解説 関羽


-学三設定-

劉備の妹分で、帰宅部連合の武の象徴となった「武神」。
何があったか知らないが、劉備の男気(?)に惚れ込み、彼女を一途に追い慕う。ずば抜けた長身で、漆黒の見事な長髪が人の目を引く、静かだが圧倒的なアトモスフィアを漂わせる美女。その前歴は謎に包まれているが、一説には伝説の走り屋だったとも、中学校時代はある地方で不良たちに恐れられる存在だったとも言うが、幼馴染で中学まで一緒だった徐晃は前者について否定している。ただ、小学生時代は剣道クラブのトップエースで、国体からもスカウトが来るほどの逸材であった。
重厚という表現がふさわしい程にくそ真面目で落ち着いた性格なのだが、なんとなく、どこかズレている部分もある。曹操などは、関羽を極めて高く評価し、一時期劉備の元を離れていた彼女を空席だった生徒会執行部長に据えたこともある。だが、関羽はあくまで劉備にのみその忠誠を尽くし、曹操の恩義に応え顔良を討った後に陣営を去っている。そのときの行動は曹操をはじめとする学園中の生徒達を虜にし、「羽厨」という狂信的な追っかけを生み出す要因となった。
目下の者には優しく、そうした者からも慕われるのだが、劉備や曹操といった一部例外を除いた「立場が上の者」、もっと言えば名門の家柄だの令嬢だのといった類を内心蛇蝎のごとく忌み嫌っており、また非常にプライドも高い。むしろプライドの塊と言ってよく、自分より優れた者に対して、猛烈な対抗心を示すこともしばしばある。そういう性格である為か、長湖部を「学園の混乱を見てみぬ振りして逃げた名士令嬢の寄せ集め」と決め付けている風があり、常にそれを下風に見ていることから、その領袖たる孫権を公然と罵り、折り合いは最悪に近かった。結局それがために帰宅部連合と長湖部との全面対決という事態を引き起こす。
彼女は劉備の北上に同期する形で、曹仁の守る樊棟へ攻め上がる。折しもの大雨によって水没しかけた樊を孤立させ、さらには洪水に巻き込まれ進退窮まった于禁を下しその軍を壊滅させるなど戦況を優位に進めたが、些細な失態を論われ後方に追いやられた糜芳らを抱き込んだ呂蒙率いる長湖部の大攻勢により荊州校区を失った。関羽は北上を中断、「長湖部の軍を軽く蹴散らして北伐を継続する」という軽い考えのまま南下したが、その絶対的な武をもって決して少なくない損害を与えはするものの、己の腕を過信した末に名もなき一少女の手によって葬り去られるという最期を迎えてしまった。
関羽は戦後処理の後、誰にも行く先を告げることなく学園都市を去って行った。その後の行方は杳として知れず、後に彼女を知る多くの者が、その行方を追って学園都市を離れていった。その後は方々で正誤定かならぬ「武勇伝」が多く広まり、また学園都市の支配者となった代々の生徒会はことあるごとに関羽の業績を顕彰するキャンペーンを繰り返し、数世代後には「学園史の武の象徴」としてイメージキャラクター的な存在になっていった。


