解説 太史慈


-学三設定-

青州校区を本願とする、元は蒼天会弓道部に特待生として招かれた弓の名手。
弓だけでなく古武道にも通じており、また武勇一辺倒ではなく学問も出来、尚且つ入学当初の青州校区内でのいざこざを生徒会での解決に委ねた際には、相手側の訴状をペテンにかけて破り捨てて自分の託された訴状だけを通すというスタンドプレーをやってのけるなど機転も利く。しかしそのため時の青州総代に目をつけられた彼女は、ほとぼりが冷めるまで遼東キャンプで自主トレをしながら過ごすことになった。しかしながら青州校区の顔役でもあった名士孔融は、筋の通らぬ総代の意見ではなく棟側の意見を通させた太史慈の行動を高く評価しており、その行動が罪にならないように八方手を尽くした。後に孔融が北海棟で黄巾党の残党に囲まれて窮地に陥った際、太史慈は自分が罪に問われないよう取りはからってくれた恩義に報いるため、当時平原棟長代行だった劉備への救援要請をやってのけ、これらの活躍で、彼女の名は学園内に知れ渡ることとなった。
その紆余曲折あって弓道部を離れて湖東に活動の場所を移したが、孔融の紹介で身を寄せた校区総代の劉繇とは折り合いが悪かった。劉繇は太史慈が青州問題の訴状の件を知っていたのもあって太史慈を疎ましく思っていたが、それでも太史慈は孔融の顔を立てる意味で劉繇には忠実に従い、孫策の侵攻に対しても孤軍奮闘。偵察に出た際に偶々単独行動していた孫策とのタイマン勝負まで行うが決着は付かず、だがその一戦で互いを認め合ったことで、更に劉繇から疎まれることとなる。
劉繇が追われると、太史慈は密かに自分を評価してくれていた僅かな者達と共に最後まで孫策に抵抗するも、敗れて長湖部の一員となった。その際、太史慈の提案を受けた孫策により、周囲の猜疑の視線の中で一旦は解放されるが、宣言通り散り散りになった劉繇麾下の名将や優れた実働部隊構成員を集めて戻ってきたことでその信義を称えられた。
孫策が不慮の事故で引退を余儀なくされると、引き続き孫権の元で長湖部幹部として重きを成し、劉表勢力に対して睨みを利かせ続けた。赤壁島決戦を前にして、卒業を控えていた彼女はインフルエンザのために戦いには参戦できず、そのまま階級章を返上しひっそりと引退した。
一説には彼女は赤壁島決戦に参加し、引き続いて卒業直前に発生した第一次合肥争奪戦で張遼の策に陥ってリタイアしたとも伝わっている。


