解説 曹仁
-学三設定-
曹操とは直接血のつながりはないが、系譜上ではその従妹に当たる。中等部に入って間もなく、ただの憧れだけでレディースの世界に身を投じた彼女はその勇猛さと人柄で瞬く間に大勢力を築き上げ、華北校区でも恐れられるレディース「薔苦烈痛団」を結成、中等部の三年になる頃には「全校区夜露死苦番付」において北部唯一の夜虎痛奈級にランクされた「ヤンキーの中のヤンキー」。その戦闘能力とカリスマ性は凄まじく、「薔苦烈痛団」には中学三年生の彼女に対して心酔し臣従を厭わない上級生も多数居たと言うから相当な上等ぶりであったことをうかがわせる。ただし学業自体は真面目に授業を受け、ヤンチャするのは放課後や課外活動の間、休日の間に限られ、問題は多数起こしていたものの、他の問題児童への抑止力として学校側からも行動を黙認されていたようだ。
やがて曹操が旗揚げすると、幼馴染みとしての友誼から真っ先に馳せ参じ、そして「薔苦烈痛団」特隊は曹操直属の親衛隊「ピンクパンサーズ」と名を変えて常にその身辺にあった。「ピンクパンサーズ」の名は以後も曹氏の総領娘を守護する親衛隊として従妹の曹真や曹休に受け継がれていくことになるが、「薔苦烈痛団」と曹仁は曹操の主要な戦いにも多く参陣し、また曹操政権時代の後期には樊棟にあって周瑜や関羽の北伐に対抗した。特に長湖部との南郡攻防戦における、甘寧との上等の張り合いではお互いに数々の伝説を打ち立て合うこととなり、当初は曹仁に恐れをなしていた専属マネージャーの陳矯の心も動かし、その無二の忠誠を得るまでになった。ついでにその戦いで互いの上等ぶりに共鳴したのか、課外活動では立場上最大のライバルとして認め合いつつ、学外ではその甘寧とつるんでヤンチャしまくっていたという。
荒々しい面もあったが公私の線引きはきっちりと出来、レディース上がりのお約束として規則を破った者に対しての制裁も容赦なく行ったものの、本人も己を良く律してカタギ(一般生徒や一般市民)には決して迷惑を掛けず、かつ学園生活の最後まで上等を張り続けることを行動規範としたという。
最後は曹丕から「引退の花道」として押しつけられた濡須口大侵攻の方面郡大将として一軍を担ったが、曹仁は内心これが大失敗に終わることを察知しながらも曹丕の命令に逆らわず進軍。先陣を切ることなく後詰めに徹し、敗走する曹真・曹休の軍の撤退を張遼とともに支援しつつ殿軍として被害を最小限に抑えた。当人は「とんだ引退戦だった」とぼやきながらも、最後の最後まで第一線に立てたことに満足して引退、卒業していった。彼女の子飼いの部下であった牛金はその後も「薔苦烈痛団」を率いて各地を転戦し、その名を汚さぬよう奮戦したという。
-史実・演義等-
曹仁 一六八~二二三
字は子考。曹操の従兄弟に当たるが、夏候氏ではなく曹騰の血縁に当たる系図上の従兄弟である。
若いころから弓馬の術や狩猟を好み、群雄割拠の世に入ると彼もまた若者を集めて挙兵し、淮水周辺を暴れまわっていた。その後曹操の部下となり、後に袁術征伐に随行すると曹仁が討ち取ったり捕縛した敵兵はかなりの数になったという。曹操最大の汚点ともいえる徐州討伐戦の時は騎兵を率いて先鋒を務め、徐州刺史陶謙の送り込んできた守備の武将たちを当たる端から撃破して回った。その後、呂布や張繍の討伐にも参戦し、曹操からはその勇気と知略を高く評価された。
官渡の戦いの際、汝南に潜んでいた劉備が曹操軍の後背を脅かそうとする気配を見せると、曹仁は願い出てその討伐に赴き、劉備の軍を撃破するとそれに呼応して反旗を翻した郡県もことごとく平定した。その後、官渡の決戦場に舞い戻った曹仁は、袁紹が曹操の背後を脅かすために放った別働軍も壊滅させ、さらにはあべこべに袁紹軍の兵糧庫を壊滅させるという抜群の働きを示した。
曹操の南征が失敗に終わると、曹仁はその後詰めとして江陵にとどまり、攻めあがってきた孫呉軍を迎撃した。このとき、先制攻撃に出た副将の牛金が包囲を受けて全滅寸前となった。曹仁は長吏の陳嬌らの諫言を跳ね除け、直属の軍団と共に包囲軍に突撃して見事牛金らを救い出した。このときの曹仁の戦いぶりは凄まじいもので、帰還した曹仁の姿をみた陳嬌は「将軍はまさしく天上世界のお方だ」と感嘆のため息を漏らしたという。最終的には江陵を失うこととなったが、曹操も曹仁の活躍を高く評価して、彼を安国亭候に封じた。
