解説 鄧艾


-学三設定-

荊州学区出身の少女。
生来の吃音症で友達もなく、むしろ同年代からはそのことでいじめにあったりもした。そのせいか一人で野山に出て「地図」を書き、地形を観察していることが多かった。周囲は彼女を変人扱いしてあざ笑ったが、その地政眼を荊州校区総代・司馬懿に認められ、やがて天水棟に配属された彼女は、当時の雍涼校区兵団総括の趙儼や、その直属の部下であった陳泰・郭淮らの知遇を受けた。有能な先輩についてその知識を貪欲に吸収し、一方で生来の地政眼を活かしてアウトドア関連のサークルで責任者を務めて頭角を現した彼女は、やがて「学園最高の名将」と誰もが認める存在になった。
帰宅部連合を覆滅する総攻撃の際は鍾会と二路に別れて侵攻し、「踏破不可能」といわれた漢中アスレチック西部の断崖絶壁を毛布にくるまって転げ落ちるという荒技で突破。当時最高といわれた指揮手腕を存分に発揮して要害の綿竹棟を落とし、成都棟を一気に制圧した。
だがここにきて有頂天になった鄧艾は数々の越権行為を働いてしまい、そこを鍾会に漬け込まれて「反逆者」として身柄を拘束された。この際、実際洛陽へ護送途中だった彼女はまだ階級章を有していたのだが、鐘会失脚の隙に実権を握ろうと野心を表した衛カンは、ある事件から鄧艾を嫌うその元部下の田続を唆して鄧艾を闇討ちさせてしまった。
吃音から来る人見知りする性格だったこともあり、強情で頑固な奴と誤解されることも多かったせいで周囲からは眉をひそめられることの多かった鄧艾だが、元々友達が少なかった反動か部下をよく面倒を見ていたため人望はかなりあったらしく、その事件の真相を知った杜預が衛カンや田続を公式の場で散々に非難するという一幕もあった。そうした者達の運動もあって彼女の冤罪も間もなく証明され、晋生徒会初期の名将として名を残した。


-史実・演義等-

鄧艾 一九五?~二六四
義陽郡棘陽県の人。字は士載。元々は名を範、字を士則と名乗っていたが、のちに一族の中で同じ名前をつけたものがでたので、彼は名を艾、字を士載と改めたという。
生来吃音だったため、仕官はしたものの文書管理の仕事に就くことが出来ず、農政を司る役目に就いた。生来変わり者だったらしく、高い山や沼地など変わった地形を見ると軍営設置にどこが適当かなど図面を描いたりするような面もあった。こうした鄧艾の行動を周囲の者は嘲笑ったが、後に栄転して都に赴いた際、司馬懿は鄧艾と面会してその才能を高く評価し、召し出して尚書郎に抜擢した。
鄧艾は都にあって、当時政策としてとられていた農地拡大の為に論文を書いてその方法を述べた。それに基づいて建築された運河は二四一年に完成し、そのおかげで軍船を使った移動がスムーズに行えるようにもなり、河川の氾濫も防ぐことが出来るようになったという。やがて軍官として地方に出て、二四九年には征西将軍郭淮の元で姜維の北伐に対抗した。鄧艾は以後も地方に出て、各任地では荒野を開墾し、軍民を豊かにさせた。毋丘倹・文欽の乱や諸葛誕の反乱、その後も頻発した姜維の北伐には中心的な武将として参戦し、見事な作戦を立ててそのことごとくを平定した。
二六三年、ついに詔勅により蜀への侵攻が開始された。初め、攻めあがってきた姜維の軍をけん制してその退路を断とうとしたが一足違いで間に合わず、剣閣に立て篭もった姜維の軍を、鐘会と共に攻撃したが打ち破れずにいた。鄧艾は道は険阻なものの手薄な陰平方面から攻めるように進言したが、結局陰平へは鄧艾の軍のみが向かうこととなった。鄧艾は手薄な江由城方面から攻め込み、綿竹に立て篭もった諸葛瞻の軍を苦戦の末撃破すると、蜀朝廷は降伏の使者を立てて鄧艾の元へ送った。こうして、蜀は鄧艾の手によって滅ぼされることとなったのである。
鄧艾はこの功績により太尉に任じられたが、鄧艾は蜀討伐の功績に浮かれたのか横柄な振る舞いが表面に出ることが多くなった。劉禅を勝手に王に任命するなど越権行為も多く、その上で呉討伐を執拗に進言するなど司馬昭を困らせ、司馬昭が「これはまた後から指示する事だから、簡単に行動を起こしてはならない」と戒めたが、尚も鄧艾は呉の早期制圧を訴え続けた。鄧艾に先を越されたことで心中穏やかでなかった鐘会らはこれを論って「鄧艾に謀反の意思あり」と吹聴し、鄧艾を護送車に載せた。洛陽に送還される道中、鐘会はクーデターを起こそうとしたことが事前に発覚して殺され、鄧艾の部下たちは鄧艾救出に向かったが、衛カンは罪人として護送中の鄧艾が助け出されたことを反乱行為と断じ、田続に命じて鄧艾らを攻め殺してしまった。田続は陰平街道からの行軍の際、鄧艾を諌めようとしてその怒りを買ったことを恨んでおり、衛カンは彼を送り出すとき「その屈辱に報復するが良い」と言ったといわれる。
強情で我の強い性格であった鄧艾だが、後に晋による天下統一の立役者となった杜預など彼を慕うものも多かった。そうした人々の働きかけもあって、鄧艾が非業の死を遂げた九年後の二七三年、詔勅が下って公式に鄧艾の罪は取り消され、嫡孫に当たる鄧朗が郎中として召しだされた。
また余談だが、後世では吃音の人を励ます例えとして彼のことを引き合いに出すなど、「演義」では悪役扱いな晋陣営の所属者としては好意的な扱いをされていることでも知られる。


