解説 徐盛


-学三設定-

元々は徐州校区にいたが、黄巾事変や中央の混乱が波及してくるとそれを嫌って新天地を揚州に求めた女傑。
高等部に昇級する頃には呉郡地区でもその気風の良さと姉御肌で周辺棟の顔役として知られており、孫策も彼女を招こうと思っていた矢先に孫策が事故でリタイアしたため、孫権が彼女のスカウトに乗り出した。彼女も孫権に見所を見出したのか二つ返事で承諾し、自身が中心となる格闘技同好会の面々と共に江夏棟に赴くと、周辺で好き放題していた黄祖とその一党を十数名の同好会メンバーで完膚なきまでに叩きのめして撃退、その功績により同好会は「格闘技研究部」に格上げされ彼女はその主将となった。なお「格闘技」と言いつつ徐盛の専門はタイ捨流の流れを汲む剣術である。
彼女の武名を追いに高めたのが、合肥・濡須ライン攻防戦であり、そこでは張遼の奇襲で大混乱に陥る中で自身の軍団とはぐれてしまい、単身蒼天会の大軍団に包囲される形で絶体絶命の状態となるが、徐盛はまるで怯むことなく剛勇ぶりを発揮し、後詰めの蒋欽が徐盛の軍団も糾合して彼女を救出しに駆付けたときには数小隊を蹴散らしほぼ敗走状態に陥っていたという。「幸運にも張遼や楽進といった猛将が近辺にいなかったから飛ばされずに済んだ」と徐盛の戦闘能力を過小評価する者も多いが、夷陵回廊戦の後にも張遼との一騎討ちで負傷した呂範を庇ってその正面に立ちはだかり、疲弊はあっただろうが張遼を退かせる活躍をして前線の瓦解を防ぎ、濡須ライン防衛を成功させる功績は決して無視できるものではなく、当時の長湖部でも最強クラスの猛将であったといっても過言ではない(この「張遼との一騎討ち」は後に丁奉と混同されることもままあり、それ故になおのこと彼女の戦闘能力について後世過小評価される要因になっているようだ)。
自分が元々他人に頼られる顔役だったというプライドもあるのか、蒋欽の軍団に副将とされていた頃にはそのことを不満に思って、蒋欽の指令を伝える「湖南海王」の元メンバーに対しても平然と「不良崩れの分際で偉そうに」と喧嘩をふっかける有様であった。だが蒋欽はこうした手合いが大好きであった事もあった以上に、徐盛が主将として後輩達の面倒をよく見て居ることなど主将として優れていることから常に一目置いて接し、やがて自分の顔を立ててくれる蒋欽に対して徐盛も態度を軟化させ、荊州奪取で蒋欽が大怪我を負った際には見舞いを欠かさないほどの仲になったという。


