解説 朱桓


-学三設定-

蘇州地区で「四家」と呼ばれる名門のひとつ朱氏宗家の娘。同じ蘇州朱氏の朱拠とは従姉妹にあたる。
孫権とは同学年であり、ユースとして早くから長湖部に参画していたが、頭角を顕したのは夷陵回廊戦の少しあとぐらいになる。これまでも各地の棟長を歴任してそれなりの業績を上げていた朱桓は、周泰の後任として濡須総督に抜擢され、折りしも蒼天生徒会の大規模南征に対抗するすることになった。朱桓は大々的な「学園無双」に対しては初陣に近く、それ故引退戦でもある百戦錬磨の名将曹仁のフェイントに見事引っかかり百数十名の寡兵で数千にも及ぶ大軍勢に当たることとなったが、絶体絶命の危地にあってかえって冷静さを取り戻すと「空城の計」で勝手知ったる濡須バリケード内に蒼天生徒会軍を押し込め地の利を生かした奇襲を仕掛けて返り討ちにしてのけた。この功績により朱桓の武名は学園中に鳴り響くこととなる。
後に周魴の偽降作戦を要とする石亭の戦いにおいても主要な主将として活躍し、その勇名を磐石のものとしたが、一方でプライドが高く他人の指図を受けるのを嫌い、学園無双の最中も自分の采配に口を挟まれるとキレるような面があった。曹仁との戦いであったミスもそれに端を発するものであったらしいが、ある時など全琮との口論から部員に半死半生の大怪我を負わせてしまい、謹慎を余儀なくされたこともあった。孫権は時間を置いてから、落ち着いた彼女を優しく諭して復帰戦に送り出したというが、この件から彼女は「湖南の狂犬」と呼ばれ味方からも忌避され、恐れられるようになった。孫権に対しては従順で、知将として優れた献策を行う一方、強力で柔術の心得もあったためひとたびキレた彼女を止めることが困難を極めるからである。しかしながらチームメンバーの面倒見がよく、どんな末端のメンバーに対しても名前と顔は決して忘れなかったこともあり、チームメンバーからは非常に慕われていた。
高等部三年生の夏ごろ、大病を患って治療のため学園を去らねばならなくなったため、後任を妹の朱異に託し、引退。チームメンバーは勿論の事、棟の一般生徒たちも、彼女の威徳を偲んで皆涙したという。


