解説 満寵


-学三設定-

後に蒼天ソフトボール部で「東の満伯寧」もしくは「蒼天の青龍」の異名を取る、同部のスラッガー。ポジションは外野手(ライト)。徐晃がひとりで守る蒼天野球部を再興するため、曹操がこれと見込んで送り込んだメンバーの一人であり、当時は中等部のユースで、体育会系でありながら経理にも強いことから初期は選手兼マネージャーとしても重要な役割を務めた。
やがて蒼天野球部が蒼天ソフトボール部に改称され、その人数も順調に増えて運営が軌道に乗り始めた頃、その片手間に許棟の運営にも関わるようになる。その時、曹洪の子分が校則違反を平然と犯し好き放題しているのを見ると、ことごとく補導しにかかった。曹洪は脅迫まがいの態度で満寵に迫るも満寵は毅然としてそれを突っぱね、困り果てた曹洪が曹操経由で子分を助けようとしていることを察知した満寵は、先手を取って補導した子分全員を警察に突きだし少年院に放り込んだ。曹洪は唖然としたが曹操は満寵の公正な処断にいたく感心し、蒼天ソフトボール部には替わりの専属マネージャーを送り込むと、許棟の運営の全権を満寵に任せたという。
間もなく官渡公園決戦が起こると、部長でもあった徐晃の影響で剣術の腕前も上げてきていた満寵は豫州校区汝南エリアの袁氏勢力を一掃する主将として抜擢された。その際共に戦った曹仁からも一目置かれ、やがてその副官として荊州の守備にも随行。曹仁の元から専属マネージャーの陳矯が離れると、その後釜として専属マネージャーも兼務した。曹仁の信頼も厚く、関羽の北征にもよく対抗し、洪水の影響で浸水し惨憺たる有様となった樊棟でも軍団をよく鼓舞して団結させ、防衛を成功させる立役者となる。
曹仁が引退するとその軍団も統率し、揚州校区総代に就任して長湖部に睨みを利かせる存在となる。同じ頃に寿春棟長となった王凌とは非常に仲が悪く(というか名門出でプライドの高い王凌が一方的に満寵を毛嫌いしていた)、王凌は度々曹氏蒼天会の上層部に満寵の過去の行状を論って罷免状を送るも、曹叡の側近であった司馬懿や陳羣、それどころかかつて子分を前科持ちにされた曹洪すらも彼女の公正さを訴えたこともあり、曹叡は王凌の言い分には一切取り合わなかった。これを受けて王凌は腹心とも言える王昶を送り込んで妨害させようとしたが、王昶は内心王凌のことを好ましく思っておらず、命令であったため正面から堂々と満寵を潰そうとするも返り討ちに遭い、それでもお互いの能力を認め合ったふたりは速攻で意気投合する有様だったという。とはいえ王昶は、普段は気さくで話しやすいものの、規律に厳しく怒ると怖い体育会系気質の満寵に色々しごかれることも多々あり、ウマは合っても辟易することも多かったようだ。
満寵は卒業するに当たり、後任に王昶を推薦してそれが認められると、正式な継承式を行って王昶に後事を託し学園を去った。


