解説 孫堅
-学三設定-
呉郡地区の顔役である資産家・孫家の総領娘。幼い頃から稀有壮大な、気風のいい姉御肌な少女として有名で、初等部の頃に当時呉郡地区周辺を根城にしていたチーマーの本拠に単身のりこんで、全員を瞬く間に蹴散らした程の腕っ節と肝っ玉を持っていたことで学園都市全体にその名が知られていた。とりわけ揚州校区出身で生徒会執行部入りしていた朱儁は姉貴分として付き合いがあったこともあり、特に彼女を高く評価して、黄巾事変鎮圧の歳には中等部の三年生であった彼女を副官に抜擢して主力軍を任せていた程。数代前の学園戦乱時代に名軍師として名を残した孫武の孫を自称しているが、実際に血縁関係はないものの、その戦上手ぶりは実際に孫武を彷彿とさせるものがあった。その功績が認められ、長沙棟長となった彼女は長湖部の前身とも言える「長沙水上運動部連合(長水連、あるいは初期長湖部とも)」を立ち上げてその盟主となった。
曲がったことを嫌う一本気な裏表のない性分であったこともあり、当然ながら蒼天生徒会を掌握し好き放題する董卓の専横に本気でブチ切れ、あくまでポーズでしかなかった「反董卓連合同盟」の中で唯一彼女のみは全力で董卓に真っ向から喧嘩を売った。実際に孫堅率いる「長水連」の軍は猛烈な勢いで司隷に攻め寄せ、董卓もかつて西羌高校とのいざこざに際して孫堅の能力を高く評価すると共に非常に恐れており、懐柔も効かなかったことから最終的に洛陽棟放棄という選択を強いることとなった。またこの際には後方支援を担当していた袁術との間に行き違いがあり、結局孫堅もそれ以上董卓軍団の追撃を事実上断念した。
連合が瓦解すると、本拠地である長沙棟を脅かす劉表・袁紹の同盟に対抗すべく、先だって行き違いはあったものの利害の一致する袁術と組んで劉表の撃滅に舵を切る。董卓を今一歩のところまで追い詰めた孫堅軍団の猛攻に劉表サイドは防戦一方どころか瞬く間に本拠地である襄陽棟を包囲されてしまうが、蒯良が仕掛けた起死回生の誘因策に嵌まって突出し、崖から落とされて致命傷レベルの大怪我を負った。孫堅は半年以上植物状態となったところから奇跡的に復活するも、学園の規則により階級章は返上され、高等部に上がって間もない身でありながら課外活動から手を引くこととなってしまった。ただしその後も姉妹や周瑜など一部の親しい者を引き連れ、毎年夏には赤壁島に籠もるサバイバルキャンプを行っている。
-史実・演義等-
孫堅 一五六~一九二(没年は一九一、一九三説もある)
字は文台、呉郡富春県の人。正史孫堅伝の冒頭には「おそらくは孫武(春秋時代の兵法家として名高い孫子)の末裔であろう」という風に記されているが、それを裏付ける史料はない。
若くして県の役人となった、とあるが、その経緯としてこんなエピソードがある。孫堅一七歳の時、父親に従って呉郡銭唐に出かけたときのこと、たまたま川賊が渡し場で商人の船を略奪している現場に出くわした。周囲の人々が賊を恐れて遠巻きに眺めていると、孫堅は父親に「こんな連中は蹴散らせます、私にそれをやらせてください」と申し出た。父親はびっくりして思いとどまるよう言ったが、孫堅は意に介さずに刀を手にし、手を振るって左右に合図する素振りを見せた。賊は官兵が自分たちを包囲して殲滅を加えようとしていると思い込んで散り散りに逃げ出すと、孫堅は単身それを追いかけ、そのうちの一人を斬り殺してその首を持ち帰ってくると、父親は大いに驚いたという。この一件で名を知られるようになった彼は、程なくして県の役所に招かれて仮の県尉(県行政区内における警察長官に当たる)に任命された。
そうして間もない一七二年、会稽で呪術的な行動によって信仰を得ていた許昌が反乱を起こすと、孫堅は郡の司馬としてその討伐に当たり、その手柄によって県の丞(今で言えば県や市の助役)に任じられ、以後各県の丞を歴任した。その仕事振りは優れたもので、どの県に居ても下役や民衆に慕われた。そのことから彼を慕うものが方々から訪れたが、孫堅は彼らを家族のように手厚く遇した。その中にはのちに孫呉の武の中核をなす程普、韓当らの勇猛な武者達もいた。