-史実・演義等-

太史慈 一六六~二〇六
字は子義、青州東莱郡黄県の人。若い頃から学問を好み、やがて東莱郡役所の奏曹史(文書の上奏を司る役職)となった。
太史慈が二十一歳になったある日のこと、郡(東莱郡)と州(青州)の役所の間にいさかいがあり、結局話し合いでは解決しなかったため、漢の朝廷に上奏して裁判で決着をつけることとなった。当時は最初に提出された訴状の内容が重く扱われることもあって、州役所では先んじて上奏の使者を送り出していたため、郡太守は遅れを取らぬよう太史慈を使者として選抜。太史慈は昼夜兼行で都(洛陽)への旅路を急いだ。太史慈が洛陽に到着すると、丁度州の役人が取次ぎに出ているところへ出くわしたので、何食わぬ顔でその役人に近づき、役人は太史慈が郡の使者であることを知らぬまま、その言われるがままに上奏文の内容を確かめようとしたが、太史慈はそれを奪い取って破り捨ててしまった。太史慈は混乱する役人を言いくるめて、ともに逃亡するように仕向けたが、途中でその役人と別れて洛陽に引き返し、持参した郡の上奏文を提出することが出来た。このことにより州役所の恨みを買った太史慈は、その災いを避けるため遼東へ身を隠した。
この話を聞きつけた北海国の相孔融に招かれた彼は、黄巾賊の討伐のための救援を求める使者を頼まれることとなったが、太史慈は賊軍の包囲が厚い事を知り一計を案じた。先ず彼は従者を従えて城門を出ると、それを訝った賊軍の目の前で騎射を始めた。そんなことを何日か続けるうちになれきってしまった賊軍の隙を突き、彼はまっすぐ馬を飛ばしてその包囲を抜け出ることが出来た。ちなみにこの時、救援を求めた相手は当時平原の相であった劉備であり、要請を受けた劉備はすぐさま軍を発して北海国を救援している。
後に同郷で揚州刺史となっていた劉繇に招かれ、その傘下に入った。折しもこの頃に孫策が江東攻略を始めており、太史慈が騎射の腕に優れ、また機知にも富んでいる事から、彼を将軍として軍の指揮を任せてはどうかと勧めるものがいた。ところが劉繇は、自分で招いておきながら新参の太史慈に重責を与えることで自分の面子をつぶされると考え、簡単な偵察の役目しか与えなかったという。戦の最中、偵察のため近隣を巡回していた太史慈は偶然単独先行していた孫策と出くわし、孫策に正面から戦いを挑んだ。双方、取っ組み合いながらの激しい戦いは決着がつかず、双方の軍兵がやってきたことにより痛み分けとなった。この「一騎討ち」はいかにも演義の作り話のように見えるが、れっきとした史実であり、演義においても当然ながら序盤の見せ場のひとつである。
やがて劉繇は孫策に敗れ、太史慈は劉繇軍の残党を糾合して抵抗したものの、敗れて捕虜となった。孫策は太史慈を手厚く待遇し、太史慈は劉繇が落ち延びた先で死んだことを知ると、それについていた将兵を安撫する役目を申し出て、六十日の刻限を定めて孫策の元を離れた。孫策の側近達は太史慈の行動を訝ったが、太史慈は約束どおり六十日目に帰還し、孫策を喜ばせた。演義では三日という短い刻限で、孫策に「劉繇麾下は散り散りになってしまいましたが、得がたい将兵がいるので、あなたの軍を強くするためそういう者を三千ほど集めて参ります」と申し出、約束通り三日目の夕刻に三千の精兵を引き連れ戻ってきたという名シーンとなっている。
太史慈は身長190センチにもなる大男で、顔には見事なひげたくわえ、百発百中の弓取りであったという。その弓術の腕前は並外れており、孫策に従って不服従民の征討に赴いた際、その反乱民のひとりが砦の楼閣から孫策たちを馬鹿にするような態度をとったため、孫策の傍に侍していた太史慈はおもむろに矢を射掛けると、その反乱民の腕を見事に射抜いた挙句、矢で楼閣の梁に縫いつけてしまったという。孫策軍の兵士は、その腕前の見事さにはやしたてたという。
やがて呉郡が平定されると、彼は孫策に命じられて対荊州戦線の前線を守る任に就き、孫策から孫権に代替わりしても引き続きその任務に当たったが、在任のまま、建安十一年、四十一歳の若さで世を去った。「呉書」では臨終の際「男児として生を受けながら、天下の覇者とならずに死ぬのか」と嘆いたという。孫権はその死を悼み、彼の息子太史享を取り立て、太史享は後に呉郡太守にまで出世した。
なお演義ではその三年後まで生存し、合肥では張遼の馬飼と兄弟だった自分の部下を利用して、合肥城を混乱させて夜襲を仕掛ける策を提言して実行するも、それを張遼に見破られ討ち死にするという最期を遂げている。



-狐野郎が曰く-

演義や演義ベースのおはなしでは、孫策の快進撃は前半を彩る物語であるが、太史慈の存在は欠かすことのできぬファクターであろう。まさしく孫策のライバル的存在であり、劉繇を筆頭に悪逆非道な為政者達の弱卒をばったばったとなぎ倒す孫策の前に立ちはだかる、剛力無双の若武者…そして、戦いの中でお互いの力を認め合いながらも、最後まで抗った太史慈は孫策の男気に共鳴し、自分も男として真義を示してみせる。何だこれ何処の架空戦記物の名シーン()だよ。しかもこれほとんど(子供の喧嘩じみた取っ組み合いの一騎討ちも含めて)史実だと言うんだから最早何が何だか。ちなみに正史には弓の名手であったことも記されているが、演義では何故かオミットされている。そここそマジでなんでやねん。
面白いことに正史の伝だと劉繇や士燮共々諸侯の列伝になっている。孫策の部下で孫権にも普通に仕えているんだから、甘寧とかと同じ伝じゃダメな理由何だったんだろうか。いや朱治とかと同じ列伝でも良くねえかと思うんだが。この辺は陳寿が何を思ってそういう序列にしたのかわかりにくい所ではある。
学三環境ではほぼ登場している作品がないため、どういうキャラ付けなのかは全く解らぬ。狐野郎はどちらかというと暴走しがちな熱血少女孫策と対照的な無口キャラを考えていたようである。で、こいつもだいぶデザインいじくってるんだけどどういうわけか秋姉妹の姉の方がベースになっている。