馬超との戦いに際しては行安西将軍として潼関の地で防衛軍の総指揮に当たり、渭水での決戦の際には渭水の南で関中軍閥の軍団を壊滅させる活躍を見せた。次いで荊州の情勢が不安定になってくると、曹操は曹仁を行安南将軍に任じ、仮節を与えて樊城に駐屯させ鎮撫に当たらせた。宛で反乱を起こした候音を討伐すると征南将軍に任じられ、それから間もなく関羽の北上に対抗することとなった。
折りしも漢水が氾濫し、その影響で樊城の城壁高くまで水が押し寄せ、関羽率いる荊州の水軍に包囲された樊城には兵糧の蓄えもなく、救援も望めない状態となってしまった。曹仁はこの絶望的な状況の中でも、満寵と共に将兵を激励して耐え、水が引き始めたころにようやく到着した徐晃の軍が到着し、時を同じくして江陵城が呂蒙によって攻め落とされたことで関羽を退却させることが出来た。曹丕が帝位について間もなく、孫呉の手に落ちていた襄陽の奪回に功績があり、大将軍に任じられた。次いで大司馬の位にまで昇ったが、孫呉攻略の遠征が失敗して間もない二二三年、曹仁は任地で世を去った。享年は五十六歳。
曹仁は若いころは素行が悪かったが、武将として世にでると厳格に法律を守るようになり、長じては常に法律の条文を傍らにおいて行動の規範とした。曹丕は烏丸征伐に赴く弟・曹彰に「大将として法規を遵守するのは、征南将軍(曹仁)のようでなくてはならない」と訓戒したという。また、ある書物によれば曹操軍中、曹仁が武勇第一であり、張遼はそれに次ぐとされる。だが演義では噛ませ犬の役回りが多く、正史準拠でなおかつ曹操を主役にした「蒼天航路」においても、中盤では劉備や張飛から「ヘボ将」呼ばわりされるなど散々な扱いを受けているなど、どうも創作においては過小評価どころじゃないほど酷い目に遭わされている傾向にある。また、2ちゃんねるの三国志・戦国板においては名AAキャラクターである八頭身モナーをパロディした「八頭身曹仁」というものが生まれ、同板の名物キャラクターとして扱われている。
-狐野郎が曰く-
演義では徐庶のデビュー戦でけちょんけちょんに叩きのめされる曹仁だが、何故か「蒼天航路」ですらその扱いはあまりよろしくない。登場当初でも惇兄のほうが余りにも派手というか、なんというか中盤以降の扱いのひどさは「花の慶次」における槍の又三こと前田利家に匹敵する扱いのひどさである。樊城攻防戦は方面軍の大将として申し分ない大活躍をしていながらも、陣中にひょっこり顔を出した夏侯惇に散々からかわれたりしている始末。樊城戦直後の陣幕のシーンは、あの作品におけるヒエラルキーが曹操>夏侯惇>曹仁と決定づけられた迷シーンだろう。正史では張遼を差し置いて魏最強の武将なんて言われてるのにな。
学三では陳矯とのエピソードを書いた人が居るのだが、実はこの時の陳矯のセリフは正史に元ネタがある。曹仁の人並み外れた武勇と、戦場に取り残された部下を決して見捨てないその姿に「まるで天上の人のようだ」と感動するくだりは、正史陳矯伝に記述があるので詳しい解説はそちらに譲ろう。正史と演義を含めた創作でのギャップがもっともでかい人かも知れないが、実は「三国無双」の曹仁だけはそんな正史の彼に近い、貴重な例なのかも知れない。何しろ三戦板で「八頭身曹仁」というなんとも言えない扱いをされていながら、なんだかんだ愛されるのも彼の人徳の成せるところなのだろう。多分。なにしろ(本当かどうか知らないが)「八頭身曹仁」を切欠に曹仁が好きになった、なんて人が居たぐらいであるし。
学三では「蒼天航路」が準拠らしいが、「蒼天航路」のダメな描写だけを斬り捨てて、そこに上等成分をうまく加えたキャラクター付けが成されている。先に述べたとおり、どちらかというと優等生タイプの陳矯の心を大いに動かしたSSは名作である。でも何気に学三の世界にも「八頭身曹仁」って存在するとか何とか…どうせ曹操の仕業なんだろうなそれも。