-史実・演義等-

朱桓 一七八~二三九
字は休穆、呉郡呉の人。陸氏、顧氏、蘇州張氏と並ぶ呉の名門の生まれで、後に驃騎将軍となる朱拠の族父にあたる。
孫権が将軍となったころにその幕府に招かれ余姚県令の任に就いたが、丁度その頃余姚では疫病が大流行しており、それに伴う飢饉で穀物などの取引額が高騰していた。朱桓はこの状況を見て取ると、配下の有能な役人達に指示して、炊き出しを行わせたり薬の手配を行って民衆に施した。このことにより士人や民衆は感激し、彼らは喜んで朱桓の命に従うようになった。やがて校尉となり、呉や会稽で軍の編成を命じられた。彼は離散していた兵士達を糾合して瞬く間に万余の軍勢を配下に収め、丹陽などで起こった山越系不服従民の反乱鎮圧に当たった。
その後周泰の後任として濡須督の任務に就いたが、折しも夷陵の戦いの隙を突いて魏の大軍勢が濡須に押し寄せてくる事態になった。朱桓は魏軍の計略にかかって兵士を裂いて別の方面へ向かわせてしまい、手薄になった濡須に曹仁率いる魏軍本隊が押し寄せて来てしまったが、名将曹仁率いる数万にもなる魏軍に対し、濡須に残った五千程度の旗本と共にという状況で、朱桓は旗指物や陣太鼓の鳴りも潜めさせて守りが手薄になったように見せかけて曹仁の軍を誘い込み、奇襲をかけて大いに魏軍を打ち破った。このとき恐慌状態に陥った旗本たちに対し朱桓は「戦いは兵士の多寡に決まるものではない。大軍といえども、相手は疲弊しきり、しかも我々のほうが地の利を得ている。確実に勝てる」と励まし、少し離れた中洲には朱桓とその旗本たちの妻子がいる状況だったのだが、そこを襲った魏軍も散々に打ち破っている。これが演義にもある朱桓の「静寂の陣」と呼ばれるもので、この功績に孫権は喜び、朱桓は奮武将軍・嘉興候の爵位に封じられた。
後に石亭の戦いにも従軍したのだが、その際周魴に騙されたと気付いた曹休が破れかぶれに侵攻の構えを見せると、「今すぐ自分に一万の兵を預けてくだされば、速やかに曹休めを捕らえ、その勢いに乗じて寿春を攻め落とし淮南を切り取って見せましょう。そうすれば、許や洛陽を伺う千載一遇の機会もうかがえます」と献策したが、陸遜と孫権の間には別のプランがあったことから退けられ、実行に移されず終わった。
二二九年、孫権が帝位に就くとこれまでの功績から前将軍に昇進。その後二三七年には魏の廬江主簿呂習が偽降により呉軍を誘い出そうとすると、衛将軍の全琮と共に廬江へ軍を進めるも直前で呂習の偽降が発覚したため軍を引くことになったが、この時朱桓は殿軍を担当し、追撃してくる魏の廬江太守李膺に対して一切の隙を見せることなく撤退戦を乗り切って見せた。
そのとき全琮とともに左右の督軍として三万余の兵を率いたのだが、孫権は別に偏将軍の胡綜に命じてこの戦いに参入させたが、全琮は確たる成果も挙げられていないことから武将達に命じて不意打ちの作戦を提言した。ところが朱桓はそれを承服できず、全琮の元に赴いて言い争いとなり、面倒になったらしい全琮が苦し紛れに「陛下(孫権)が胡綜に指揮を命じられ、その胡綜が勝手に言い出したのだ」と言ってしまうと、朱桓は胡綜を呼びつけ出会い頭に殺すと部下に宣言。慌てた部下の一人が胡綜にそれを告げ、胡綜が逃げ帰ったことを知った朱桓は激怒してその部下を斬り殺し、それを諌めた副官もその場で朱桓に殺されてしまうという事態に発展した。朱桓は気が狂ってしまったということで建業に強制送還させられてしまったが、孫権は彼の功績を惜しんで罪に問わず、やがて孫権は彼に五万の兵を預け、その任地の軍務をすべて取りまとめるように取り計らった。
このことからも気位が高く、他人の指図は受けたくないというという自己中心的な性格の持ち主であった朱桓だが、一方で惜しみなく私財を投じ、他人とは道義的な関係を結ぶことを大切にしたという。また、ずば抜けた記憶力を持つ彼は、その私兵団一万人の妻子に及ぶまで顔を記憶しており、軍吏やその家族に至るまでの生活を大切に考え、その俸禄や財産を分かち合うという温情に満ちた人物でもあった。そのため彼の部下は皆彼を慕い、彼が病にかかり危篤に陥ると、その軍営は悲しみに沈まぬものがないという有様だったという。
朱桓は結局そのまま赤烏二(二三九)年に帰らぬ人となり、軍吏や兵士たちは皆その死を嘆き悲しんだという。その享年は六十二歳で、その爵位や兵士は息子の朱異が引き継いだ。


-狐野郎が曰く-

例えるなら「プライドの高い猛犬」。いやむしろ「狂犬」といったほうが正しいだろうか。家柄は間違いなくいいのだが、それが故に名門特有の気位の高さが悪い方向に向いてしまっている典型例といえようが、性質が悪いことにコヤツは将帥としての才能も地方官としての才覚も優れているというのがなんとも。勿論本当に鼻持ちならぬボンボン気質かといわれたらそうでもなく、部下を大切にしてその部下からも慕われたというからなかなか一言では言い表せない人物である。名門出なのに狂猛奇矯とか、虞翻といい凌統といい、江南人の気質なんだろうか。というか、部曲一万余人の顔と名前だけじゃなく、その妻子の名前もみんな覚えていたとか…何処のトレーズ総帥だマジで。
軍才について実は、濡須の戦いの件から正反対の評価がされるともいう。曹仁の策にかかって寡兵で戦わざるを得なくなったことを指して凡将という評価と、そのあと見事な戦法によって寡兵で大軍を打ち破ったことで名将であるという評価だ。ただこれに関しては、後の見事な撤退戦から考えれば、最初に情報戦を成功させた曹仁が一枚上手であり、その後ミスを帳消しにしたどころかオツリまでたたき出した朱桓はやはり名将だったと評するのが自然な流れであろう。最初の凡ミスも実は曹仁を誘い込むための「虚誘掩殺の計」だったといわれても信じられるぐらいだ。ちなみに演義ではこのミスについては触れられておらず「重要拠点に最初から五千で立て篭もっていた」とかいう正気を疑う事態であったことも追記しておく。
学三朱桓のデザインについては特に大きく構った部分はない。朱拠も同族なのでどっちかにカラーリング合わせようとか一瞬は思ったけどめんどいのでそのままにした。