解説 張飛


-学三設定-

劉備の妹分ナンバー2…というのは帰宅部連合がきっちりした頃に言われ始めたことで、実際は簡雍共々劉備の古くからの幼馴染。
「おてんば」というには過ぎたほどの暴れん坊で、気に入らなければコブシにものを言わせるタイプ。意外と小柄で可愛らしい童顔なのだが、それに似合わぬ隆々と盛り上がる上腕の筋肉と、常に青筋立ててる表情がそれと悟らせない。とにかく元気で、何も考えずに走り出し、誰かが止めてやらないと何処までも果てしなく暴走する。その役目は劉備や関羽しか勤まらないとも言われるが、実は彼女がいちばん常識人だったりもする。また大雑把で家事や雑務などからっきしなように見えて、実家が肉屋なので肉料理が大の得意。当然オシャレなどというものにはほぼ無縁で、クセっ毛の挙句髪の手入れなどしたことすらなく、放っておけばあっという間にボサボサになる為、見かねた劉備が髪を整えるためにあてがったヘアピンを宝物にしている。
一方で幼い頃から少林寺の道場に通い詰めて独学で鍛えた武勇は圧倒的であり、腕っぷしは元より愛用の三節棍を手にしたときの彼女に対抗できるものは学園都市全体を見渡してもほとんどいない。度胸も大したもので、帰宅部連合最大のピンチとなった長坂逃亡戦の際、荊南に通じる唯一の橋のたもとにひとりで陣取り、居並ぶ蒼天会の猛将たちを怯ませ、その進軍に二の足を踏ませたという伝説を残した。性格上おばかちゃん扱いされることもあったが、益州校区侵攻戦や、後の張郃との戦いでは経験を生かした見事な頭脳プレーも見せている。
性格は一本気なところがあり、何をやるにも熱心にしすぎて、ついつい人を傷つけることも。本人はその娘のためにやったのだから、とほとんど気配りなどをしないため、心配する劉備が幾度も諭したが、結局改められることはなかった。終いにはそのため、関羽の敵討ちとして単独で暴発しかけたところを、日ごろ彼女の行動に恨みを持つ范彊、張達らの罠にはまって崖から落ち、大怪我を負って引退を余儀なくされてしまった。この報告をするための使者が駆け込んできた時、使者が報告の向上を述べる前に劉備は「益徳のドアホ!こないな時にやらかしおってからに!」と悲憤したといわれる。
この話を人伝に聞いていた彼女は流石に堪えたらしく、引退以後は生来の粗暴さを押さえて劉備に従い大人しくしている。当然のように劉備と同じ大学に通うことになったが、センター試験の成績はかなりぎりぎりだったらしい。