-史実・演義等-

関羽 ?~二十九(生年には諸説あり、例えば横浜中華街にある関帝廟の人物略歴では一六一~二一九とされている)
字は雲長。河東郡解県の人で、元々は字を長生としていたという記述がある。
前歴は不明だが、元々は当時政府が取り仕切っていた塩の密売人だったという説があり、故郷で役人といざこざを起こして劉備のいる涿県へと出奔してきたともいわれる。そこで義兄弟の関係にあった張飛とともに劉備の護衛官となり、劉備は彼らを兄弟同然に遇したという。このことにより、後年三国志にまつわる平話が生まれてくると、劉備、関羽、張飛が義兄弟の契りを結んだ、というストーリーが定説になっていったと思われる。
劉備が平原の相になると張飛共々別部司馬となって兵を率い、その後も苦楽を共にした。劉備が徐州刺史車冑を殺して徐州を乗っ取ると、関羽を下邳城に入れ、太守の事務を代行させたという。関羽は吏才だけでなく、演義に見られるとおり腕力は絶倫、武技にも優れていたため張飛共々「ひとりで兵一万に匹敵する」と称され、さらに張飛伝の記述によれば、この評価を与えた程昱ら魏の謀臣たちは「張飛よりも関羽の方がさらに強い」と評価していた。余談になるが関羽の武器は「重量八十二斤(約42kg)の青龍偃月刀」というイメージが一般的だが、実際には当時まだ青竜刀のような武器は開発されておらず(開発されたのは明代)、演義成立の頃に確立されたイメージである。
二〇〇年、曹操が劉備を征伐し、劉備は袁紹の元へ逃亡するも関羽は曹操の捕虜となった。曹操は関羽を非常に気に入っており、偏将軍に任命して大変に厚遇した。南下を始めた袁紹軍を白馬津で迎え撃った曹操は、寄せ手の猛将顔良に対して関羽と張遼をぶつけることとし、関羽はこの戦いで顔良の姿を認めるや否や、馬を全速で走らせて出会い頭に顔良を刺殺して討ち取ったという(なおこの記述から、関羽の振るった武器は矛か戈のような古くからある長柄武器だったと考えられている)。白馬津での戦いを制した功績が高く評価された関羽は漢寿亭侯に封ぜられたが、曹操は関羽が自分のところに長くとどまるつもりがないことに薄々勘付いており、張遼に真意を問いただすよう命じた。関羽は張遼に「公(曹操)が自分を厚遇しているのは知っているが、私は劉将軍(劉備)から厚い恩義を受け、共に死のうと誓った仲です。あの方を裏切ることなどできません」と述べ、加えて曹操の元を辞去するにしても、曹操から受けた恩義はきっちり返してからにしたいと伝えた。張遼から報告を受けた曹操は関羽の義侠心に感銘を受け、それでも長く自分の元にとどめ置こうとして、顔良を破った功績をたたえる下賜品を多く与えたが、果たして関羽はその下賜品に固く封をして、袁紹の軍にいる劉備の元へと去っていった。曹操も「これも彼が彼なりに主君(劉備)のためにしていることなのだ。決して追ってはならない」と部下を諭したという。このあと関羽が行く手を阻む関門の主将を悉く撫で斬りにしただの、後に赤壁で曹操をこの恩に応えて見逃しただのという話があるが、すべて作り話である。関羽退去に見られる「義の人」という要素を強調するためのものであることは想像に難くないが、一方で呂布を倒したとき、関羽は曹操に「(呂布の部下であった)秦宜禄の妻を賜りたい」と再三言上し、あまりに関羽がしつこく乞うため気になった曹操は秦宜禄の妻を招きよせると、予想した通り美女だったらしく曹操はそのまま彼女を手元においてしまったため、関羽は内心曹操を嫌っていたとも言われる。
曹操の南下を避けて南へと逃亡する際、先だって水軍として南下し、漢津で合流してともに夏口へ入った。劉備が荊州四郡を平定するとこれまでの功績により襄陽太守を任され、劉備が益州に入ると荊州の統治を任され、二一九年には前将軍として節を与えられた。間もなく関羽は樊城攻略を開始し、序盤は司隷や許都周辺の盗賊などに働きかけて先導したこともあり有利に戦況を展開する。さらには豪雨を利用して于禁の率いる七軍すべてを水没させ勝利を決定づけたかに見えたが、日ごろから関羽に恨みを抱いていた士仁、糜芳の裏切りと孫呉の急襲によってこれ以上の進軍が不可能になることは勿論、撤退すべき本拠地まで失った。進退窮まった関羽は益州への逃亡を図ったが、州境の臨沮で息子の関平とともに潘璋の司馬である馬忠に捕らわれ、斬殺された。その年齢は不明だが、一説に五十八歳だったとも六十歳だったとも言われる。
矢傷に苦しめられた際、その傷を切開させる手術を受けながら部下と焼肉を食べて談笑するなどというエピソードがあり、豪胆な一方で民衆や士卒をよくいたわったが、反面士大夫に対しては傲慢な態度を取り、そのために表面上では友好関係を結んでいたものの、孫権との折り合いは非常に悪かったという。荊州での攻防の直前、孫権は関羽の娘を自分の息子の嫁に欲しいと申し入れたことがあったが、関羽は使者を侮辱した挙句に婚姻を突っぱねたことがあったが、これこそ関羽最大の汚点であり、その運命を決定付けたというべきであろう。
関羽はその死後、首は曹操の元に送られ、手厚く葬られた。関羽の一族は蜀にいたが、蜀滅亡の際、樊城の救援に来て関羽と戦い敗死した龐悳の子龐会によって皆殺しにされ、その血筋は絶えてしまった。歴代の中国王朝はどういうわけか重ねて彼の功績を取りあげて称揚し、清代には長大な号を贈られ、道教の武と商業の神様として廟が立てられるまでになった。日本の横浜中華街にも存在する、関帝廟に祭られる「関帝聖君」こそ、神となった関羽である。さらには正史にも関羽が立派なあごひげを持っていたと記述があり、そこから美しく長いあごひげの事を「関羽髯」と呼ぶようになり、また後に商業神となったことから大黒帳を発明したといわれることもある。