-史実・演義等-

満寵 ?~二四二
字は伯寧、青州山陽郡昌邑県の人。
一八歳のときに山陽郡の督郵(監察官)になったが、当時私兵を抱えて好き放題振舞う顔役がいて、満寵は太守に命じられてそれを取り締まって処罰した。その後高平県令を代行したが、その県にいたある人物が督郵となり、賄賂を取り好き勝手に振舞うようになったのを見て取った満寵は独断でその督郵を処罰し、やがて官を辞した。
曹操は兗州を支配した折に満寵の評判を聞きつけて召し出し、許の令を任せた。当時曹洪の食客が、曹洪のもつ権力をかさに好き放題に振る舞い、法を犯すものが多かったため満寵はそれらをことごとく逮捕して取り調べた。曹洪は彼らを釈放するように言ったが満寵は聞き入れず、困り果てた曹洪が曹操に相談すると、曹操は許の担当官を呼びつけた。これで囚われた食客たちの釈放命令を出すつもりだと察知した満寵は、先んじて逮捕した食客たちをことごとく処刑してしまった。このことに曹操はかえって喜び「法の執行はこうでなければならぬ」と賞賛した。
後に大尉の楊彪が無実の罪で囚われた時も、満寵は荀彧らの嘆願を跳ね除け法令どおりの尋問を行った。荀彧らは当然激怒したが、後に曹操が満寵に面会を求めると、満寵は「死刑にするには尋問して罪を明らかにすべきでありますが、楊彪の供述は変わりません。彼は四海に名声があり、もし無実の罪で処刑したとあれば、明公(曹操のこと)の人望を大きく失わせることになるかもしれません」と述べた。このことで曹操はその日のうちに楊彪を釈放し、これを伝え聞いた荀彧らも満寵の処置が正しかったことを認め、感謝したという。しかし裴松之は「それは酷吏(私情を挟まず、ただ冷酷に法を執行する官吏を蔑んで言う言葉)の心配りに過ぎない」と非難している。
官渡の戦いの際には汝南太守としてその地の平定に当たり、南征にも随行した。赤壁で敗れて帰還する際には当陽の守備に残されたが、後に孫権が執拗に合肥を狙い始めると、再度汝南太守としてそれをけん制した。関羽が攻め上ってくると曹仁と共に樊城の守りについたが、水攻めで于禁の軍が壊滅すると、城内は騒然となった。樊城放棄の意見に対して満寵は「ここは山間で、水の引くのも早いでしょう。関羽は既に我々の背後まで脅かし始めていますが、裏を返せばここから進軍できないのは我らの追撃を恐れているからです。留まり、機を待つべきでしょう」と進言し、曹仁もそれを是とした。結局関羽は徐晃の参戦と、曹仁や満寵らの奮闘、そして呂蒙が動き出したことなどが重なり軍を引いた。この功により、満寵は安昌亭候に封じられた。
曹丕の代になり、それが帝位につくと伏波将軍に任命され、呉への侵攻作戦に際しては呉軍の夜襲を見切って逆にそれを撃破した功が認められ、南郷候に格上げされた。次いで二二二年には仮節を与えられ、二二四年には前将軍となった。
二二八年には豫州刺史となり、石亭の戦いでは夏口を攻めることとなったが、合肥に進入する総大将の曹休が合戦に不慣れなことを指摘し、注意するように上表したが、その返事が来る前に曹休は一敗地に塗れ、戦後間もなく曹休はそれを恥じるあまり病死すると、満寵はその後任として都督揚州諸軍事の大命を受けることとなった。時に揚州刺史にはかの王允の甥に当たる王凌が当たっていたが、ある事件があって以来満寵と王凌は不仲だった。王凌の支持者は度々満寵を糾弾する上表をしたが、明帝曹叡は側近の諌めに従って意に介さなかったという。二三三年、満寵は合肥城が防御に優れながらも外部からの救援が難しいとして、新しい城を堅牢な地に建てるべきという上表を行い、容れられて合肥新城を築いた。翌年、孫権が自ら大軍を率いてこの地に攻め寄せてきたが、満寵は伏兵を利用したゲリラ戦や火攻めを展開して呉軍を撃退した。
二三八年、年老いた満寵は都に召し出され、大尉に昇進した。家財に頓着しなかった満寵の家族のために、朝廷から多くの下賜の品が贈られた。それから四年後に満寵は世を去り、子の満偉が爵位を継いだ。


-狐野郎が曰く-

郭淮や陳泰などと並び称される、対外守備の名将満寵。「蒼天航路」では名乗りを返さなかったことから関平に「名無しの満寵」と呼ばれていたが、これまでは横光三国志で諸葛瑾の軍に攻めあぐねていたのを曹叡に発破掛けられたチョイ役の将軍としてのイメージしかなかった(というか普通それすら印象に残らねえよな)のが、なんか樊城攻防戦でのヤベー奴と言うイメージに更新されたような気がする。実際正史では色々やってる(むしろ将軍としてより官吏として強い)んで、意外に一言で来歴を語るのが難しい人物かも知れない。どのぐらいで亡くなったかは記述がないので不明だが、官渡の戦いの前から曹操に仕えていたので大往生と呼べる年齢だったことは確かだろう。なお「三国志大戦」の満寵はなんか「北斗の拳」のモブ悪役みたいな顔していて、意外に優秀な策略を持っていたという印象がある。
学三では、正史で同列伝にいる郭淮、田豫共々ソフトボール部員で四天王の一角という設定がある。その後、某氏のSSでは政敵の王凌に送り込まれた王昶・王基を正面から返り討ちにして逆に恐れられる存在になっているのだが、その意味では数少ない王昶の天敵ポジションであると言える。あのクセモノを黙らせられる人間、そうそういないがその貴重な一人である。