-史実・演義等-

張飛 ?~二二一(一説には一六八~二二一)
字は益徳、涿郡の人。なお民話や演義では字が「翼徳」になっており、こちらの方が有名であろう。
若いときに関羽と共に劉備に仕え、劉備は彼らふたりと寝食を共にし、兄弟の如く遇したという。また、張飛よりも関羽のほうが数歳年上であったため、張飛は関羽に兄事したという。劉備が呂布に追われて曹操の元に逃げ込むと、劉備が左将軍に任じられた際に中郎将に任命されている。
以後も劉備と艱難をともにし、当陽を逃亡する際には演義における名シーン「長坂橋の仁王立ち」により逃亡する劉備の時間稼ぎをしたことはあまりにも有名。正史張飛伝によれば、曹操の来襲に恐れをなした劉備は張飛に二十騎余りを従わせて殿軍を任せたが、張飛は川を盾にして橋を切り落とし、目をいからせ矛を小脇に抱えると「我輩が張益徳だ。来るがいい、死を賭して戦おうぞ」と大喝した。その迫力に寄せ手の曹操軍は数を恃みにすることも忘れて近づこうとすらせず、そのために劉備は無事逃げおおせることが出来た。演義でも伏兵を疑わせ曹操を一度引かせているも、橋を落として立ち去ったために伏兵がいないことを曹操にすぐバレてしまう。
赤壁の戦いを経て、益州攻略の際には江州方面から進軍し、巴郡太守の厳顔を下すという勲功を立てた。厳顔を生け捕りにした張飛は「何故さっさと降服しなかったのだ」と問うと、厳顔は「貴様らは無礼にもわが州を侵した。首を刎ねられる者が居ようと、降る者などおらん」と答えた。張飛は一度は腹を立てたものの、厳顔の意気に感じ入り、賓客として待遇したという。この話は演義にも取り入れられており、この功績により、益州平定後は巴西太守に任じられた。
漢中を平定した曹操から漢中を手中に収めるべく兵を挙げると、張飛は魏の名将・張郃と対峙し、睨みあう事五十日にも及んだ。そのうち張飛は別働軍によって張郃の守りを切り崩し、地の利を得なかった魏軍を散々に打ち破ったため、張飛は巴郡を平定することが出来た。
劉備が漢中王となると右将軍に任じられ、また蜀が建国されると栄転して車騎将軍となった。張飛の娘はふたりとも劉備の子劉禅に嫁ぎ、姻戚として人臣を極めた。ここに関連して、張飛はかつて曹操に追われて劉備と離れ離れになっていた頃、山賊に身をやつしていたのだが、そのとき近隣の村を略奪してさらって来た良家の娘を無理やり自分の妻にしたということがあった。その娘が実は夏候淵の姪(従兄妹とも言われる)に当たる少女であり、後に夏候淵の次男夏候覇が蜀に亡命してきた際、劉禅はそのことを引き合いに出して皇族として待遇した、という記事も正史にある(劉禅に嫁いだ張飛の娘は、いずれも夏候氏が生んだ子供)。武勇に優れていたことについては正史にも記述があり、その武は関羽に次ぐとされ、魏の謀臣程昱らはその武を「一万の兵に匹敵する」と賞賛するほどだった。しかし、張飛は名士を敬愛したものの、目下のものに対しては呵責がなく、ことあるごとに配下の将校達を鞭で殴りつける、あるいはちょっとしたことで重い刑罰を与えて兵士を殺したりするといった面があった。劉備は張飛のこうした欠点を常々改めるように警告していたが、結局最後まで改めることはなかった。
劉備の呉攻略に際し、張飛は側近の范彊、張達らによって暗殺されてしまった。その報告のために使者が訪れると、劉備はその内容を聞く前に「ああ、張飛が死んだ」と嘆いたという。


-狐野郎が曰く-

中国の民間伝承で三国志が絡む話では、やたら主人公になることが多かったと言われる張飛。乱暴で酒好き、でも何処か憎めない一本気の好漢というのはいつだって漢民族に愛されるのか、中には日本の「こぶ取り爺さん」みたいな話で、「絶世の美人だと思って、野晒しの遺骨を埋葬したらそれが張飛のもので、張飛の霊が礼として夜伽のためにやってきた」などというアッー!!!な話もあるそうだ。ついでに関羽が「関帝聖君」として道教の神に祭り上げられたのは有名だが、実は張飛も同じく道教の神で、日本でも有名な「鐘馗」のモデルになったという説もある。実際鐘馗様の姿は、三国志演義における張飛の風貌そのものである。
張飛といえば誰もがよく知る「長坂橋仁王立ち」。まあ鐘馗様みたいな風貌したおっちゃんが殺意マッシマシにして「俺様と命張って戦えるヤツは居ないのかぁ!!」なんて怒鳴ったりすりゃ大概の人間は肝を潰すだろう。忍殺にはNRSショック死以前に、ショーギ(将棋)やマージョン(麻雀)の対局で駒や牌に触れずアトモスフィアだけで対戦相手を心停止させるなんてトンチキ解説もあるが、張飛ならそのくらいやれてしまうのではなかろうか。何しろこの時、寄せ手の大将には張遼だの楽進だのといったバケモノどもがわんさかいるのに、誰も張飛に手出しできてないんだからな。まあこの話、何が一番おっそろしいかって、多少の脚色はあれど史実だってことなんだよな…これと趙雲の敵中突破(演義だと単騎駆けにパワーアッポしてるけど)だけで演義が成立した、とすら言われるが、否定できないところが実に恐ろしい。日本でこんなのに対抗できる奴なんているんか?と思うが「悪源太」源義平ならギリいけるだろうか…?鎌倉武士も世界屈指のバーサーカーだからなあ。。
学園三国志でもほぼ主役的なキャラクターである張飛、小柄でクセ毛のぼさぼさ頭、そして一度勢いがついたら何処までも暴走していく爆弾娘と‎いう扱いになっている。正史にもある「張飛の嫁取り」は、張飛が迷い猫だった夏候覇の飼い猫を自分の飼い猫にしてしまって…という話になっているらしい。こいつ、猫の世話なんてできるんだろうか?