解説 劉璋
-学三設定-
かつて劉氏蒼天会を立ち上げた劉邦の一門で、魯の君であった劉恭の娘。劉恭は劉備の母親(あくまで自称)である劉勝の従姉妹であり、その意味では劉備とは親戚ということになる。従姉妹の劉焉が益州校区総代として権力をほしいままにしていた頃、劉璋はその後任ということで招かれて益州に入り、劉焉が長安棟襲撃事件を起こして失敗し失意のうちに学園を去ると、益州校区総代の座に就いた。
劉璋自身はお嬢様気質ののほほんとした温和な性格で、梟雄劉焉と異なり天下に号令するなどという大それた野望を持っていなかった。決して英邁とは言えず、さしたる善政を行ったわけでもないが、誰もが放っておけなくなると言う妙なカリスマ性を持っており、中央の混乱を避けた名士層や、中央での勢力争いに敗れたレディース「東州連合」の面々も益州校区へ身を寄せるようになった。そうした名士層の中には行政手腕に優れた者も少なからずおり、「東州連合」が黄巾党残党や他群雄勢力への抑止力となっていた事もあって、中央の混乱から縁遠い益州の治安は別天地という程安定していた。ただし「東州連合」は帰順したのちも己の武力を恃みにして得手勝手に振る舞い、劉璋自身も彼女らを怖がって必要以上に深く関わりたがらなかったため基本的には野放し状態で、また漢中アスレチックを中心に勢力を伸ばしていた張魯の「お米愛好会」や荊州の劉表勢力とも度々いさかいを起こしていた。
それでも益州の地の利もあってなんだかんだ独立を保っていたが、曹操が本格的に益州へ進出を検討し始めたことを知って、法正の進めにより劉備を招き入れたことで、彼女の運命は大きく変化する。劉璋自身は争いごとにも天下の覇権にも興味はなかったが、「東州連合」とそれに同調する一部があくまで劉備に抵抗した中で引くに引けなくなってしまった。お飾りの君主としてさんざんに振り回され精神的にも疲弊した劉璋は、「東州連合」が帰宅部連合の手により壊滅したこと、そして劉備歓待のパーティから仲良くなっていた簡雍が降伏勧告の使者に現れたことで無条件降伏を選択。以後は卒業までの短い期間、一般生徒として穏やかな学園生活を送ったという。
-史実・演義等-
劉璋 ?~二一九
字は季玉。父の劉焉は江夏郡の人で、前漢の魯王劉恭の末裔である。魯王恭は中山靖王勝と同じく前漢の景帝の子で、その意味では劉備とは遠縁の同族とも言える。
初め奉車都尉として洛陽にいたが、益州牧として権勢を振るっていた劉焉を咎める帝の言葉を伝える使者としてやってきた際、劉焉によって益州にとどめられた。劉焉は馬騰と組んで長安を襲撃したが、結局この反乱は失敗し、劉焉は多くの息子達を失い、失意のうちに一九四年に世を去ると、その跡を継いだ劉璋が益州刺史となった。
劉璋が益州刺史になって間もなく、荊州の劉表の部下が、朝廷に任命されてやってきた新しい益州刺史を担ぎ上げて劉璋を益州から追い払おうとしたが、逆に撃退されてしまった(なお「英雄記」には、このとき劉璋攻撃に参加した将の中に甘寧の名があり、甘寧がこの頃には劉表に仕えていたことが窺える)。
劉焉の代には漢中の張魯とは良好な関係を築いていたのだが、益州政権が代替わりすると、張魯は劉璋を侮ってその傘下に入ることを嫌がる態度を見せ、怒った劉璋は張魯の母親と弟達を殺害したため、漢中の五斗米道勢力とは仇敵の関係となった。さらに劉璋は周囲の讒言を真に受けて、父の代からの功臣を疑ったため反乱を起こされたりもした。劉璋はこの頃、南陽や三輔といった東方の地域から多くの流民が流れ込んできたのを受け入れ、そこから精鋭を選りすぐって「東州兵」という一大兵団を作り上げたが、この東州兵は規律が定まらず、度々民衆を傷つけた。しかし劉璋は生来の優柔不断さから取り締まれなかったという。正史では、こうした事例から劉璋には明晰な判断力が欠けていた、としている。
劉璋は曹操の勢力が巨大になると、別駕従事の張粛を派遣して貢物をすると、張粛は広漢太守に任命されて戻ってきた。後にその張粛の弟で、別駕であった張松が送られたが、今度は曹操に相手にもされなかった。張松はこのことで曹操に恨みを抱き、劉璋には曹操の悪口を吹き込んで、その上で劉備と懇意になるよう勧めた。劉璋もそれがもっともだと考え、黄権や王累といった忠臣の諫言を無視して劉備を益州に招きいれてしまった。劉備は劉璋から多大な援助を受け、張魯討伐を任されていたのだが、元々益州を奪い取る腹づもりだった劉備はそのまま益州を蹂躙し、あっという間に州都である成都は包囲を受けてしまった。成都城には三万の精兵と、一年は篭城で戦い抜けるだけの備えがあったが、劉璋は己がこれまで行ってきた痴政を大いに恥じ、使者としてやってきた簡雍の説得を待たずして城門を開き、劉備に降伏した。
この際、劉璋の臣であった鄭度は劉璋に、巴西や梓潼の軍民を移住させ、その地の田畑を焼き払い兵糧攻めにするよう進言したが、劉璋は「敵を防いで民を安心させると聞いたことはあるが、民を移して敵を避けるなどと聞いた事があるか」と怒って、その進言を退けたというエピソードがある。これは演義にも取り上げられ、劉璋一代の善行であるといえよう。
劉璋は公安に移され、荊州が孫呉に奪取されて間もなく死去した。なお、劉璋のふたりの子は呉蜀に分かれて仕える事となった。
-狐野郎が曰く-
演義でも正史でも「暗君」とされ、陳寿にも「英雄の器でもないのに、身に余る地位についていたので領土を狙われたのだから、(劉備に)土地も官位も総て奪い去られたのは不幸とは言えない」ストレートにこき下ろされている劉璋だが、「その性情は脆弱で愚かではあったが、善言を守った一面もあり、宋の襄公に類する人間である」とフォローする者もいる。実際降伏が間際に迫ったころに、焦土戦術による徹底抗戦を提言されても「国を治めるという道に反する」と突っぱねたことは、根が善人だったという証左と言える。宋の襄公もだが、乱世の君主として生きるにはあまりに凡庸過ぎただけで、張松と法正みたいに悪さばかりしていた連中だけでなく、王累や黄権のように最後まで忠義を尽くした臣下も確かにいたので、決して人間的魅力がなかったわけでもないのだろう。まぁ確かに、一時の感情に流されて張魯との確執を作ってしまったり、庇護した軍団の取締りが出来なかったことで旧臣に反乱を起こされたりというのは、フォローできない汚点ではあるのだが。
学三では、その益州政権での主力軍団となった東州軍団にスポットが当てられるようになったことで、劉璋もピックアップされるようなった…と見せかけ実は過去SSにも結構登場している。正史では簡雍は劉璋に気に入られていたそうだが、学三では逆に簡雍からも気に入られていたみたいで、簡雍が絡むSSには時折登場し「タマちゃん」のあだ名で呼ばれていたという設定も古くから存在していた。のだが、意外にも玉絵が存在しておらず、SSからイメージを膨らませて描いたのがここでの学三劉璋である。タマちゃんつながりでモデルは某有名少女漫画に登場したあの子である。ひねりも何にもないな。