-史実・演義等-

徐盛 生没年未詳
字は文嚮、琅邪郡莒県の人。戦乱を避けて呉郡に移り住み、その地で度胸と義侠心により名を知られた。
孫権が孫策の跡を継いだころに招かれ、別部司馬・柴桑県長として兵五百を率い、江夏の黄祖に備えた。間もなく黄射(黄祖の子)が数千人を率いて攻め寄せてきたが、このとき手勢は兵士・軍吏をかき集めて二百余りであったにもかかわらず、守りを固めて攻撃を凌ぎ、それどころか逆に相手の疲弊と油断に乗じて散々に打ち破った。黄祖はこれで柴桑に手が出せなくなり、徐盛はこの功績により校尉に格上げされ蕪湖県令に転任、さらには宣城周辺の反乱民鎮圧などに従事した。
二一七年、濡須で曹操の軍に相対した時、蒙衝(小型の駆逐艦)に乗っていた彼は、折からの強風に煽られて敵陣の側に漂着してしまった。乗り合わせていた兵卒は皆恐れて船から下りようとしなかったが、徐盛は単身陸に飛び移ると、居合わせた敵軍に突っ込んで壊乱させ、風が止んでから自陣へと帰還した。
孫権が魏に臣従する事になったとき、刑貞という人がその使者として孫権の元へやってきた。孫権らは丁重に刑貞を出迎え、刑貞は不遜な態度を見せると、張昭ばかりでなく侍していた徐盛までもが激怒した。しかも徐盛は「我々が身命を賭して国(呉)に尽くし、さっさと天下を併呑できないでいるから、我が君に刑貞ごときの下風に立たせる羽目になった。恥ずべきことだ」と憤激のあまり泣き出してしまった。刑貞はそれを聞くと「臣下がこの有様では、孫権もまた何時までも魏に臣従しては居るまい」と、同行の者に言ったという。
夷陵の戦いにも参加したが、戦後まもなくの二二三年に曹丕が総勢三十万にも及ぶ大軍を発し三路から攻め寄せてくると、徐盛は呂範や全琮とともに曹休に対抗した。曹休は徐盛の軍が寡兵と見るとそれに攻撃を加えたが、打ち破ることが出来なかった。これらの功績により安東将軍・蕪湖候に封じられた。翌二二四年も魏軍は再度攻め寄せてきたが、徐盛は長江沿いに長大な見せ掛けの防護壁を作らせ、その威容で戦わずして撃退するべきと献策し、その方策が採られることとなった。武将達はそれに疑念を抱いていたが、徐盛は意に介さず強硬に工事を進めさせると、果たして親征してきた曹丕はその偽防壁を見て驚き、さらには長江の水かさが増して渡航も難しかったため、攻めあぐねて軍を引いてしまった。これを見て、武将達も徐盛の計が正しかったことを認めたという。
義侠心に篤い好漢である反面、やや強情で、かつて蒋欽の指揮下にあった頃蒋欽を侮りその指示に従わず、蒋欽の部下と悶着を起こすなどの問題行動に及ぶこともあったが、蒋欽は彼の才覚を褒めて報復に出ることはなかった。徐盛も後に蒋欽に一目置くようになり、上官である蒋欽の指示に素直に従うようになったことが、蒋欽伝に記されている。
伝によれば黄武年間(二二二~二二九)に亡くなったとされるのみだが、恐らく石亭の戦い(二二八)には参加していない事が前後の記事から窺えることから、恐らくは二二五~二二七頃と推測される。


-狐野郎が曰く-

潘璋に朱桓、甘寧など、流血沙汰を通り越して部下やそれに類する者を平然と殺してしまうような問題児も多いが、徐盛はそれでもまだマシな部類になるのだろうか。蒋欽に牙を剥いていることが蒋欽伝にも見られるが、少なくともキレて蒋欽の伝令をぶっ殺してたりはしないみたいだし、後々徐盛も蒋欽に大人しく従っているようだが…演義では濡須口の戦い(二二三年のほうな)では総司令官で、正史でも語られている「偽兵の計」で曹丕をビビらせて戦意を失わせて散々に破っているが、その直前に孫権の秘蔵っ子孫韶が思いっきり牙抜いてきたから軍令に照らして処刑しようとしている。あれ…正史だと自分が蒋欽におもっくそ逆らってるよな…?
学三では正直再編纂の際に学三内の設定を書き留めて魔改造してなかった事で一から捏造している()人物もかなりいるが、徐盛も実はその一人で、ここでは「戦闘力」しか触れていないのだが、史実では二百人足らずの軍団(しかも兵士ではなく軍吏も混ざっていた)で数千の黄祖軍を撃退していることも併せて防衛戦で際立った戦績を残している印象が強い。ついでに地方官としてのワザマエも優れていたようだから、事績がそこまではっきりしては居ないとはいえかなりの傑物であったことが窺える。蒼天航路だと初登場からじいさんであったが、孫権が孫策の後継者となっていた頃にはそれなりに名の知れた人物であったことから、それなりの年齢だったと推測できよう。後継者についてもその話が残っていない当たり、恐らく子供が若死にしているなどで居なかったのかも知れぬ。当方でもちらほらその名前がSSで散見されるが、やや無愛想といった扱いでセリフも殆ど無いためキャラが掴みかねているのだろう。現在残っている作品内では、遺憾ながらほとんど背景に近い扱いかも知れぬ。