-狐野郎が曰く-

実はわりと狐野郎が好意的に捉えている人物で、「SUPER三国志」やってたときにはいち早くコイツの出る漢中を抑えにいってたりする。ちなみに実際は漢中どころか荊州出身だと知って「あれ?」と思ったのはその十数年も後の話である。ちなみに意外と人望があって、部下だった樊震が涙ながらに司馬炎に鄧艾の無罪を訴えたとか、「破竹の勢い」で有名な名将・杜預がなんか知らんけどメチャクチャ鄧艾を尊敬して慕っていたとかいう話を知ったのも後年のことである。あれっ一体何が良くて俺は昔から鄧艾を推していたんだ…?
逆に彼を無実の罪で滅殺して自滅したマザコン野郎鐘会は大ッ嫌いなんだが、とはいえ鄧艾自身も蜀滅亡の後、調子に乗って「姜維よりも自分が優れていたから、姜維は北伐を達成できなかった」だのと自慢しまくったり、司馬昭のいうことも聞かずに呉征伐を繰り返し訴えたりと、まぁ原因はあったのは仕方ないんだが…鐘会はこれまたヘンな野望を抱いたために姜維諸共共倒れになってざまあwwwみたいな一方、助かったと思ったら何故か衛カンの野郎が何を恐れたのかさっさと鄧艾を殺させているとかこいつもなにを企んでいたのやら、と思わせる。その衛カン、このとき彼が田続に言った言葉を人伝に聞いた杜預が「身は名士に列し、高い地位を得ながら正義によって部下を統制することもしない。これは小人が君子の皮をかぶっているに過ぎず、いずれ殺されるのだろうな」ブチギレ金剛状態になったことでびっくり仰天、大急ぎで杜預の元へ行ってドゲザしたかは知らないがめっちゃ謝ったらしい。まあこいつも杜預の言葉通り三十年ほど後に誅殺されるんだがこれはインガオホーっちゃインガオホーなんだろうな。
玉絵版だと、恐らくはコーエーの「三国志顔グラ、あるいは横山光輝の「三国志」で登場したときの鍔広帽子みたいな兜のイメージなのかサンバイザー装備なのはこちらで再現したとおりだが、髪の色は緑色。実はこれ二次創作的な話でとあるキャラと関連づけるべく、ここでのカラーリングだけは大きく変えたという背景がある。あとアホ毛付けたり。というかこのアホ毛だけで誰と関連づけようとしたか解る人はまずいないと思うが。