一八四年、黄巾賊が蜂起すると、同郷でもあった中郎将・朱儁に招かれ、その佐軍司馬として従軍した。孫堅は行くところ行くところで奮戦し、汝南から潁川までの黄巾賊をことごとく平らげるといった獅子奮迅の活躍を見せ、「向かうところ敵なし」と言われたほどであった。追い詰められた賊徒が南陽の宛城に立て篭もると、孫堅は自ら先頭きって城壁をよじ登り、士卒たちもそのあとに続いて城内に雪崩れ込み、それが決め手となって落城した。朱儁はその様子を克明に上奏文に記し、孫堅は功績を認められて別部司馬に昇進した。
一八六年、西涼の地で辺章と韓遂が反乱を起こすと、ときの司空・張温(呉の張敬恕とは別人)は孫堅を参謀として招いた。このとき、張温は董卓も召しだしていたが、董卓はわざと遅れてやってきて、遅参を咎められても不遜な態度を取り続けた。孫堅は董卓を無礼討ちにするべきと進言したが聞き入れられなかった。
西涼の乱が一応の解決を見ると、今度は長沙郡で区星(おうせい)が反乱を起こしたため、孫堅は長沙太守としてその討伐の任に当たった。孫堅は首魁の区星ばかりではなく、それに呼応して零陵、桂陽で蜂起していた反乱軍をも瞬く間に平定し、その功績によって烏程候に封じられた。
董卓の専横により政情が不安定となり、反董卓連合が結成されると、孫堅は反目していた荊州刺史王叡を撃ち滅ぼしてその勢力を吸収し、連合に加わった。その際袁術に会見し、袁術は上奏して孫堅を破虜将軍・豫州刺史に任じた。孫堅は一度は追い詰められるものの、再度軍勢を糾合して華雄らの首を挙げた(余談だが、演義では華雄を討ったのは関羽である、というシーンは有名だが、これは創作である)。しかしこの活躍ぶりに、袁術はあるものの言葉を信じて孫堅に疑いを抱き、兵糧の供給を止めてしまうと言う事件が起こった。孫堅は袁術に弁明(というか恫喝に近かったかもしれない)し、何事もなかったように兵糧はまた供給されるようになった。
董卓は孫堅を懐柔しようとしたが、孫堅は聞き入れず軍を進めた。董卓は窮した挙句洛陽を焼き払って長安へ強引な遷都を行い、その際歴代皇帝の陵墓を暴いて副葬品を強奪する暴挙に出たが、孫堅は洛陽の復旧に努め、暴かれた陵墓も軍兵に命じて修復させた。「江表伝」によれば、このとき井戸の中から玉璽を発見したと言う記事があり、これは演義にも取り入れられているが、陳寿は孫堅伝でこの件には触れず、裴松之も否定的な見解を示している。
反董卓連合が内部分裂を起こして空中分解すると、孫堅は袁術の指揮下に入った。一九二年、命じられて荊州の劉表を討つべく進発し、緒戦の優位に乗じて襄陽城を包囲。その最中、襄陽郊外を単騎で散策していた際に、潜んでいた兵士の放った矢に当たり、帰らぬ人となった。享年三十七歳と言う若さであったと言う。その軍勢は甥の孫賁(孫堅の兄の子に当たる)が、長子の孫策を差し置いてまとめ上げ、袁術に帰順してしまったために孫策は雌伏を余儀なくされてしまった。
-狐野郎が曰く-
コーエーの「爆笑三国志」では「無敵の堅パパ」と表現される孫呉の大親玉・孫堅。黄巾討伐や様々な反乱討伐で武名をあげ、その武名ひとつで諸侯にまでのし上がった、まさしく「乱世の申し子」というべき人物であり、正史では区星の反乱を1ヶ月足らずで平定したり、家柄の不確かな身でありながら朱儁の後見を得て西涼異民族の討伐軍に参謀として抜擢されているなど、「成程こいつならもしかしたらマジで孫子の子孫かも知れねえな」と思わせる何かを持っていたのは確かだろう。一方で陳寿は「あまりにも軽はずみで性急すぎた」と評しており、その性情の激しさから董卓の怠慢に激怒し即座にたたっ切るよう上官の張温に詰め寄っていたりする。そして面白いことにガチで漢帝国を救済する気概を持っていたらしく、反董卓連合のなかでは実質孫堅一人で董卓を追い詰めたと言っても過言でない暴れっぷりで、袁紹ならずとも「もうあいつ一人でいいんじゃないかな」みたいな勢いだったらしいが…その最期が本当にあっけなく訪れたことは惜しいことである。
「学三」では孫家三姉妹長姉にして、姉妹唯一のナイスバディの持ち主…ということになっているそう。孫堅といえば赤い布帽子(演義でもお馴染み、祖茂が被って逃げたと言うアレ)で、それをリボン代わりのバンダナという形で採用されているようだ。それは孫堅リタイヤ後は孫策、周瑜へと受け継がれ…狐野郎はさらには周瑜から陸遜、陸抗、吾彦へと、長湖部の魂とともに受け継がれていく、という風に考えている。