-狐野郎が曰く-

「蒼天航路」の言葉を借りるなら、「曹操は曹操でしかない」としか語り得ないように、「関羽も関羽でしかない」という他ない。同作で曹操は「義や侠、多くの言葉で語られてきた中華の美しき精神。しかし屹立する関羽の姿は、経書の百万遍より雄弁ではないか!」と大絶賛。まあ曹操は関羽の限界オタクみたいなところもあるのでちょっと過剰に盛りまくってはいませんかね、といったところか。ただ後の王朝がとかく曹操(と司馬懿)を目の敵にしまくった皺寄せなのか、関羽はひたすら顕彰に顕彰を重ねられてついに神様になってしまったのもまた事実。中華史においても義をもって主君に殉じた人はそれこそ掃いて捨てるほどいるはずだが、ここまで関羽ばかり持て囃されたのも、そんなあたりに理由があるのかも知れない。
曹操同様語りつくされ、今更狐野郎如きがネットの片隅でああだこうだ言うべき人物でないのは確かであるが、実は狐野郎の中ではとかくその毀誉褒貶が二転三転した人物でもある。狐野郎の生息する新潟県上越市の英雄で、同じように「義の人」と名高い上杉謙信公と、何処か共通するアトモスフィアを持っている関雲長、そのしくじりの方向性すらも何処か似ているような気がするとある時思い立ってから、関羽の株もセットで乱高下している感はある。特に狐野郎が呂蒙を文字通り「見直し」てからは関羽株はストップ安になる始末で、気づいたら関羽伝を中心として徹底的に粗探しをし始めている有様であった。なので基本的に狐野郎の中で、どこかのオグリキャップみたいに「誰からも愛されるヒーロー」としての関羽像などというものは寸毫も存在しない。むしろ変態記系リプレイ動画の金字塔「八雲藍変態記」作中の表記を取って積極的に「(軍★神★)関★羽」として下世話なネタに堕しているまであるくらいだ。まー個人的には面白いけど流石にあの作中の関★羽はねえわw あと謙信公の何がダメなのかまで語ると、話が脱線した挙句木星圏まですっ飛びそうなのでここでは割愛する。結局孫権は元よりや味方の上級将校すらもぞんざいに扱い、自分がその誰よりも上だと思っていた高慢さが、後の武神となる男がそのヒゲすらもすっぽり埋まる巨大な墓穴を掘ったことだけは、残念ながら疑いようのない事実なのだ。逆にそんな大欠点があろうとも、後に神として世界中(の中華街)でその姿を知られる迄になったことも、無論忘れてはならぬことだが。
学園三国志に限らず、所謂「萌え三国」の作品で登場する関羽も、流石に顎鬚なんてものはなく基本的には「艶やかな美しい黒髪を持つ長身の美少女」というイメージになるだろうか。恋姫の愛紗はそんな背が高くないって?知るか( ´ - `) ただ学三だと「特徴的」と言えるほどの特徴もあまりないように思えるので、元のイメージを極力崩さぬよう多少手を加えた形になっている。多分イメージ的に一番引っ張られてるの、「ウマ娘」のナリタブライアンかも知れないなあ。じゃあ劉備がバナナ先輩ビワハヤヒデなのかといえば絶対そんなことないが(ぉ