は「蜀漢のスーパージジイ」という勢いで登場するたびに大活躍。「老いぼれ」「御老体」と言われれば即座に起爆し、ただでさえ張飛にトラウマを植え付けられていた張郃に追加でトラウマをぶち込んでるどころか、その勢いで一太刀の切り結びすら許さず出会い頭に夏侯淵を真っ二つ。世界で最も怒らせてはいけないジジイである。演義では年齢には勝てず、最期は潘璋軍を単騎で壊滅させるも瀕死の重傷を負って帰らぬ人となるのだが、この時図らずも黄忠を焚き付け無茶をさせてしまったことを悲しむ劉備に看取られて生涯を終えるという、まるで関羽張飛の立場がないようなVIP級の扱いである。ちなみに正史ではその二年も前にひっそりと亡くなっているし、演義では戦死したときに七十五歳とか書いてあったんだけど、その数字もいったいどこから出てきたんだろうな。
学三に限らず、例えば「一騎当千」や「恋姫†無双」などの媒体でも概ね他キャラより一世代前ぐらいなポジション(恋姫だと普通に幼稚園児ぐらいの娘もいるしな)なので、学三ではこのあたりどうなのかというとまさかの「登場時点で三留」という扱い。当然BBAおばさん扱いもよくされるし、その射撃のワザマエも健在であることから「蒼天学園のゴルゴ13」なんて呼ばれているとか、いないとか。ついでにデザインに関しては言及されていないのだが、この外見から連想できる中では「Kanon」の天野美汐が非常に近いのは気のせいだろうか。作中でも主人公から「おばさんくさい」と言われてたキャラだしな。