解説 楊儀


-学三設定-

荊州校区にいた帰宅部連合シンパの一人。
中等部の頃から「簿記ソフト要らず」とまで言われる程のずば抜けた事務処理能力を高く評価されており、襄陽棟を支配していた曹仁の元で運営スタッフに抜擢されるも蒼天会に尽力することなどかけらも考えておらず、速攻で襄陽を逃げ出して江陵の関羽の元へ出奔。関羽は楊儀に見どころを感じず劉備のところへ使者として送ったが、劉備と諸葛亮は楊儀の才能を非常に高く評価し、特に諸葛亮は馬謖に次ぐ程彼女を寵愛した。新たなメディア情報(主にアニメ)の収集能力はピカイチで、イベントに最高効率でサークル巡りをする際には欠かせぬ相棒として常にその傍らにあったという。
当然ながらその才能は課外活動でも遺憾なく発揮されたが、性格は非常に陰険で、諸葛亮に対しては従順で忠良であることをアピールするも、それ以外の蒋琬ら諸葛亮派閥のものには常に上役ぶって横柄に振る舞い、眉を顰められていた。やがてそれは派閥内のみならず実働部隊にまで伝播したが、同族嫌悪なのか魏延との関係は最悪と言ってよく、弁は立つくせに魏延に怒鳴られると口をつぐみ半べそをかいて逃げ去るということも日常茶飯事だった。諸葛亮は連合の「北伐事業」に楊儀・魏延何れを欠いても立ち行かないことを知っていたため、この二人の険悪な関係には常に心を痛めていた。
諸葛亮が連合を去ると、当然のごとく両名の対立が避けられ得ぬところとなり、諸葛亮は最後の策を費褘に託してまず魏延を除かせたが、同時に自分でなければ楊儀を制動できないことも知っており、楊儀も要職から遠ざけさせた。そしてこれも諸葛亮が予期した通り楊儀が不満を爆発させ、憚りなく新体制を批判し始めあまつさえ反逆を示唆する発言までし始めたため、階級章を剥奪されるどころか学外追放を勧告された。
楊儀は最後まで素直に従わず強制的に学外追放されたが、その転校先で魏延とばったり再会。紆余曲折あってやがてお互いを受け入れ、親友同士になれたとか、なれなかったとか…。


-史実・演義等-

楊儀 ?~二三五
字は威公、襄陽郡の人。
建安年間(一九六~二二〇)に魏の荊州刺史の主簿に任じられたが、楊儀はそれに従わず関羽の元へと走った。関羽は楊儀を功曹とし、劉備の元へ使者として送ったが、劉備は面談してその人物を気に入り、そのまま引き止めて自分の配下とした。劉備が漢中王になると、楊儀は尚書として抜擢されたが、劉備が帝位に就いて呉へ遠征した折、楊儀はかねてから尚書令の劉巴と不仲であったことから弘農太守に左遷されてしまった。
蜀の建興三年(二二五)、諸葛亮が自ら南蛮平定戦に赴くにあたり、楊儀を参軍に任命して軍中の事務を任せた。二二七年には諸葛亮に同行して漢中に入り、二三〇年には長史に昇進し、綏軍将軍の位を加官された。以降は諸葛亮の傍らにあって北伐にも常に参加している。
楊儀は劉備とも、軍略や国政について論じ合って、その才覚を劉備に愛されたが、諸葛亮の傍らにあったときも、常に綿密な計画を立てて軍を編成し、兵糧の計算も考えあぐねることなく、短時間で正確に割り出した。諸葛亮もまた、経理に通じた楊儀の才能を愛し、軍需物資の調達などの役目も楊儀に一任していた。しかし楊儀は、当時蜀軍きっての猛将であった魏延とは極めて仲が悪く、双方隙あらば相手を殺してしまおうというくらい険悪な関係だった。諸葛亮も魏延をさほど快く思ってはいなかったが、それでも魏延の武勇はその作戦上欠かすことは出来ず、また楊儀の事務処理能力も高く買っていたので、ふたりが不仲であることで常に心を痛めていたという。
二三四年、諸葛亮が遠征中に亡くなると、楊儀は全軍の指揮をとって帰還し、その際に楊儀の独断専行に不満を示した魏延を討たせた。このことで自分が諸葛亮の後釜になれると思い込んでいた楊儀であったが、都尉の趙正に吉凶を占わせると「家人」の卦が出たため、不機嫌になって黙りこくってしまった。その占いの示した通り、諸葛亮の後任として尚書令となったのは蒋琬であり、楊儀は中軍師として半ば閑職に近い職が与えられたのみであった。
諸葛亮は楊儀の才覚を愛してはいたものの、先述の通り楊儀の性格が悪いことを知っていたので、自分の後任を務めさせることは出来ないと考えており、その後継者を蒋琬に定める旨を平素から周囲に伝えていた。当然、後輩であり後方支援を主に担当していた蒋琬が急に自分の上に立ってしまったことに不満を示し、自分が長年諸葛亮の傍で激務をこなし、年齢も功績も大きいことを喧伝したが誰も彼もが楊儀を憚って取り合おうとしなかった。それを宥めようとした費褘にまで隠すことなく「丞相(諸葛亮)が亡くなった際に蜀を見限り、魏についておればこんな零落れることもなかった」と不満をぶちまけたため、とうとう官職を剥奪されて漢嘉郡に追放された。しかしそこでも不満を上奏文に認め、その内容があまりにも酷いものであったことからついに逮捕されて、楊儀は間もなく自殺した。二三五年のことであった。
「楚国先賢伝」によれば楊慮という兄がいたが、その楊慮は十七歳の若さで身罷ったものの徳行に優れ、江南の第一人者として諸侯からも引く手数多の俊英であったという。


-狐野郎が曰く-

狐野郎の中で妙に蜀の人物がおざなりに扱われる原因があるとすれば、その六割程度のウェイトを占めるのが楊儀だといっていい。ぶっちゃけるとかなり嫌いな部類の人物になる。三国志の最悪人間を五人選べと言われれば筆頭に郭図、時点に此奴の名をあげる程度には嫌いというか、正直大暴君として突き抜けまくってる董卓とは比べるべくもない。馬謖の件も含めて諸葛亮マジで人を見る目ねえな、というのも簡単なんだが、実は劉備も楊儀の資質を高く評価しているから能力そのものは優れていたことは間違いない。最初に左遷させられる原因となった劉巴も人間的には相当アカンタイプだが、この人に至っては劉備もブチ切れるほどの問題児だったんだからなんで楊儀をフォローしてやらなかったのかは謎な部分だ。もっとも、そうしてやったところで何処まで楊儀の末路が変わるのかわかりかねる部分だが。性格が災いしたとはいえ、こんな奴に殺された魏延が哀れなことこの上ない。
学三楊儀は魏延の項でも述べたとおり、デザインでもキャラコンセプトでも対になっている。魏延が七瀬なので、楊儀は広瀬真希と非常にわかりやすく、三国志を知らずとも(デザインの元ネタを)知っているなら一目で「この二人の仲は最悪だな」と感づくだろう。実際広瀬はポジション的にモブキャラに近いが、それでも七瀬シナリオになくてはならないサブキャラで、後年のKEYブランド作品に連なる作品群で見ても、ここまでわかりやすい「悪役」ポジションのキャラというのも実際珍しいから、その意味ではかなり貴重な存在なのだが。えっ「輝く季節へ」はTacticsだからそもそもヴィジュアルアーツと別会社だろって?こまけえことはいいんだよ!!!(